そつ無く生きられても、空しいばかりなんて
周りが「今日のテスト最悪だった」と言うなら、私も「全然ダメだった」と返す。
周りが「炊飯器でケーキ作ると楽しいよ」と言うなら、私も「今度やってみるね」と言う。
本当は、それほどテストが駄目だったわけでもないし、お菓子作りなんて調理実習以外でやったこともない。
だけど、大切なのは“合わせること”で、“自分を出すこと”じゃないんだ。
出来過ぎて鼻につくと思われないよう、出来なさ過ぎて馬鹿にされないよう、小器用に、巧く立ち回る。
ずっと、そうやって生きてきた。
たぶん私は、場の空気に敏感なのだと思う。
会話のキャッチボールで次にどんな言葉を投げ返せば良いのか、どんな反応が求められているのか、何となく分かる。
だから、その通りの言動を採る。
実際、周りの感触は悪くない。
今のところ嫌われてはいないし、何となく好感を持たれているようにさえ思う。
他人に好かれるにはコツがある。
皆なぜか、人間としてのスペックが高ければ男にも女にもモテると思っているみたいだけど、それはべつに必要条件じゃない。
むしろ下手に能力が高いと、要らない嫉妬を買って人間関係に支障が出かねない。
世の中“自分より上”の人間を素直に受け容れられるほど、出来た人間ばかりではないのだ。
人間は、居心地の良い場所を好む。
自分が否定されない場所、自分を受け容れてくれる場所を好む。
だから、そんな“居心地の良さ”を作ってあげれば良い。
言葉で相手を否定しない、能力の高さで相手の自尊心を傷つけない――そんな居心地の良い“友人”であれば良い。
価値観や趣味が同じなら、もっと良い。
物の考え方や好き嫌いも一緒なら、ちょっとした意見の衝突や反発も起きない。
気をつけなければいけないポイントは、ひとつ。
スペックは上回ってもいけないけど、下回ってもいけないということ。
どんなに“居心地の良さ”を提供できても、相手から舐められたら終わりだ。
理解不能な話なのだけど、「自分より下の人間は、奴隷のように支配しても良い」と思い込んでいる人たちが、この世には結構存在するのだ。
未だこの世からなくならない虐めやハラスメントの数々が、それを証明している。
ただしこの場合の“上か下か”は、本当の上下でなくても良い。
だって、そういう人たちに限って、相手の能力を見抜く目なんて、これっぽっちも持ち合わせていないから。
ハッタリにコロッと騙されて偽りのカリスマにヘコヘコしたり、隠された実力にまるで気づかず相手を舐めて惨敗したりする。
能力で差別したいなら、せめて正確に能力測定できる“目”くらい持っていないと意味が無いのに。
この世界って本当に、残念な人間が多い。
他人にモテたい、好かれたい、と人は言う。
だけどその割に、真逆な言動ばかり採る人が多い。
相手が辟易しているのにも気づかず自慢話を続けたり、デリカシーの無い発言で相手を傷つけたり……。
ただ自分にとって気持ちの良い言動、相手を気遣うこともない安易な言動ばかり。
それで相手から好意が返って来ると、本気で信じているのだろうか。
嫌なことをされても、傷つけられても、喜んで相手を愛するなんて――世の中そんなに忍耐の強い人間ばかりでも、Mな人間ばかりでもないだろうに。
人間の好感度はナマモノだ。
一度上がれば“そのまま”なんて、固定化されたものじゃない。
どんなに仲の良い友人だって、取り返しのつかない失敗ひとつで、好感度は地まで堕ちる。
ふれ合うごとに細かく変動するそれを、急降下しないよう、適切に維持する。
それが人づき合いというものだと、私は思っている。
相手の顔色を窺うほどではないけど、表情はいつもよく見ている。
ただ顏かたちの変化だけじゃなく、仕草、声のトーン、身体全体から滲み出て来る空気……。
人の気持ちって、結構“表”に出ているものだから。
目に見えない心や感情を、微細な変化から推し測る。
あぁ、この子はこの話題に興味が無いんだ。コレは意外と好きなんだ――そんなテンションの波を読んで上手く会話を転がせば、居心地の良い“楽しいひととき”の出来上がり。
日々そうやって、他人の好感度を保っている。
好感度の仕組みすら見えていない不器用な人間だらけの中、私は器用に生きている方だと思う。
苦手なタイプの人間にだって、非道い態度を取ったことはない。
他人に嫌われるってことは、その分、この世のリスクが増えるってことだ。
賛同しかねる話なのだけど、「嫌いな奴には何をしても良い」と思い込んでいる人たちが、この世界には割といるのだ。
できることなら、誰にも嫌われず、誰からも好かれて幸福に生きたい。
そんなこと、誰だって思うことでしょう?
――だけど、どんなに器用に、そつ無く生きようと、万人から好かれることだけは無い。
私がどんなに自分を“対等”に見せようと、勝手に下に見て馬鹿にしてくる人間はいる。
勝手に上に見て嫉妬してくる人間もいる。
女だ、若者だ、ナントカ世代だ――そんな風に“属性”だけで無闇に嫌ってくる人間もいる。
誰からも好かれたくて誰にも彼にも好意を向けると、八方美人だと侮蔑される。
どんなに努力を積もうと覆らない事実。
――この世には、どうしても他人を見下し、嫌いたい人間が存在するのだ。
高い好感度を保っていたはずの友達からだって、理不尽な憎しみをぶつけられることがある。
可愛さ余って憎さ百倍――そんな矛盾の塊みたいな“ことわざ”があるように、好意が反転しての憎悪は、普通の百倍厄介だ。
人間は好意を受け取り続けると、いつの間にか欲深くなってしまうものらしい。
好意をもらえるのが当たり前になって、それが当たり前にもらえないと怒り出す。
自分への好意が足りないと思うと、不満を言い出す。
○○ちゃんには××してあげたのに、私にはしてくれないんだ――他の子と比べて、そんな文句で私を責め出す。
だからと言って、全ての友達を“公平”に扱えば良いというわけじゃない。
他の子と“同じ”じゃ我慢できない、自分だけ“特別”じゃないと気が済まない――そんな人間も存在する。
正直、つき合いきれない――そう思って、自分から距離を置いたことも、一度や二度じゃない。
人間関係って、複雑だ。
どれほどの器用さがあっても、絶対に追いつかない。
人づき合いに不器用な人たちはきっと、そつ無く器用に生きられれば、全て上手く行くと思っているんだろうな。
だけど、この世の中はそんなに“やさしい”世界じゃない。
こちらがどんなに努力と工夫を重ねても、理不尽な嫌悪や憎悪の前には何の効果も無い。
その理不尽さに傷つけられるたび、心が摩耗して減っていく。
人づき合いのノウハウを知らない人たちはきっと、やり方さえ知っていれば、いつでも他人と仲良くできると思っているんだろうな。
だけど、どんなに“やり方”を知っていても“やる気”が出ないと行動はできない。
他人と接するには、多かれ少なかれエネルギーが要る。
体力面ではなく、精神面のエネルギーだ。
傷ついて擦り減った心では、初対面の人と話す勇気ひとつ、出て来てはくれない。
時々、仲の良い友達の中でさえ、心がヒヤリとすることがある。
周りに合わせて自分を曲げてばかりの私だから、真っ直ぐ相手を信じられない時がある。
今、目の前で笑ってくれているあの子は、本当に心の底から笑ってくれているのだろうか。
私を気遣って、無理に笑っていたりはしないだろうか。
今、私が好意だと思っているコレは、本当に好意なのだろうか。
場の雰囲気に合わせただけの言動を、好意と勘違いしていたりはしないだろうか。
人間の心や感情は、目には見えない。
できるのは、表に出た“何か”から、それを推測することだけ。
本当は私、読めているつもりで、相手の気持ちなんてまるで分かっていないのかも知れない。
自己評価の低い人たちはきっと、能力が上がれば、悩みなんてなくなると思っているんだろうな。
だけど人生のステージが上がっても、そこには下のステージとは別次元の悩みが待ち受けているだけ。
決して悩みが尽きることは無い。
上へ辿り着けばラクになれると思っていた頃が、幸せに思えてくるほどに。
他人に好かれたいと言いながら自分勝手な言動で周りを振り回す人たちを、「どうしようもないな」と思いながら、ほんのり羨ましく思う時がある。
私はいつでも、周りに合わせてばかり。
偽りの自分と言うほどではないけれど、己を真っ直ぐ貫けず、曲げてばかりいる。
曲げて曲げて、曲げ続けているうちに、ふと“自分”が分からなくなる。
今、笑っているのは、私の本心だろうか。
それとも笑わなきゃいけないタイミングだから、笑いを作っているのだろうか。
ありのままの自分で我を通しても、周りが勝手に好感度を上げてくれるなら、そんなにラクなことはない。
だけど現実は決して“そんな”ではないと、私は知っている。
器用に生きられても、その器用さが逆に私を消耗させる。
ただ普通に息をしているだけなのに、時々無性に疲労を覚える。
いっそのこと、人間を辞めて空気になれたら良いのに、と思うほどに。
時々、ふと“空気になった自分”を想像してみることがある。
空気になった私は、無理に周りに合わせたりしない。
他人の表情を敏感に読んで、上手く場を盛り上げようともしない。
他人の好意なんて気にしない。
ただ、あるがままの自分で、ふわりふわりと世界を漂うだけ。
そんな自分を、ふと夢見てしまう。
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