part14
3 見間違う
八月三十日、世間では大半の学校が夏休みを終え、生徒の多くが自堕落な夏休生活と学校とのギャップで苦しんでいるであろうその日、佐原清は暑さのために額をにじませ、背広のポッケからハンカチを取り出し、その滴る汗をぬぐう。
最近彼もこういう仕草がいやに似合ってきたと自覚していた。
こうもおじさん臭い仕草が板についてきたことにまだ二十四という若さであるのにと嘆くべきか、貫禄がついてきたと喜ぶべきか測りかねていた。
右手で額の汗をぬぐい、左手には駅前で買ったどうやら行列ができるほどに人気らしいシュークリームの箱をしっかり握りしめ、目前の望月学園を睨む。
彼としてもここに来るのには少し抵抗があった。
彼が、警察が手をこまねいている難事件を妹とはいえ、無関係な一般市民にどうか解決しておくれと頼み込むのは褒められたことではないからだ。
実際は妹がいつもきっかり事件を解決させてしまうものだから、警察本業としての自分のちっぽけな自尊心が傷つくのが嫌だからである。
加えに、彼女はわりに清をなじる。
ここも兄として自尊心をさらに削ることにもなるのだ。
さすがに事件解決と自らの自尊心を天秤にかけて後者を選ぶ彼ではないので素直に妹に頭を下げる。
けれど嫌なことでばかりでもあるまい。
久しく見なかった彼と会えるのだ。
小さなころから目にかけている彼は清にとってもはや弟に等しかった。
というか妹の働き次第で本当に義弟になるかもしれないが。
これは彼女は知らない話なのだが、実は彼は彼女と知り合う前よりもずっと前に清とは知り合っていた。
清は厳重な門の前に立ち、プレハブの中で小さなテレビに阪神vs巨人の試合をつけ、これでもかという風に応援している初老の男性の警備員を見つける。
職務放棄の最中だったらしい。
よくもまあクビにされないものだ。
「すいません」
清はそう老人に声をかける。
けれど、つるっぱげの頭部に(プレハブの中にいるのだから冷房が利いてるだろうに)清以上に汗を浮かべ、肩にかかるタイガース色のタオルがあるにもかかわらず、汗をぬぐうのも忘れて見入っている彼はこちらに気づきそうもない。
全くにどうでもいいことだが彼は阪神ファンらしい。
一応は巨人ファンの自分とは相いれないかもだ。
「すいません」
今度は確実に聞こえるように大きな声でそう呼びかけた。
すると彼は面白いようにびくっと体を上下にさせ、こちらを向きすり寄ってくる。
「これは……その勘違いといいましてか、たまたまなのでして……どうかクビだけはご勘弁を。こんなに美味しい仕事ほかにはないんですわぁってまたあんたかい」
随分なものだ。
それは彼の性根のことでもあるし、清に対する物言いのことでもある。
清もこれにはさすがに少しむかっとした。
清はこれから恥を忍んで妹に頭を下げに行くというのに、彼は職務放棄をして清への物言いもこのようである。
「刑事である俺に職務放棄の姿をばっちりとみられてよくもまあそこまでふてぶてしくいられますね」
「俺は公務員じゃあないからな。この場合あんたの力よりも望月学園長の力のほうがよっぽど大きい。国家権力に挫かれる俺じゃあないのさ」
ふてぶてしい発言だが彼の言うことは正しい。
望月学園は私立であるからだ。
「それならあなたも知っているでしょう。これから俺が向かう先にはその偉大なる理事長の娘がいることを。告げ口してやろうか」
「仮にも刑事が強請だと! 勘弁してください」
テーブルの上にその禿がつくほどに気持ちのいい謝罪だ。
そんなことを目上の彼にさせるわけにもいかず、すぐに頭を上げさせる。
冗談もこのくらいにしておこう。
これまで二、三回ほど彼とは顔をあわしたが三回りは年下であろう清にこういう風に冗談をしてくれる気前のいいおっちゃんだ。
一応清は首許にかけられた入校許可証を彼に見せる。
あの子に無理を言って貰ったものだ。
「あんたは顔パスでいいんだけどな」
「そんなわけにはいきませんよ。そんな杜撰なことしてたら本当にクビになってしまいますよ」
「そりゃあいけないな」
彼はにこりと歯を見せ笑った。
といっても彼の歯は両手で数えられるほどしかなかったが。
最後に彼に軽く頭を下げ、目的の教室へと向かう。