②噂と加護
メランドリ伯爵城では、予想以上に穏やかな日々が続いた。
アウグストは夜の相手をベアトリーチェに求めなかったが、特に女性を引き込んだり、夜中に出て行くような気配はない。
日々、軽度の接触はある。しかしそこに、慈しみや思慕は感じられても、生々しい欲望などを彼から感じたこともない。
『好色伯爵』などと言われているようだが、ベアトリーチェにとってアウグストは、あの夜言った『森の精霊』という比喩の方が余程しっくりきた。
アウグストは言葉通りベアトリーチェを慈しんでくれ、時間ができるとふたりで過ごしてくれる。
美しく優しい二つ上の彼に対し、ベアトリーチェは自分でも驚く程、強く心が揺さぶられるようなことはなかった。
ただそれは、情が育まれていないのとは違う。
城を囲む楡の倒れた古木から新しい木が育つように、先の見えなかった暗い心に穏やかで温かな気持ちが芽吹き、ゆっくりと育っているのを感じている。
どこか他人事のような距離感ではあるが、それでもなんだか面映ゆく、擽ったい。
ベアトリーチェは城の敷地内から出ることはなかったが、一度だけ、諸々の手続きの為に領の神殿に行った。
妻になるにあたり、まずベアトリーチェはペッキア家の養子となった。伯爵城の中では既に『奥様』と呼ばれているが、一般的な貴族のしきたりに倣い、今はまだ婚約者だ。
ペッキア家はメランドリ伯爵が懇意にしている新興貴族のひとつ。もっとも、授爵したのは義父となる好々爺のような顔をした年嵩の男性の息子だ。ベアトリーチェにとっては義兄にあたる。
トリヤーニ家の代わりに領主として就いたのは、伯爵家家令のセルジョの息子、ベルトランド・カルーゾ。ペッキア家の義兄とは旧知の仲だそう。
カルーゾ家は代々家令として伯爵の補佐を担っているので、引き継ぎまでの中継ぎ領主らしい。セルジョは「ロザリンダ様が選んだ男性が優秀であれば、いいように整えるのですが」などと言っている。
──ロザリンダはまだ見つかっていない。
ベアトリーチェにとっては、それだけが心配だった。
心配ごとは、ロザリンダのことだけだが、疑問は沢山ある。それは自分がアウグストに望まれた理由以外にもあった。
(……ここは不思議)
メランドリ伯爵城には、人が少ない。
セルジョと妻のアダルジーザ。あとは時折息子のベルトランドが現れる。使用人で見掛けるのはコックのカルロとハウスメイドのモニカくらいだ。あとは城の外に見知った数人の領騎士と、御者も務める馬番。客も殆ど無く、たまに義理の兄となった商人であるブルーノが御用聞きに来るくらい。──領主の邸宅ににいた頃の方が、人が多かった。
なのに城は常に美しく隅々まで掃除が行き届き、食事の用意や湯の用意、その他諸々の準備は不自由なくされている。おそらく誰か他にもいるのだ。
ただそれにしては、どうにも人影が見当たらない。
動揺と混乱からあまり覚えてはいないが、ここに連れてこられた日は人がもっといた気がするのだが。
貴族になったからといってあれこれ世話をやかれたり、格式ばったコース料理を食べたいとは思わないが、不自然な程、上記以外の人間と顔を合わせることがないのである。
(旦那様の醸す孤独さは、環境のせいかもしれない)
城の中は、いつも静かだ。
ベアトリーチェはそれを苦には感じなかったが、幼少期だったら少し寂しいと感じたかもしれない……そう思う。
「奥様、なにか不自由はございませんか?」
「いいえ、ただ……」
自身のことはセルジョとアダルジーザがなにかと手筈を整えてくれるので、特に不自由はない。ただ、ひとつ不安があった。
いずれ妻として出る、夜会のことである。
もともとアウグストは夜会や社交を必要としていない。それは妻である立場のベアトリーチェも然り。
「必要な夜会には伴侶として連れていくが、領主の書類仕事をやらされていたベアトリーチェの知識はそれで充分」とし、特に社交術を求めることもないと言う。
だがそうはいえど、伯爵の妻だ。
夜会に出ること自体が不安であり、特に作法が不安だ、と口にするとすぐ、セルジョが家庭教師を呼び寄せてくれた。
厳しいと評判の教師ノーラに「奥様の所作はよく基本が身に付いておられます」と褒められたが、ここからが本番だった。
「ですが、お世辞にも美しいとは言えません。 まず問題なのは、所作そのものではありませんね」
曰く、自信のなさからの萎縮が所作に滲み出ているという。
自信を持って堂々とするよう言われるも、それが上手くできない。そしてそれは、なかなか改善できなかった。
「──夜会など、無理に行かなくても」
「それはなりません」
ベアトリーチェを心配するあまりに、つい甘やかすアウグストの言葉を、珍しく強い調子でセルジョが諌める。
もとより行かないという選択肢は『少しでも、なにかの役に立てれば』と思っているベアトリーチェの中にも存在しなかった。
「旦那様、そろそろ奥様に、きちんと」
「ああ……わかっている」
「?」
頭を下げてセルジョが出ていくと、不承不承といった感じでアウグストは口を開く。
「その……君は、私の噂を聞いたことは?」
「……!」
勿論知っているが、どう答えたらいいかわからず、ベアトリーチェは頬を染め頷いた。
「……あれは真実だ。 だが、本意じゃない……言い訳に聞こえるかもしれないが」
「……」
突如始まった生々しい話だが、別段傷付きはしなかった。
それよりもとにかく気まずくて気恥しく、やはりなんと返していいかわからない。
なんとも言えない空気の中、少しの沈黙を挟んでようやくベアトリーチェは尋ねた。
「──あ、あの……『本意じゃない』、とは」
問の答えは、思いも寄らぬものだった。
「私は……私というか、代々メランドリ伯爵はこの地の加護を受ける。 これは古の神との契約だという。 ここではなにかと有用だが、その分土地から離れると生気が足らなくなる……脆い身体なんだ」
曰く、噂の語ることは概ね事実だが、それにはその事情が含まれているという。
女性からは、生気を得ることができる。
王や由緒正しい高位貴族もそれを知っており、それ故に彼が女性を抱くのを不貞とはみなさない。
王都でしか女性を抱かないのはその証左で、必要最小限の夜会のみ出ているが故。
貴族しか抱かないのは、魔力が高い貴族の方が生気を賄えるから。
「そう……ですか」
ベアトリーチェはたたただ驚いていた。
加護のことよりも、アウグストが女性を抱くことに。
勿論ベアトリーチェも閨事の知識はある。現に逃げ出した夜、男達の視線に嫌悪したのはそういう想像からだ。
だが、それがアウグストだと、正直なところあまりピンとこない。むしろ『加護』だとか『魔力』の方が似合っている。
「魔力が多い方が生気を賄えるが、魔力を含むものや魔石では賄えない……その、女性の体液が必要なんだ……」
「では、何故……」
言いかけて、ベアトリーチェは顔を赤らめ口ごもった。
『何故私を抱かないのか』──そう尋ねようとして。
婚約期間を取ったのは、対外的な面を重んじて。
逆を言うと婚姻前の妊娠にさえ気をつければ、閨事も問題はないのだから。
「な、何故私を娶るのでしょう? 確かに少しばかり貴族の血が──」
「いや、それはどうでもいいんだ。 ……ベアトリーチェ、君には……君は」
(ああ、まただ)
頼りなげに揺れる彼の翠色。
どうしてか、酷く目を奪われてしまう。
『君は、おそらくこの地の加護を受けている』──そんな衝撃的な言葉を、一度聞き逃す程。