57.あちらの世界
抗いがたい力が働いている、と感じていた。
引っ張られる、というよりは既に引きずられている。どこへ引きずられているのかはわからない。強いて言うのなら、触れた石なのだろうか。なぜそんなものに引き寄せられるのかセーラにはまるでわからなかった。
――自分の形が保っていられない。
スライムじゃないのだからそんなことあるはずがないのに、どうしてかそのとき、形が保てない、と思った。それ以外の表現がわからなかったのだ。
痛みや苦痛は感じなかった。外部から圧力をかけられて、物理的に身体の形を変えられようとしているだとか、そういうものではないのだ。ただ圧倒的な力に捻じ曲げられ、どこか、自分が自分でないものになってしまうような、そういう感覚を強烈に味わっていた。
ぐにゃぐにゃと自分が自分でなくなっていく気配に襲われる中、次々と目の前に景色が映る。まるでテレビのザッピングのようにあっという間に変わっていくから、それが何なのかは判然としない。
その一瞬映る映像の中に、見知ったものを見つけた。
――お母さん。
その人が誰であるのかを認識した瞬間、映像が留まった。
「良いのよ。逃げてばっかりだもの、あの子。ずーっとそう。小さい頃から何をやらせてもだめ。ほーんと、嫌んなっちゃうくらい才能ないの。大学受験のときにも、これからの進路は自分で決めるだなんていっぱしの口聞いちゃって、結局何も成功してないんだから。仕事からも逃げただけでしょ」
忘れもしない、母親の声だった。
つんとすました冷たい声音が、セーラの胸を穿っていく。
場所は見慣れたカフェチェーン店のようだ。その二人がけの席に、母と、母と同年代くらいの女性が座っている。
母はブランド物のバッグにブラウスとタック入りのパンツ姿だ。柄物のスカーフを巻いて、爪は長くきれいに彩られ、いかにも高所得の中年女性然としたファッションで固めている。
対して、友人らしい同年代の女性はシンプルなシャツにカーディガンを合わせ、下はスキニータイプの黒いパンツといった、どこにでもありふれたファストファッションだった。
明らかにチグハグなふたりだが、しかしより場に馴染んでいるのは、母よりも相手の女性のほうだった。どこにでもあるチェーンのカフェなのだから当然なのだが、母はそんなところにパーティにお呼ばれでもしたかのような出で立ちだから、どこか浮いて見えるのだ。
母はいつもそうだった。きれいに着飾って、誰よりも自分が裕福であることを示したがっていたのだ。
父がろくに家にも帰ってこられないで朝早くから深夜まで働いて得たお金の大半は、母の見栄のために使われた。
共働きが主流になってきた社会において、専業主婦でいながら羽振りが良いこと。それが、母の考える〝コミュニティの頂点に立つ〟ことだった。
だが、所詮はありふれた中流家庭でしかない。
子供を幼稚園から私立に通わせ、上流階級の家庭と交流を深め、都心部の高級ランチやディナーなどを当たり前に楽しみ、地位も権力もある夫に付き従って公の場に出席する――そんな本物のハイソサエティには程遠く、だから、母は自分自身がそのコミュニティの頂点でいられる中流階級にこだわった。その中で、常に外見を見栄で固め、誰よりも頂点に立っているような感覚を得たかったのだと思う。
子供をハイソサエティの仲間入りさせて自身もその社会の中に身を投じるより、自分自身にお金をかけることが第一だった人なのだ。
その証拠に、あれほど習い事をたらい回しにされ、手に職をつけろと勉強を強要された星羅は、高校まで地元の公立校に通っていた。子供である星羅を私立へ通わせるために金をかけてやるほどの情熱はなかったのだ。
カフェチェーン店での会話に盛り上がった様子はない。静かに、しかし母が中心となって話をしているようだった。
一緒にいる人が誰なのか、セーラにはわからない。
母は自分がコミュニティのトップにいなければ気の済まない人だったから、PTAや自治会に積極的に参加しては地域コミュニティの中で常に活動していた。そのときの知り合いなのかもしれない。
相手の女性は普通の主婦といった出で立ちをしていたが、しかし、その彼女のほうがよほど場の雰囲気に見合った、落ち着いた中年女性であることがひと目で分かる。
そのくらい、客観的に見た母は浮いていた。
じっと見つめていると、会話まで聞こえてくる。
「でも、星羅ちゃんしっかりした子だもの。無断欠勤だなんてきっと何かあったんじゃないの……?」
「知るもんですか。もう子供じゃないんだって、十八の子供が親に啖呵切ってきたんだから。自分で決めた人生なんだから自分で責任くらい取らなくちゃね」
「そんな……」
セーラがあちらの世界からいなくなったあとの様子なのだろうか。それとも、セーラの記憶が見せている妄想なのだろうか。
あちらの世界から消えたセーラは、どうやら、無断欠勤をしていることになっているらしい。就職してからはついぞ帰ったことのない実家の親にまでその情報が行っているということは、会社から連絡が行ったのだろうか。
それでも母はちらとも心配する様子は見せなかった。
いかにも母の言いそうなことだ。セーラは内心、鼻で笑ってしまった。悲しいとも悔しいとも思わなかった。
唐突に場面が変わる。
次はどこか、住宅街のようだった。
セーラにははっきりと光景が見えるわけではない。夢のように靄がかかって、細部のはっきりとしない光景だった。
誰かの家の前の路地に複数の人が集まっている。ご近所さん同士の井戸端会議のようだ。
「水無上さんとこの娘さん、上京したまま行方不明になったそうよ」
「なのに水無上さんったら娘さんのこと何も心配してないのよ。仕事放り出して逃げたんでしょーって。いくら社会人になったとはいえ、一人娘なんだからもっと気にかけてあげても良いでしょうに……」
「仕方ないわよ、あの人だもの。星羅ちゃんが小さいときから何でもかんでも自分の気まぐれに付き合わせて、星羅ちゃんだって嫌気が差してたでしょ。見放されて都会で就職したっきり実家に寄り付かないから拗ねてんのよ」
「やだ、東京で就職したのだってもう十年前でしょ? まーだ根に持ってんの?」
「その前から揉めてたみたいよ。星羅ちゃんとうちの子、同級生でしょ。大学受験のときにね、東京のどこだっけ? なんか有名大学に受かったーってわざわざ報告に来たのよ。うちの子、まだ一般入試控えてたってのに」
「ええー! うわぁ、あの人ならやりそうだけど……ないわー。そういう配慮しないわけ?」
「ないわよそんなの。いっつもそう。ほんっと、マウント取ってばっか。そのとき玄関先で応対しちゃったのうちの子でさ」
「うわわわ、大学受験控えてる子供本人の前で言ったの? 信じらんない」
「まあでもね、うちの子はあんまり気にしてなかったわよ。まあ嘘だろうからって」
「そうなの?」
「ええ。星羅ちゃんが、家を出たくてとにかく合格できれば良いからって首都圏の無名大学受けてたって知ってたみたいでね。まあ確かに、あの時期いっつも母娘で大喧嘩してた声がうちまで響いてたからねえ……」
「それで娘に見放されたからって、行方不明になってるのに自業自得だーなんて他人に堂々と言っちゃうのも……ねえ?」
また場面が変わっていく。まるで写真を高速でめくっているようだった。
次はどこか、知らない家のリビングのようだ。大きなテレビにニュースが映っている。
『――市の住宅街にある公園です。この通り、閑静な住宅街にある小さな公園ですが、遺体はベンチの後ろの植え込み……ちょうどブルーシートのかかっているあのあたりの中から発見されました。被害者は二十代から三十代の若い女性で、現在身元を確認中ということです』
リポーターが真面目な顔で歩くその公園を、セーラは知っている。自宅のマンションにほど近い、通り抜けるとちょっとした近道になる公園だ。
だが、夜間は通らない。ときおり、ブランコなどにたむろっている不良っぽい中高生や、ベンチにひっくり返っている酔っ払いなどがいるからだ。
だから帰宅時はいつも、多少遠回りになっても公園の外周の歩道を通って帰宅していた。
――そういえば、ハイデルラントに来る前の最後の記憶もここのあたりで終わってたな……。
不意に思い出す。その間にもまた景色が変わった。
今度はどこか、狭い部屋のようだった。会社のミーティングルームのような場所だ。長机のようなものと、パイプ椅子で部屋はいっぱいで、そこに両親と向かい合うように中年の男性がふたり座っている。
「お嬢さんは――の夜、帰宅途中に犯人に襲われました。背中から一突き、それから立て続けに首を三箇所刃物で切られ、そのうちのひとつが動脈を傷つけたことにより失血死したとみられます」
「そんな……うちの子が……どうして……っ」
あれほどセーラのことなどどうでも良いと見放していた母親が泣き崩れる。
その横で父親がうつむいて膝の上の拳を握りしめた。
――ああ、そうか。わたしはあのとき、死んだのか。




