part8
「玖音はいるんだろ」
しきりの向こう側へとそう声を投げかけた。
真昼はいないかもしれないが、お酒を飲んでいない玖音ならばおそらくは残っているだろうという推理だ。
「はい、いますよ」
一拍おいて玖音が返事をする。まさか男湯のほうから声をかけられるとはいくら玖音でも予想していなかったはずだ。そのため、驚いたのだろう。声は少し上ずっていた。
「真昼は出て行ったか」
「出ていきましたよ。彼女もお酒が回っていましたからね」
「未成年なのにお酒をたしなむなんてな。いけないことだし、僕らが窘めるべきなんだろうけど、そういうところが逆に真昼らしくて注意できないんだよな」
破天荒、猫のように気ままでそれが好ましく思える一面を持つ真昼にはなあなあで許してしまうことが多い。
「体にもきっと悪いんでしょうけどね」
「良くも悪くも享楽的すぎる。今回のスキューバダイビングだって確か真昼が中学生のときの趣味でそれも一か月と続かなかったらしいし」
人並み外れた器量を持つ真昼はすべてをすぐに完璧にマスターし、そしてすぐに飽きてやめてしまう。
それを見て他人はうらやむかもしれない、妬むかもしれない。そして徐々に孤立していく。
その反応を見て真昼は表には出さず、人知れず枕を濡らす。
そんなやわな、殊勝な女では真昼は決してない。むしろそれを小気味よく思い、さらなる格の差を見せつけていく。みずから他を排斥していく。孤独ではなく孤高、それが彼女、望月真昼という人物だ。
実際、葵は真昼が学校で葵と玖音以外の人物と親しげに会話している姿を見たことなかった。幼少のころより何周りも年上の大人と真剣に対峙する機会が多かったせいだろうか、同年代相手では価値観が異なることが多いのだろう。
しかし、玖音にはそれ以上の才覚を発揮できる分野が、葵には真昼のそれが利かないほどの嬰児のような純粋さを持っている。それは葵が悪を、人間の汚い部分を知らない温室育ちということでは決してないということは誤解してはいけない。
「高校生のうら若き男女が頼りない竹垣一枚隔てて生まれたままの姿でいるというのに違う女の子のことばかりですか、そうですか」
あからさまに芝居かかった口調で玖音はいう。自身でうら若きと形容するあたりばばくさい。
「不機嫌にならないでくれよ。俺は方時だって玖音以外の女に思いを馳せることは無いんだぜ」
玖音の芝居に葵は乗った。
普段使わない俺という一人称を使い、喋り方だって変えて見せた。
普段はこんな気取った喋り方はしなかったため、恥ずかしさに顔を真っ赤にさせた。そしてそれを鎮めるため深くまで湯船につかった。
こんな姿を見られなくてよかったと葵は思った。真昼あたりに見られてしまえば長いこと笑われること間違いなしである。
たっぷり二、三分の沈黙が流れる。
葵が息が苦しくなり湯から顔をあげ、呼吸を落ち着かせてもなお余りある時間だった。あまりに長い沈黙だったため、この瞬間に玖音に何かあったのではと心配になり、女湯に突撃することを考え始めた時だった。
「き、気障っぽいセリフが妙に板につきますね。もしや本業の方ですか」
玖音にとっては精一杯の返しだったのだろう。
しかし、残念かな。葵はすでにギアが入っており、また加減も知らなかったのだ。
「今日は月がきれいだからかな。いつもより口が滑るんだ」
日本国民であるならだれでも知っているであろうその口説き文句。いわく、夏目漱石がI love you を日本人の奥ゆかしさに合わせて和訳したものであるという。
無論、葵はそれは知っていた。狙っていたのであるが。
葵は後悔した。先よりも勝る恥ずかしさもその理由ではあるが、親友とはいえ、彼女はうら若き乙女である。花も恥じらう可憐な少女であるのだ。冗談でこういうことを言ってはいけなかったのではと。
葵の底抜けの善性がそう語りかけてくるのだ。けれど、覆水盆に返らず。言ってしまったものは変えられない。
それこそ、冗談、冗談と笑ってごまかしてしまっては失礼であると。何かいい方法は無かろうかと葵は考え、沈黙した。
両者の間に冷たい沈黙が流れる。
今度は葵も本気で考え込んでいたからどれほどその沈黙が流れたのかはわからない。五分以上だったかもしれない。
「……り…す」
「なんて」
「上がります!」
ものすごい剣幕だった。玖音のその声が風呂場にこだまするほどに。
葵はこんなにも玖音が大きな声を出し、感情をあらわにするのを見るのはかなり久しぶりのことだった。いや、ここまでのはなかったかもしれない。
そのため、葵は面食らい、少し放心してしまった。
こだまする音の後、ざぶーんという波が荒ぶる音が聞こえた。玖音が勢いよく立ち上がったせいなのは間違いがなかった。
ペタペタという足音をきっかり最後まで聞こえてきた。
本来であれば、男湯のほうにそんなに足音は聞こえてこないだろう。玖音が力を込めて床を歩いている証拠である。
また、ガシャンという音も聞こえてきた。これも玖音が力いっぱいに戸を開けたことの証明である。
「ふふ」
葵は笑わずにはいられなかった。もちろん玖音をからかってしまい、怒らせてしまったことは悪く思っているし、罪悪感だってある。けれどそれは玖音だって同罪である。もともと玖音から始めたことである。
玖音のこんなに珍しい姿を見られた、否聞けたのなら、恥ずかしい思いをした甲斐もあったと葵は思った。