④正しい選択とは
──あの日の夜のこと。
「……ッ!」
目覚めて飛び起きたアウグストの傍らには、誰とも知らない貴族の女が寝息を立てていた。彼は女には見向きもせず、急ぎ服を着ると直ぐに部屋を出た。
王城近くの高級宿──などと言ってもやることは変わらない。アウグストは宛てがわれた貴族の女とは、ほぼ誰とでも寝た。
貴族の方が潜在的な魔力が多いからだが、それは生気を賄う為だけではない。魔力は生気を増やすものの、加護との相性が悪い。
有り体に言うと、極めて妊娠しづらいのだ。
よってメランドリ伯爵だけでなく、数家だけある土地神の加護を受けた貴族家直系は貴賤婚が許されている。また、貴賤に関わらずその土地の加護を持つ者に限っては推奨される。
そして──加護を受けた貴族が一夜の慰みを受けることを、不貞とはみなさない。
土地神の加護を受けた貴族家直系、つまり加護を継ぐものは皆、まるで精霊が如く麗しい見目をしており、必ず髪と瞳の色も継ぐ。
美しいものが好きな女達は、夜会で見た彼等の姿に少なからず心を奪われる。だから女性の当てがなく困る、という話が上がったことは今まで一度も無い。
そして生命維持の為に女性の体液を必要とする彼等は、必然的に閨事の技術に長けるようにならざるを得なくなる。
どうあれ、身体を重ねた誰しもが『とても素晴らしい夜だった』と言うので、女側の理由や年齢層も、家への反抗から処女を捨てたい少女から閨事に自信のある未亡人までと、実に幅広く多岐に渡る。
そんな女達の中にも『加護を受けた貴族家の男と寝る場合』の不文律は存在する。
『愛しても、愛されることは無い』──大概の場合、愛されることは無い。だから本気になってはいけないし、迷惑を掛けることは許されない。一夜を共にするだけの関係と心せよ。──というもの。
そもそも極めて妊娠しづらく、しかも土地神の加護を受けた貴族家は数家しかない。その加護は王家との契約だ。
当然他貴族との婚姻に際し国王の承認が降りるには、必ず領地内庶民から第二夫人を用意する決まりとなっている。
最初から希望は薄く、ましてや望まれるなんて思ってはいけないのだ。
そんな不文律があっても女の方は一夜の夢だけで終わらぬ者も多く、そのつもりでいたのに彼等に魅了されてしまい『王都での愛人としてでもいいから』などと縋ってくる女も、いなくなることはなかった。
アウグストは女性との行為が公に許されていた一方で、彼から誘うことは一切なかった。
先にも『宛てがわれた』とあったように、常に手紙で打診を受けた中から予め女性を選別させておく。情を傾けたくないので、自ら行うことはない。
女性側の契約書の条件には『名を名乗らない』という項目もある程。
公に許されているだけにそこまで徹底する者は珍しかったが、亡き父が奔放すぎたアウグストは潔癖だった。
彼は一夜を共にする女性を丁寧に扱ったが、どんなに優しくしても心は閉じていた。大体次の日の昼頃には、相手の顔すらハッキリと覚えていない。──それがどんなに美しい顔であっても。
とても不誠実のようだが、加護の為に女性を抱くのが苦しみであるアウグストが自分の心を守るには仕方のないことだった。
そう、加護の繋がりは概ね、彼にとって苦しみなのだ。
唯一、彼女以外は。
今アウグストの脳内にハッキリと浮かんでいるのは、一人の女性の顔。
先程夢に出てきた女性。
森の中を逃げ惑う、その不安気な表情。
かつて見た夢の中。森で泣いていた頃の面影を残し、成長した彼女。ずっと捨てられずにいた、大切な思い出の少女。
彼女を救わなければならない──ただそれだけがアウグストを動かしていた。
(少しは回復したか……)
宿で馬を借りて、アウグストが向かった先は王城。その庭というにはあまりに広すぎる敷地内の一角には、小さな森がある。ムクの木の巨木が佇むそこに、彼は自由な出入りを許されていた。
メランドリ伯爵家の直系は、加護を賜る。
それは古の神と、王家が結んだ契約に基づくもの。いわば、神と王家を繋ぐ神子に過ぎず──彼等は神に愛されているわけではない。
(むしろ……呪いみたいなものだ)
まるで光に群がる美しい毒蛾のような女達と、それに縋る自分への嫌悪。その一方で確実に存在する、女達が悦ぶことへの仄暗い愉悦と人肌への恋しさ。
加護の為に女を抱くこと。
それは殆どを他人と関わらず過ごすことへの安堵と同時に、それをどこか『寂しい』と感じているメランドリ伯爵としての自身の心の矛盾そのものだ。
『呪い』という言葉通り、アウグストの人生は、伯爵家の血に翻弄されてばかりいる。
きっと、これからも。
(でも)
それなりに役には立つ。
──特に今は。
(逃げてくれたのが森で良かった)
巨木の下、アウグストは跪いて両掌を幹に付ける。
捧げた祈りは淡い光となり、淡い光は多くの小鳥となって離れた伯爵領へと向かう。
王城にある巨木は『御神木』だ。
ここを媒介にして彼は、伯爵城を囲む森の精霊達と連絡を取ることができる。
精霊達が人間に対して直接的にできることは少ないが、森の中で彼女を守るのなら容易いことだ。
(──いや、土地の加護を持つ彼女だ。 なにもしなくても平気だったのかも……)
冷静さを欠いていたことに苦笑しつつ、それでも少しの安堵と共にアウグストはそのまま朝まで眠り、早朝には領地へ戻る為にその場を辞した。
王都から領地に戻るまでには、通常通りの時間が掛かった。その間に馬車の中で領主としてできることを行うも、やることはそう多くなかった。
彼女──ベアトリーチェのことは、ずっと気に掛けていたから。
彼女は自分と違い、地に愛されている。
その彼女を娶ることは、メランドリ伯爵家にとって非常に有益なこと。
しかし、それと大切な思い出とは別だった。
もっとも、夢で繋がったのは加護を受けているからこそなのだろうが、それでも。
(こうなることを望んでいたのだろうか)
だからこそ、それはアウグスト自身にもわからない。
わからなかったからこそ、中途半端な干渉だけをただ、続けてしまっていたのだ。
★★★
夕立は過ぎたものの、空は曇天のままだった。
家庭教師のノーラには『天気も悪いので是非こちらに』と泊まるよう勧めたものの、夕餉にはやや早い時間だったからか彼女はやんわりと断り、馬車で街まで送られていった。
ノーラ・フィオレンティーニは高位貴族の娘。家の柵に縛られる結婚よりも、新興貴族の台頭により需要がある家庭教師の道を選んだ。
身分関係なく顔の広い彼女は忙しく、断るならば無理強いはできない。
アウグストもダンスは得意ではないので「本当は彼女がいた方がいいのだろうけど」と苦笑しつつ、ベアトリーチェをダンス練習に誘った。
ダンスフロアの端には古いピアノ。その両脇にはメランドリ伯爵邸に相応しい、美しい葡萄柄の彫られた棚──ぜんまい式の自動演奏機だ。
「レディ、1曲お相手願えますか?」
少しおどけた感じで手を差し伸べるアウグストに、ベアトリーチェが笑う。
得意ではない、と言っていた筈の彼のリードは上手く、ベアトリーチェは一瞬、まるで自分が上手くなったような気になってしまった。
「……お上手ですのね?」
ダンスをしながら少し拗ねたようにそう言うと、アウグストは「きっと、君とだからだ」はにかみ、唐突にベアトリーチェを持ち上げてフワリと回転させる。
「っ旦那様!」
「ははっ、自分でも驚いてる!」
「ええ?」
そこからはあまり練習とは言えないようなステップでふたり、曲が変わるまで子供のように笑いながら踊った。
もっとも幼い子供の頃だって、ふたりともこんなことはなかったけれど。
「……これでは音楽が聴こえませんね」
夜になって再び降ってきた雨は、数曲ダンスを終えた頃には激しさを増していた。
2曲目からは真面目に踊っていたのもあり、楽しかったとはいえ疲れもある。雨音が酷く微かにしか曲は聴こえないが、ぜんまいの巻き直しも必要だろう。
もうそろそろ終わりにしていい頃合いだ。
だがアウグストはそれに答えず、代わりに繋いでいるベアトリーチェのを手を引き寄せる。 ──暗転。
ベアトリーチェの視界はアウグストが彼女の肩に回した両手によって奪われた。ヒールの高いパンプスを履いて、丁度ひとつ分程高い彼の頭が、ベアトリーチェの頭頂部に凭れる。
「すまない……もう少しだけこうさせて。 君の傍は安心する」
「──」
一瞬戸惑ったベアトリーチェだったが、何も言わずにアウグストの背に腕を回し、抱き締めた。
彼の身体と声が、僅かに震えていたから。