part4
小船が水面にゆらゆらと浮いていた。借りたのかもともと所持していたのかは不明だが、いったい、いくらくらいするのだろう。百万は下らないように思うが、全くの素人の玖音にはいくら考えても仕方のないことだ。確かなのは自分が船を借りることも買うことも一生ないだろうことくらいである。
ちなみに船の操縦者は良である。彼はダイビングよりも船などの機材とかを好む性のようで嫌な顔一つせず操縦を請け負っている。こういう時の役回りは決まっていたのだろう。非常に素早い準備だった。
そして、その妻は今日は潜らないようである。そういう日だったのかもしれない。
「僕たちの付き添いがあるからといって、佐原さんと物部君はそう深くは潜ってはいけないよ。深く潜るにはライセンスが必要なんだよ」
「悪いね」と、久我。
「僕たちは気にせず、楽しんできてくれてもいいのですよ」
葵の言う通り、ぷかぷかと船に揺られながら日向ぼっこというのも乙なものである。
「いやいや、人に教えるってのは案外楽しいものだよ。初心者大歓迎」
「そして」と久我は一拍おいて。
「最初に基本的なハンドサインを教えておく。海の中じゃあ当然喋ることは出来ない。命に関わることだからよく聞いておいて」
そして、久我は玖音たちに耳抜きや異常あり、浮上します、潜行します等の基本的なハンドサインを玖音たちに教えてくれた。
きちんと安全に楽しめるだろうか。少し不安になってきたが、それ以上に楽しみに思う気持ちのほうが強く胸に渦巻いた。自分でもアウトドアに興味を持つのは珍しいことだと思うが、水面にうつる世界はまるでひとつのアステロイドのようでさしもの玖音でも心躍らせるものだった。
「これで以上だけど、何か質問はある」
玖音は頭を振ったが、葵は遠慮がちに手を上げた。
「じゃあ、ちょっとした希望なんですけど、僕は伊藤さんに面倒を見てもらえないでしょうか」
「え、俺」
デッキにせもたれていた伊藤が素っ頓狂な声を上げて、甲板の柵から持たれかけていた背を離した。瞬間、デッキにとまっていた一羽のウミネコがにゃあと声を上げながら群れへと帰っていった。
「はい、気さくな方ですし、いろいろ教えてもらいたいです」
「一番詳しそうですし」とご丁寧にウインクまで付け足した。
すると、伊藤は分かりやすいように、頬が紅潮し、喜んでいるのが見て取れた。
「お目が高い! スキューバダイビングの手取り、足取り、イロハからきっかりおしえてあげよう」
相変わらず人とのコミュニケーションが異様にうまいやつである。すでに伊藤雄二の扱い方を理解していた。
サークルの面々はちょろいやつだなとでも思ったのか苦笑を浮かべた。玖音もちょろいなと思った。真昼は気にも留めない様子で柔軟に準備体操を始めていた。甲板に座り込み股を広げ、ぺたと甲板に体を密着させる。すごっ。
「それじゃあ、玖音のほうは私が主に面倒を見るわ。ここまで来て一人で楽しむというのも味気ないものだもの」
目をつむりながらくいっと背伸びをしながらそういう真昼。ありがたい、正直知らぬ人と仲良くするのは苦手なのだ。
「それじゃあ、僕らは時折、そちらに遊びに行くけれど、基本的に不干渉で行こうか」
最後に久我がそう締めくくった。
海は澄み渡っており、海洋生物がまるで闊歩するかのような世界だった。人間である故に彼らと根本的な生物としての構造が違う自分は異質な感じがして新鮮であった。
玖音は予想していたよりもしっかりと楽しめたことに軽い満足感を覚えた。年がら年中していたいとまでは思わないが、一年に一度くらいは体験していきたいものだとは思った。
「本当にきれいでしたね」
玖音は海から船へと上がり、素直な感想を口にする。一緒に潜っている最中は当然にしゃべることは出来なかったのだ。玖音が思うにスキューバダイビングは映画に似ていると感じた。映画館では勿論喋ることは出来ない、出来ないというかしてはいけない。映画の後に適当に入ったレストランであれこれ語らうあれに通じるものがあるのではないのだろうか。
「そうね。久しぶりにしてみると、当時とはまた違った感想を抱いたわ」
「あのクマノミの大群にはとても心動かされました」
月並みな感想だが、クマノミは可愛い。今度、あれ見よう、あれ、あの映画。
「そう。私は珍しいものを見れてよかったわ」
この島には他では生息しないような珍しい生き物が多くいるらしいが、玖音にはそれらの違いはよく分からない。おそらく玖音が良いと感じているものは表面的なもので氷山の一角なのだろうが、それで構いやしない。コーヒーだってインスタントも真昼の持ってきた最高級のやつでも違い何て判らなかった。葵の驚いた顔は今でも忘れられない。彼、素直だから彼にそういうことされるとからかいでもなく本心なんだって滅茶苦茶傷つくんだよなあ。紅茶ならもう少しわかるのに。
しばらくして、葵と伊藤が船へと上がってきた。
「まさかイルカまで見ることが出来るなんて思いもしませんでした。イルカの方も僕に触らせてくれたし、明日もできれば会いたいところです。本当に引率ありがとうございました、伊藤さん」
「いやいや、このくらい当然だよ」
全く形だけの謙遜である。伊藤は殊更まんざらでもなさそうに笑った。
「葵、イルカと会えたんですか?」
「まあね、人懐こいイルカだったみたいでいっぱい触らせてくれたよ」
「それは羨ましいなあ、私も出来ることなら触れてみたいです。明日、会えた場所に連れて行ってくれませんか?」
「連れていくのは構わないんだが……」
頬を少し引きつらせながら歯切りの悪そうに言葉を濁す伊藤。玖音はおそらく伊藤の言いたいことを理解したので先に断っておく。
「確かに、明日イルカが同じように来てくれるとは限らないですよね。私としてはそうでなくても行きたいと思っています」
「いやまあ、それもそうなんだが」
どうやら玖音の懸念は伊藤のそれではなかったようだ。
「他に何か理由でも?」
玖音がそう尋ねると伊藤は頬を指で掻きながら答えた。
「当たり前のことだが、俺もイルカに遭えたんだよ、彼と一緒にいたからな。でも、俺には触らせてくれなかった、逃げられてばかりさ。あんな至近距離でイルカに遭えたことなんて無かったから俺にも触らせてほしかったんだがな」
「ああ、それは残念でしたね」
確かに葵と水族館やら動物園には学校行事含めて何度か行ったことがあるが、それこそお釈迦さまのようにきれいに彼の周りにそれらが群がる様を見たことがある。確かにそれなら玖音が行っても無駄かもしれない。とはいっても玖音の中では行きたい気持ちが先行していた。玖音の好きな動物は一番がラッコで二番がイルカであるくらいにはイルカへの好感度は高い。




