65.ヴァイセン帰宅
その日の夜半過ぎ、表に馬車がやってきたような、静かなさざめきがあった。
ぼんやりと目覚めた静寂の中で音をたどる。かすかな人の話し声が、やがて屋敷の中へと入ってきた。
人の動き出した気配が広がることはない。ごくごく少数だけが、寝静まった屋敷に憚るように会話して活動している。
誰かやってきたのだろうなとはわかる。けれども、普段それを出迎えるはずの使用人たちが起き出してこないから不思議に思えたのだ。隣の部屋で休んでいるはずのトゥーリーンも動き出す気配はなかった。
ということは、最初から出迎えが必要ないことが使用人たちの間に周知されていたのだろう。
であれば、やってきたのは――否、帰ってきたのは、ヴァイセンだ。
セーラは突然眠気から覚めて身を起こした。
ヴァイセンが帰ってきたのだ。何日ぶりの帰宅だろう。
ベッドを降りて、今すぐにでも彼の無事を確かめたい。けれども、セーラは彼の家族でも恋人でもない。トゥーリーンでさえ眠ったままなのに、それをわざわざ起こしてまで我儘を通すのもどうかと思った。
セーラはアスターから事件の真相を聞いてのち、ずっと彼を案じていた。
早すぎる両親と兄の死ののち、情は薄くとも、ただひとりとなってしまった家族である祖母。その唯一の家族が、ふたりの王妃暗殺を企み、ヴァイセンが保護した客人であるセーラの命までをも狙っていたという。
そのヴァイセンの祖母――パヴァナ姫は先代国王の妹でもある人で、良くも悪くも国にとってあまりにも存在が大きい人だった。
だから、その処罰を巡っては長い時間がかかるだろう、とアスターは教えてくれた。しかし、それでも二人も王妃を暗殺したその首謀者であるからには、死罪は免れないだろう――とも。
祖母が罪人となり社会から消えるということは、ヴァイセンにとって、ついにひとりも家族がいなくなってしまうということだ。
そのことがどれほど彼を苛んでいるのか、彼は今どんな気持ちでいるのか、慮るだけで居ても立ってもいられない心地だったのだ。
それでも、彼には大勢の理解者がいる。
ヴァイセンを敬愛するベルディン騎士団の兵士たちはもちろん、このジュラーク公爵邸で働くトゥーリーンやメイヴェルを始めとした使用人たち――そして誰よりも、セーラ自身もまた彼の味方でありたいと思う。
けれど、だからまったく問題はないだろう、ということではない。
いくら周囲にあふれんばかりに人はいても、セーラたちがヴァイセンの家族を喪った心の空白を埋める代役には慣れない。彼の家族は、彼の家族でしかないのだ。はすぐに埋められるものではないだろう。
かくいうセーラも似たような喪失感を味わっていた。だからこそ、その気持ちを考えると落ち着かなかった。
占者・エルストラに送還魔法を使われたときに見た、走馬灯のようなあちらの様子。
過去、送還魔法を使用され、その後もこの世界に残っている人はいない。だからこそ送還魔法に関する資料は少なく、ヴァイセンは「正しく返せる方法なのかどうかわからない」と言っていたのだ。
それほどまでに前例のないことだから、セーラが見たあの光景が本当のことなのかどうか確かめようがない。
もしかしたら、セーラの妄想だったのかもしれないとも考えた。
それでも、だ。自分が社会に死んだものとして扱われている光景は、じわじわとセーラの心を削っていった。
最近では、こちらに来た当初のように帰りたいとは思わなくなった。それどころか、あの走馬灯のような光景を見て、帰らないほうが良いとさえ確信したのである。
――それでも、やっぱり、帰れないとわかると悲しい。
母親にもう二度と会うことはないのだと清々した気持ちだ。けれども同時に、ぽっかりと心の一部に穴が空いたように寂しかった。
――お母さんに会えないことが寂しいと思ってるわけじゃない。
ふとした拍子に寂寥を抱くたび、勘違いしそうになる自身に言い聞かせている。
けれども、ではこの寂しさはなんなのかと問われると、言葉にするのが難しい。
どれほど分かり合えない相手であったとしても、〝家族〟という言葉が呪いにしかならなかったとしても、それでもつながりが絶たれたことが、なぜだかどうしようもなく寂しくてたまらなかった。
ヴァイセンも同じなのだ、と断じるつもりはない。しかしどうしたって似たような境遇だから――家族と決別してしまったのだから、言いようのない寂しさを抱いているのではないかと、心配してしまうのだ。
深夜のひっそりとした屋敷の中にしばらくかすかな人の気配が行き交っていたが、それがようやくもとの静けさを取り戻そうとしている。
このまま知らなかったふりをして眠ってしまったほうが良いのだろう。けれども、一度気づいてしまったらどうしたって眠れない。ヴァイセンが帰ってきたのだとわかったら、心はざわめく。
――会いに行かなきゃ、眠れないかな。
たとえ今夜は会えなかったとしても、それならそれで良い。
セーラは迷いに迷って、ヴァイセンのもとを訪れることにした。
*
深夜に我儘で起こしてしまったにもかかわらず、トゥーリーンからメイヴェルへ、そしてヴァイセンの部屋への入室許可は、意外にもあっさりと得られた。ふたりとも事情を話すまでもなく、今のヴァイセンの相手はセーラが一番適任だとまで言ったのだ。
「旦那さまは今夜はどうやっても眠れそうにないなどと冗談交じりに仰っておりましたが、さすがに心中を慮りますと……。既にご家族のいない旦那さまをお支えするのは、旦那さまの幼少のみぎりよりお側に仕えた私の仕事なのでしょうが、お立場があるからこそお見せにならないお心も多くございます。ですが、セーラさまでしたらあるいはきっと……」
そんなふうにセーラに対して頭を下げるメイヴェルに、セーラは弱りきって眉を下げた。
「わたしが行ったところでどうお役に立てるかはわかりませんが……」
「何でもないお話で良いのです。お一人で夜明けまで過ごされるよりは心も休まりましょう。どうか、よろしくお願いいたします」
何があっても動揺を見せなかったメイヴェルも、さすがに沈鬱な面持ちを隠せないのだろう。深々と頭を下げ、それからこの屋敷で一番立派な、主寝室へと続く扉をノックしたのだった。
「旦那さま。お休みのところ失礼いたします」
「メイヴェルか。入ってくれ――セーラ殿……?」
「お久しぶりです、ヴァイセンさま」
ヴァイセンは格好こそ見たことのない夜着だったが、ベッドにも入らず何かを認めていたようだった。
なるほど、メイヴェルの言う通り、確かに夜明けまで眠る気もなくひとりで過ごすつもりだったらしい。しかしプライベートの時間を邪魔してしまったような気がして、セーラはなんだか申し訳ないような、見てはいけないようなものに遭遇してしまった気持ちになる。
控えめに顔を覗かせたセーラを見やって、ヴァイセンは深海の目を驚いたように見開き、けれどもすぐに弱ったように整った眉を下げた。
「……長い間留守にしてすまなかった。どうなされた」
「いえ。ヴァイセンさまこそ、お疲れさまです。……どう、というほどのことでもないんですが、今度はヴァイセンさまが眠れないとお聞きしたので」
「……メイヴェル」
情けない話を吹聴してくれるなとでも言いたげなヴァイセンに、メイヴェルは澄ました顔でしれっと言った。
「事実、お眠りになる気もないようでしたので、僭越ながら私どもからセーラさまにぼっちゃまの寝かしつけをお願いいたしました」
「何を一体……。というか、だから坊ちゃまはやめてくれと……」
「ただいま茶の準備をしてまいりますので、セーラさまはどうぞ中に」
「良いんですか?」
「メイヴェル、話を聞いてくれ」
弱ったような主人の懇願に、しかしメイヴェルはお構いなしにセーラを中へと促す。
どちらの言うことを聞いたものか、迷いながらも部屋の中へと足を踏み入れたセーラだったが、しかしヴァイセンが眉をしかめた。
「あのな、こんな時間に男の寝室に女性を入れておいてふたりきりにするとはどういうことだ」
「あ、ああ、ですよね。やっぱり入らないほうが良いですよね」
「ああ、いや、セーラ殿に対して言ったわけではなく……」
非常識だったかと慌てて踵を返すと、ヴァイセンは目に見えて狼狽え、セーラの腕をつかんだ。
「私はおふたりの信頼関係を存じておりますし、坊ちゃまの為人を信じておりますから。――では、ごゆっくり」
などと、ふたりがごちゃごちゃと遣り取りしている間にメイヴェルはにこりと笑みを浮かべ、さっさと退席してしまったのだった。




