第8話 荒野に生きて
§1 イジメっ子
治療院へ立ち寄った。
秋が深まり、四国の山々も色づき始めている。
隆が少し咳をしているのを見て、鍼灸師は隆をベッドに上げた。
鍉鍼という太い、先の丸い鍼で隆の手足を軽く刺激している。
「ねえ、先生。前に、子供のころ河童やツチノコをイジメたって言ってたけど、先生もイジメっ子だったの」
隆の声は明るかった。
「うーん。悪い子だったなあ。平気でヘビなんか殺してたし、河童やツチノコは見かけると、石をぶつけてたなあ、可哀そうなことしたよ」
「目が見えないことで、イジメられなかった?」
漣と明子は、二人の話の行方が気になってきた。
「おじいちゃんが目の病気になったのは、四〇歳の時だよ。子供のころはよく見えてたよ。おじいちゃん、頭が大きいだろ。才槌頭っていってね、前と後ろに飛び出している」
漣も明子も、鍼灸師が長髪の白髪なので、これまであまり意識したことはなかった。
§2 あるあだ名
「おじいちゃんが子供のころ、テレビでプロレスが放送されていて、おじいちゃんは上級生にプロレスの技をかけられたなあ。あれも、イヤだった。ある時、その子がおじいちゃんの頭を見て言ったんだよ。
『こいつの頭、広島のキノコ雲みたいやなあ』
って。みんなが笑った。みんなにウケたので、その上級生は得意そうだった。それから、おじいちゃんは『原爆』ってあだ名を付けられた。イヤがると、ますますからかわれる。学校の先生にも、からかう場面を笑ってみている人がいた。一人として、イジメっ子に注意する先生はいなかった。
おじいちゃんはそのうち本で広島と長崎に落とされた原子爆弾のことを調べた。たくさんの人が殺されたと知った。よりによって、そんな大量殺人兵器を人のあだ名に使うとは! そのことに対する怒りが強かったなあ。
『なんという程度の低い人間たちなんだ! こんな連中と同じ空気を吸って生きていかなければならないとは…』
そう考え、誰も踏み込んでくることのできない、自分だけの世界を持つことにしたんだ」
§3 取り返しのつかないこと
「そうだったのですか。イヤなことを思い出させたようで、ごめんなさい」
明子はお詫びした。
「いいんですよ。恥ずかしながら、私だって、イジメっ子だった」
鍼灸師は隆をベッドに腰かけさせた。これから、背中の治療に入るようだ。
「自分がイジメられていたから、反撃される心配のない子を選んで、集中的にからかったのです。憂さ晴らしです。ある日、その子のお母さんが教室に乗り込んできて、私は初めて、その子がどんなに傷ついていたかを知った。今でもそのことに気づかせてくれた、あのお母さんには感謝しています。もちろん、その子には、取り返しのつかないことをしたものです。いい意味でも悪い意味でも、人間は感情の動物です。心しておかなければいけません。この年になって、ますます、そんな思いを強くしています」
鍼灸師は隆をベッドから下ろした。
「よし。森の仲間が待ってるよ」
鍼灸師とエヴァンが庭に出て、見送ってくれた。
漣は民宿へとクルマを急がせた。おじいさんの母校の下を左折すると、松尾川の渓流が目と鼻の先を流れる。
三人は黙って渓流の音を聴いていた。
§4 高校中退
関西からの宿泊客だった。高校生の年頃の少年を連れていた。
父親と少年が先に露天風呂に行った。漣は発電機の見回りがてら、同行した。
「息子が家にばかりいて退屈しとるようなので、連れ出しました」
語る母親は、明子より少し年上の感じがした。
「学校は?」
明子が訊いた。
「高校中退なんよ。大検(大学入学資格検定)受けるって頑張ってるの」
母親は、あっけらかんとしていた。
父親と息子が温泉から帰った。何かしきりに話している。話題は川の発電装置のことだった。
「機械や電気に興味があるのですか」
漣が訊いた。
「理科系めざしてるんですよ」
と父親。息子も理知そうだった。
「理科系か。ボクは文科系だから、機械には弱くてね。発電機だって、訳も分からないまま据え付けたのですよ」
漣はメンテナンスの苦労を話した。
「君は何年生? もう受験?」
明子が目で漣を制した。
「高校は中退しましてね。来年、大検受けるんです」
父親が息子に代わって答えた。
§5 子供は犠牲者
三人は楽しそうに食事していた。
漣が食後のお茶を運んで行った。
「趣味にも打ち込める時間が増えて、よかったよね」
母親が笑顔で話している。
どうやら、話の内容からして、関西の名だたる名門私立高校に通っていたみたいだった。
「だけど、悪かったよなあ。あんなところに入れて」
父親は謝っている。
「実はねえ、この子のクラスの優等生が病気で休学することになったのですよ」
母親が漣の方に座り直した。
「息子は担任から初めて、そのことを聞きました。ところがクラスのほとんどがすでに知っていた。SNS(会員制交流サイト)ですよ。担任が発表すると、クラスから拍手が起きたらしいのです。順位が一つ上がる、と多くの子どもたちが思ったのでしょうね。この子は涙ながらに話してくれました。
『もう、あんな学校、行きたくない』
って。翌週、退学届けを出しました」
§6 情操教育の実態
宗教を根底に置いた情操教育と能力の伸長をモットーにしている進学校だった。多くのママ友に羨ましがられた。母親も有頂天だった。
しかし、現実は違っていたのだ。拍手事件は氷山の一角だろう。人間関係に耐えてきた息子のことを思い、夫婦で泣いた。そして、大検をめざすという息子に誇りを持った。どんなことがあっても、応援してやろうと二人で誓ったのだった。
何か月か後、その高校で生徒が自殺した。カンニングが見つかり、学校から厳しい叱責を受けた。
「みんなから、カンニングしたと陰口をきかれて生きていくのは耐えられません」と遺書にあった。
例によって、学校側は指導と自殺との因果関係を否定している。
「あいつの気持ち、分かるよ。あの時、一緒に辞めていれば、あんな結末にならなかったのに」
少年は淡々と語った。
隆からタヌエの森の話を聴き、少年が朝食もそこそこに、隆と出かけた。
漣と明子には、隆が得意になって、森の動物たちに少年を紹介している光景が目に浮かんだ。