70.エピローグ
「こんにちは、姫さま。今日のお勉強はちゃんとできました?」
「セーラ! いらっしゃい!」
王女の宮を訪ねて一番にすっ飛んできた小さな塊を全身で受け止め、セーラはぐえっと声を上げた。
「姫さま、いけません。お義姉さまを呼び捨てになさるなんて……」
「あら、そうでした。ええっと」
ラティーヤに叱られた王女はセーラからパッと離れると、右手を左胸に当て、一歩引いて軽く膝を曲げる挨拶をする。
「ようこそいらっしゃいました、お義姉さま。本日もおげんきそうで何よりです」
「あああ、良いんですよ。わたしの王女の身分なんて形だけなんですから……」
「セーラ殿下。たとえ相手が義妹であってもきちんとご挨拶なさいませ。先日姫さまと一緒にみっちりレッスンなさったでしょう?」
「ええ……あれ、わたしまだうまくできなくって……」
「殿下」
凄みを増したラティーヤの呼び方に、セーラはつい顔を引き攣らせてしまう。
だがここで彼女に逆らうのは悪手だ。それを、ここしばらく身を以てよく学んでいた。
――この挨拶、カーテシーとも違うんだよなあ……。まず右手を胸に当てるところがもう……。左足を引いて右足一本に体重を預けなきゃいけないし、かといって背中を丸めちゃだめだから、意外とやってみるとバランスが取りづらくって……。
内心でぶつくさとレッスン内容を思い出しながら王女のように礼の形を取ってみたものの、しかしやっぱりバランスを崩してふらついてしまった。すると、すかさずラティーヤが飛んできてビシバシとダメ出しをしてくる。
「左足を引きすぎです。背中は何とか胸を張ろうとはなさってますが、腰を反らしてしまっては不格好ですよ。腰を落とすのではなく膝を曲げるようにして――そう。あっ、頭は下げないでくださいませ! 王女殿下なのですから、そう誰彼構わず頭を下げてはならないのですよ」
「ううう、ラティーヤさん厳しいですよぉ……」
「以前から思っておりましたけど、セーラさまは頭を下げすぎです。すれ違った侍女相手にもそう簡単に頭を下げてはどうしたって侮られてしまいますよ。養子とはいえハイデルラントの王家に名を連ねるお方になられたのですから、多少のことで頭を下げてはならないのです」
「ただの会釈を土下座みたいに扱う文化の育ちじゃないんですって……」
「この国に生きるとお決めになったのなら、文化の違いは学んでいただかなければなりません。所作のひとつから直していただきますよ」
今日も相変わらずラティーヤが厳しい。屋敷に帰ればトゥーリーンが同じことを言うのだが。
それからも十回ほど礼のやり直しをさせられて、いい加減疲れてきたなと視線を逸らしたところで、大人しくレッスンを待っていた王女がにこにこと笑いかけてきた。
「今日のお義姉さまのレッスンはおわり? もうお歌うたえる?」
「ええ、ええ、歌。歌やりましょう。お話でもいいですよ!」
「セーラさま! ……もう。まあ、良いでしょう。残りはお屋敷にお戻りになってからトゥーリーンさんから学んでくださいませ」
「……ハイ」
「礼が完璧にできないことには婚礼も挙げられませんからね。あちらのほうが厳しくご指導くださるでしょう」
「仰るとおりで……」
礼のひとつもできなければ結婚式が挙げられない。トゥーリーンは今、そう悲鳴を上げながら、日々セーラにハイデルラントの貴婦人の嗜みを叩き込んでくれているところだ。
もちろん、ハイデルラントの暮らしが何ひとつわからないセーラとしてはありがたい。ありがたいが、厳しすぎるレッスンの日々に、時折泣き言も漏らしてしまうのが常だった。
ヴァイセンなどは、時間をかけてゆっくり覚えれば良いのだから、挙式に際しては最低限のことができれば良い、と慰めてはくれるのだが。
それでも、この世界で生きていくと決めたのだ。このくらいで音を上げるつもりはない。そもそも、決して厳しいだけではないから、時折泣き言は言っても楽しくやっているのが実情である。
そうして挙式の準備を進めながら、セーラはこれまでと変わらず日々王女のもとを訪れ、歌と物語を聞かせてる。
最近では国王もセーラを「王女の吟遊詩人」などと呼び、王宮内でセーラの地位は少しずつ確立していた。
「あのね、お義姉さま。わたくし、きのうお聞かせくださったおはなしを、かいてみたのです。よんでみてくれませんか?」
いつものように王女の望むまま歌と物語を楽しんだあと、不意に彼女がそんなことを言い出す。
いそいそと紙とペンを持ってくる王女を前に、セーラは驚いて素っ頓狂な声を上げてしまった。
「えっ。書き起こしたんですか? すごいですね、姫さま」
確かに昨日聞かせたのは、セーラのうろ覚え即興童話集の中でも難解な話――不思議の国のアリスだった。
そもそも原作自体、ストーリーが突飛で脈絡がなく、セーラ自身でも理解が難しい話だ。
最近では、聞かせた物語に対して王女が「自分ならこうする」とか、「こうだったら良いのに」など、自ら物語の世界を想像して動かそうとすることが増えてきた。いつかのように閉じこもって悲しみにくれる日々はほとんどなくなり、積極的に成長していこうとする意欲が見えてきたのである。だからここでひとつ、考察し甲斐のある話を披露してみせたのだ。
聞かせたときは難しくてわからないと質問ばかりしていた王女だったが、どうやらあのあと、自分で書き出して整理しようと試みたらしい。
ラティーヤが困ったような、けれども嬉しそうな複雑な顔をする。
「昨夜、必死に書いておりましたよ。普段のお勉強でもこれくらい夢中になってくださると良いんですけれどね」
「わあ、すごいじゃないですか。こんなにいっぱい……」
「そうなの。たくさんおぼえたから、すぐにかけたわ」
どこか得意げな王女に、ラティーヤがそっとこちらに耳打ちしてきた。
「おかげさまで、あれほど工夫をこらしてもなかなか進まなかった文字をあっという間に覚えられました。……それで今朝、教育係が発狂してまして」
「あらら……。何事も好きになることが上達への一番の近道ではあるんですけどね……。お仕事取っちゃってすみません」
「この際、姫さまのお勉強が滞りなく進めば問題ないということになりまして。これからもセーラさまには姫さまの教材になりそうな物語を聞かせていただきたく……」
「もちろんです。でも、良いんですか? 教育係の方としては面白くないのでは……」
「セーラさまは〝芸術〟を教えていただくということで、棲み分けはできるかと」
「なるほど」
担当科目が違うということだ。それでも、王女がどちらをより積極的に勉強するかと考えたら本職に恨まれそうな気もするのだが、それはまた追々考えれば良い。
必要にかられて思いつきから始めた吟遊詩人業だったが、結婚後もセーラの職業として定着させてくれることが決まっている。結婚後は家のことだけを采配する立場になる、というのは、どうにも性に合わない気がしていたからありがたい話だった。
とはいえ、ただの会社員が突然公爵夫人になるわけだから、覚えることも山のようにあって頭の痛い日々を送っている。それでも、やるだけ評価してくれる人がいる毎日は、忙しくとも充実した日々だった。
この日も、午後のひとときを王女に音楽や物語を教えて過ごし、夕方にはジュラーク公爵邸に帰る。
王宮を出たすぐのところに公爵邸の馬車がトゥーリーンとともに待っているのだが、この日は彼女ではなく、ヴァイセン自身が静かに待っていた。
「おかえり、セーラ」
「ヴァイセンさま。ただいま戻りました。今日は早かったんですね」
「ああ。最近仕事を詰めすぎだと言って帰されてしまってな」
ちょっと罰が悪そうなヴァイセンにエスコートされて馬車に乗り込むと、彼も流れるように隣に座る。
「姫さまはどうだった?」
「すっかりお元気ですよ。なんと昨日、わたしがお聞かせした物語が難しかったからって書き起こしたそうなんです。文字もたくさん書けるようになって、お勉強のほうも捗ってるみたいです」
「それは何よりだ」
「ヴァイセンさまはお仕事一段落してるんですか?」
「一応は。だから明日は予定通りドレスの意匠選びに付き合うよ。午後は一度仕事に出るが」
「いろいろ調整が大変なのは仕方ないですけど、しっかりお休みを取ることも大切ですよ。意匠選びといってもわたしもトゥーリーンに任せきりになっちゃうと思いますし、無理に参加されなくても大丈夫ですよ」
「うん。だが、まあ、なんというか、俺は要領が悪くて……」
国王の前で婚約を決めた頃から、ヴァイセンはたびたびこうして弱音を漏らす。それらの言葉はどれも悲壮感に満ちたものではなく、今も軽く肩をすくめ、自身を茶化すような言い方だった。けれども、心の底からそう思っているのだろうなとよくわかる、染み入るような声だ。
おそらく、ずっと心の内側に持っていた弱さなのだろう。公爵当主になるとは夢にも思わなかった、平凡な彼の、まだまだ若い青年の一面なのだ。
家族のすべてを失って、ひとりで使用人たちや騎士団の人々を支えていかなければならず、誰にも寄りかかることのできなかった彼の、本当の心の内側。それを少しずつ見せてくれることがたまらなく嬉しかった。
セーラはやわらかく微笑んで、「これからこれから」と軽い調子で返す。
真剣なアドバイスを求めているわけではない。やるべきことも、自分の実力もわかっている。ただ、まだ現実に追いつけておらずもどかしい、今の気持ちを聞いてほしいだけ。
そういう、ヴァイセンの小さな拠り所だとわかっているから、セーラも敢えて重く捉えなかった。
「覚えることも一筋縄でいかないことも山ほどあって大変だが、楽しいよ」
「楽しいって思えてれば良いんですよ」
「それから、ドレスの意匠は俺も選びたいんだ。あなたの衣装なんだから」
「……そですか」
窓枠に肘をつき、凭れるようにしていたヴァイセンが、不意に何かを訴えるようにじっくりとセーラを見やる。
その熱いくらいの視線に何事かと見つめ返すと、ヴァイセンの薄い唇が緩む。何か、と問いかけようとした瞬間、それが近づいてきて、呆然と半開きになったセーラのそれに軽く触れ、離れていった。
「……そゆの、ちゃんと結婚してからしたほうが良いとかじゃないです……? 貴族なら、ほら、なおさら……」
――婚前交渉はダメみたいな。……や、まあ、キスだけだけど。
ゴニョゴニョと言葉にならない言い訳を脳内に連ねると、ヴァイセンはいたずらっぽく目を光らせた。
「生憎と、俺は父や兄ほど秀でた才もない不調法者でな」
「そういう屁理屈こねてると年相応ですよね」
「あなたこそ、中身が三十代だと言うわりに若い娘のような反応をするな?」
「すみませんね。こっちも能無しなもので、お気に召す反応をお返しできなくて!」
「いや? 俺好みだが」
しれっとした返答がセーラの心にクリティカルヒットした。
「……くーっ! なんか悔しい!」
何だかよくわからない、けれども熱い感情に思わず叫ぶと、弾けるような笑い声が響いた。
そんなヴァイセンの少年のような屈託のない笑顔を見ていると、自分の役目はここにあったのだなと深く実感するのだ。
これにて完結です。最後までお付き合いいただきありがとうございました!
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次回作はちょっと間が空きますが、水面下で作業中です。
次こそ自転車操業にならないよう書き溜めてからのスタートになりますので、冬頃スタート、年内に完結できれば御の字(もしかしたら年明けはみ出るかも)くらいの予定です。
また新しいお話でお会いできましたら幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。




