①美しい人
「ベアトリーチェ。 君をできる限り愛したいと思う。 どうか私の妻になってくれないだろうか」
「……」
逃げていた筈が一転、目の前にはとんでもない美丈夫が自分に跪き手を差し出している。
これは一体、どんな夢なのだろうか。
ベアトリーチェはただただ不思議だった。
(明晰夢というやつかしら)
それにしても知らない人だ。そもそもこんな美しい人、人では無いのかもしれない。
創作の物語は好きだったものの、それに自分を重ねて無謀な夢を見た覚えはない。だが心の奥底ではそんな、自分でも思いもよらぬ願望があったのだろうか……そう思って、彼女は「ふふ」と笑う。
あまりに柄でもないが、夢ならそう悪くもない。
笑ったことを肯定と受け取ったのか、美しい人はベアトリーチェを抱き上げて歩き出す。その身体は意外にも温かく、彼の身体からは仄かに芳醇な葡萄酒の香りがした。
それに少し酔ったような楽しい気持ちで、ベアトリーチェは尋ねる。
「アナタは森の精霊かなにか?」
「……当たらずしも遠からずと言ったところかな」
少し困ったように眉を下げたあと、美しい男はふっと笑う。
「だが、そんな比喩も君の口から聞くとなかなか洒落ている」
深緑の薄闇を抜け、着いた先は小さな古城。
いつの間にか空は白く、夜明けが間近であることをこちらに伝えてくる。
「──」
見覚えのある古城は、遠目で見ていたよりも遥かに大きい。ベアトリーチェはそれを男の腕の中から見上げ、次に男を見る。
その白く美しい肌が透けることはなく、朝日に照らされ熟した葡萄色を帯びる柔らかな黒髪が靡くと、薄い翠色の瞳が彼女を捉えた。
……夢ではない。
そう気が付いて、ベアトリーチェは真っ青になった。
「アナタ……いえ、貴方様は……!」
「え? ああ……ごめん。 名乗っていなかったね」
彼はアウグスト・メランドリ。
この地を統べる、伯爵様である。
混乱のまま、『伯爵様の妻になる女性』としてベアトリーチェは下にも置かぬ扱いを受けた。
元々領主の娘だったベアトリーチェだ。傅かれることに慣れているわけではないが、多少の経験であれ無いのとあるのでは違う。
湯浴みし着替えを済ませた頃には、少しばかり冷静さを取り戻していた。
再びアウグストの元へ通されたベアトリーチェは、美しい淑女の礼を取る。貴族のやんごとなき血を辛うじて引くことだけが心の拠り所だった母が残してくれた、礼節を以て。
……まさか、使う機会などあるとは思っていなかったけれど。
しかもこんなところで、こんな方に。
出された軽食には手を付けず俯く彼女に、アウグストが気遣わしげに声を掛ける。ベアトリーチェは恐縮したまま、先の非礼を詫び『夢だと思った』と正直に語った。
「……まだ、夢なのではないかと。 それに……どうして伯爵様は私を妻に?」
「……それは」
アウグストは少し逡巡を見せた後、ゆっくりと口を開く。
「幾つか話すべきことがある。 ……まずはトリヤーニ家についてだが、潰した」
「!」
「領主の権限は既にカルーゾ家に」
「そう……ですか」
父は領主としてそれなりに結果を出していたが、その反面賭博や違法な取引にも手を染めていたそうだ。
(ああ……やっぱり)
ベアトリーチェが薄々ながら気付いていたのは、収穫量から計上される割り当てよりも、両親の羽振りが明らかに良過ぎたから。
招く客人は紳士に見えても、いつもどこか胡散臭い輩ばかり……家が潰れたことも、さもありなんといったところ。
元々それを伯爵との対面理由にするつもりだったベアトリーチェだ。その点は全く不思議には思わないが、目の前にいる男の美しさや、ここに自分がいることの方が余程信じられない。
気になるのはそこだ。
家を伯爵が取り潰したと知ったことで、それはやや角度を変えた疑問として出現した。
(益々私を娶る利点がないわ……)
むしろ、裁かれる立場ではないだろうか。──そう思いつつ、ベアトリーチェは口を噤んだ。
『優しい人が裏切らない保証などない』というのと同じで、わかっていたのに何もしなかったのは、我が身と近しい人間への身勝手な可愛さからだ。
ベアトリーチェ自身、理由がなければきっと、ずっと黙っていたのではないかと思っている。
今だって本当は、なにも聞かずにやり過ごしたい。だが、そういうわけにはいかなかった。
「……私は……私も、裁かれるべきでは」
ようやく喉の奥から言葉を絞り出すと、アウグストは一瞬瞠目し、翠の瞳を儚げに揺らしながら目を伏せる。
それがあまりにも稚くて、ベアトリーチェはおもわず目を奪われた。
置かれている状況に対して、今しがた発した自らの言葉の重みを忘れる程に。
「君は、親の罪は子の罪と思うのか?」
静かにアウグストは問う。
「──…………正直に申しますと、わかりません」
ベアトリーチェはそれについて明確な答えを持ち合わせてはいない。否を唱えるのは、自身の願望に縋っているだけのような気がしてしまうのだ。
「ですが、私は薄々気が付いておりました。 私には私自身の罪がございます」
「自身の罪、か……君の罪が気付いて言わなかったことにせよ、言えるような環境ではなかったことはわかっている。 それを罪として問おうとは思っていない」
慰めるように、優しい声。
(何故この人は、こんなに辛そうな顔をするんだろう……)
美しいから、そう見えるだけだろうか。
僅かに弧を描くように歪めた彼の唇に、昼間のロザリンダを思い出す。
「妹は、どうなりますか?」
「妹、ロザリンダも貴女と同様に。 トリヤーニ姓は無くなるが、罪には問わない」
「!」
「だがそれを知らせようにも、まだ彼女は見つかっていない──すまない、対処が遅れたせいだ」
トリヤーニ家の取り潰しを知り、罪人になったと思って無茶をしなければいいのだが……という言葉を、アウグストは心の内に留めた。
ベアトリーチェも似たようなことを思ったのか、不安げな表情を見せつつも、処遇には安堵した様子だ。
「──そう、そうですか。 ありがとうございます」
「……仲が良かった?」
「いいえ、良くは。 ただ……」
ふたりのことをなんと言うべきかわからず、ベアトリーチェの言葉は続かなかった。上手く言えないことに、虫の羽音のような小さな小さな声で、ただ謝罪する。
視線を戻したアウグストの双眸の翠には、彼女のそんな姿が迷子の幼子のように映っていた。
まるでベアトリーチェがアウグストに対して、そう感じたように。
最初に問うた肝心なことには答えないまま、『身体の心配』を理由にその日の話は終わった。実はあれから3日程経っていることを、ベアトリーチェはまだ知らない。
『好色伯爵』の噂は、人との関わりが少ないベアトリーチェですら知っている。物腰は柔らかく『好色』という感じではないものの、あの美貌……そりゃ女も放っておかない筈だ、と変に納得してしまった。
自分がそういうのを求められているとは考えにくいが、部屋を別に与えられたことに、正直ホッとした気持ちでベッドに身体を横たえた。
天蓋に貼られた、美しい幾何学模様を見るでもなく眺めながら思い出すのは、アウグストの告白。
(──『君をできる限り愛したい』?)
冷静に振り返ると、なんだか妙な言葉だ。
解釈はどうとでもできるだろうが、自分が愛されているなどとはとても思えない。
しかしベアトリーチェは、その意を追及しないことにした。
(話したくないのなら、いいわ)
どうせ行くあてなどないのだ。
それが彼の望みなら、従うのは構わない。
(それに……あの人からは、)
嗅ぎ慣れた匂いがする。この土地のワインの匂いだけではなく、唯一気兼ねなく息が吸える気がした、森の中、楡の匂い。
そして──孤独の匂いが。