第2話 朝が怖い
§1 銘茶
今夜の宿泊客は、大阪からきた若い女性だった。クルマを降り、周囲の山を見上げている。
「緑がきれいやね」
女性の第一声だった。一家が出迎え、手荷物を室内に運び入れた。
明子がお茶を出した。
「おいしい! なんで? こんなに…」
山の傾斜地に茶畑が拓かれ、川から立ち昇る霧が山間を覆う。寒暖の差が茶に独特の風味を出す。また、湧き水が旨みをさらに引き立てた。これらの絶妙のコンビネーションが銘茶を産み出す。
「みなさん、そうおっしゃってくださいます。お茶は近くの村の農家が生産したものなんですよ」
明子がお礼を言った。
「下の河原に天然温泉が湧いています。先に散歩でもされるのでしたら、裏に森があります」
漣が教えた。女性はバスタオルを持って河原へ降りて行った。
§2 酒豪
露天風呂から帰り、縁側に女性が腰かけている。
何度か大きなため息をついた。隆がお茶を持って行った。
「あ、おおきに。こんなところで生活できたら、ええなあ。坊やはふだんどこに住んどるの」
隆は週末に東京から通ってきていることを話した。
漣が夕食の準備ができたことを知らせにきた。
「お酒、お願いできます?」
漣は強そうな感じを受けた。
「では、まず一杯どうぞ」
漣がお酌をした。女性が酒を口に含み、ややあって、酒は喉を鳴らした。
「お強いんですか」
漣が訊くと、女性は慌てて顔の前で手を振った。
「うわ、このジャガイモおいしい」
女性はジャガイモを口いっぱいに頬張った。
「このニンジン、何! 味が全然違うんよ。都会のは何を食べてもおんなじような味やろ。さっきのジャガイモとか、このニンジンとか、元祖!って味がしとるもん。こんなの初めてや」
漣が追加の燗をしに、台所に立った。
§3 朝よ来ないで
女性は出されるものをおいしそうに食べた。酒も進んだ。
「あーあ。もう帰りとうなくなった。また、仕事が待っとる思うたら、ぞっとするわ」
ひと段落して、明子が座に加わった。
何か聞こえたのか、隆が庭に出て行った。
女性は仕事のことを話し始めた。
物流関係の部署にいる。仕事は面白いが、上司のことがストレスになっている、という。
「坊や、どこ行ったん? 遅いんと違う?」
隆を気にしている。
「タヌキがツチノコに化けて、子供を夜遊びに連れ出すのですよ」
明子の冗談だと思い、女性は笑った。
女性は朝が怖かった。
「今日も、あの主任のもとで働かんとあかんのか」
と思うと、吐き気がするようになった。
女性は三〇台半ば。独身である。付き合っている相手でもいれば、気持ちを打ち明けることもできるが、ずっと一人で耐えてきた。
(死んでしもうたら、楽になれる)
そんな気持ちに囚われることもある。
§4 八方ふさがり
今の部署は最近できたものだった。主任とともに移ってきた。前の部署でも、主任はあまり仕事をしなかった。部下が失敗すると、しきりに舌打ちする。
気に入った部下は大事にし、リップサービスに努めた。女性もお気に入りの一人だった。この関係は、主任が食事に誘ったのを断ったことから、微妙に変化はしていた。
異動になってしばらくして、女性の実家が火事になった。
女性は親に金銭的な援助をしなければならない。生まれ育った家が焼失したことも、心の痛手になった。
主任に相談した。主任の態度は冷たかった。
「自分だけ不幸やと思わん方がええで。気にしすぎと違うか」
主任は女性と顔を合わさなくなった。関心は女性の同僚に移ったようだった。
「ひどい話ですね」
漣と明子は同情した。
「課長は職場をどう見ているのでしょうね」
漣は訊いてみた。
「主任に輪をかけたような人です。人事課に相談した先輩もおったけど、これまた事なかれ主義者の集まりでした。まあ、うちの職場で救いと言うたら、ええ同僚がいることくらいや。でも、もう何人も辞めていきました。『やっとられんわ』って」
女性は「もう一本だけ!」と明子に手を合わせた。
§5 自己犠牲
「私、病院にかかっとるの」
女性はポツリと言った。
「心療内科?」
漣が訊いた。
「うん。抗うつ剤と睡眠薬もらっとるの。クスリに頼りとうないけど、朝の辛さ考えると、もう我慢できんの」
明子が女性の手を握った。
「辛いよねえ。あなたは優秀ですよ。よく社内の人間を観察している。会社に自浄能力がない、自助努力ができないのなら、転職しかない。あなたが犠牲になってはいけないと思いますよ」
漣はつい強い口調になった。
「転職も考えたことがあります。なかなか踏み切れなくて…」
漣の表情が緩んだ。
「もう一度じっくり転職を考えたらどうですか。失礼ながら、あなたの健康を害してまで務めるほどの職場ではないことは、確かですよ」
夜が更けていた。
「ただいま」
隆だった。漣も明子も、隆の遅いのには慣れていた。
女性が涙を隠しながら訊いた。
「どこ、行っとったの?」
隆は
「ツッチの家さ。ツチノコ」
とだけ答えて、布団に潜り込んだ。
「私もそろそろ休ませてもらおうか。しゃべりすぎて、疲れてしもうた。今夜はぐっすり眠れそう。ご主人、奥さん、おおきに、ありがとうね」
女性はトイレに向かった。少し足元がおぼつかなかった。
§6 スケッチ
翌朝、客間が静まり返っていた。
明子がそっとふすまを開けると、布団が畳まれていた。女性の荷物はあった。外で漣の声がした。
「おはようございます。こんな朝早く、どこに行かれましたか」
女性がスケッチブックを持って帰ってきたところだった。
「寝とるのがもったいのうて。スケッチブック持ってきてよかったわ。どうせ使わんだろうけど、と思いながら、持ち歩くのが習慣になっとった。おかげで、今朝はええスケッチができた。何年ぶりやろか」
朝霧をスケッチしていた。一面の雲海の上に、薄い緑で山々の木々が描かれていた。
高校時代は美術部だった、という。その片鱗をのぞかせていた。