③逃亡の夜
この地を統べるだけあり、メランドリ伯爵家にはそれなりの力がある。
少なくとも、地主領主達が多少力を付けたところで問題にならない程度には確実に。だからどちらかと言うと、彼等の伯爵家に対する野心は『如何にして伯爵様に媚を売るか』を考える方に向いた。
──伯爵は、とても好色だという。
噂の出処は、遠く離れた華やかな王都から。貴族家に出入りしている商人がそこのご婦人方と話して聞き及んだ経緯から、噂にはそれなりの信ぴょう性がある。
しかし、実際に伯爵のお手つきになった娘はいない。噂が真実にせよ、残念ながら伯爵は貴族女性しかお相手にしないようだ。
だがそうと知りながらも僅かな期待から、見目の良い領内の女性達はこぞって伯爵に見初められようとした。
なんせメランドリ伯爵であるアウグストは、若き伯爵というだけでなく、大変な美丈夫なのだ。
どうせ媚を売るなら見目の好い男がいい娘達と、伯爵に媚を売りたい地主領主達。当然メランドリ伯爵城の門の前には領主の手紙を持った派手な女や、メイドを志願する女、他にも沢山の女が現れた。
しかしその女達の中に、門を潜れた者は誰一人としていなかった。
ベアトリーチェは密かに靴と着替え、それにいくばくかの金銭を入れた鞄を森の入口の茂みに隠した。
(──誰も信用はできない)
そう悪い人間ばかりではないことは知っている。今までだって優しい人はそれなりにいた。
そうであっても、優先されるべきはまず我が身。そして、それから近い順だ。優しい人が裏切らない保証などはなく、深く人と関わることのなかったベアトリーチェには信頼に足る伝手など当然ない。
そんな彼女が頼れるとするなら、統括領主であるメランドリ伯爵のところだ。
おそらく父はなにか不正なことに手を染めている。
それを統括領主である伯爵様に訴え出るかたちで伯爵家に行けば、娘であるふたりのことはどうにかして貰えるかもしれない。
『好色伯爵』の噂はベアトリーチェも知っている。
伯爵の住む城は森を抜けた先にある。通常は迂回して馬車でいくのだが、それでは確実に捕まってしまう。
噂がどうあれ、どのみち森以外に選択肢などなかった。
──そして、翌日の夜。
パーティをなんとか抜け出し、ベアトリーチェはそのまま隠れて森を進みながら、靴だけを履き替える。履きなれた鞣した革の靴は使用人が履くような粗末なモノだが、パンプスよりは遥かにマシだろう。
月明かりだけが木々の葉の間に僅かに注ぐ。
ドレスの裾を結び、ベアトリーチェは時折後ろを振り返りながら走り続けた。
獣、あるいは本に描かれたような魔物が出てもおかしくない程に薄暗く、どことなく不気味さを醸す夜の森。
しかし、彼女が恐れるモノはそのいずれでもない。──人だ。
走った筈なのに、森の外の喧騒が聞こえる。
きっと、逃げたのがバレたのだ。
振り返り、明かりが遠くに揺れるのを一瞥。
だがベアトリーチェにはもう、あれが魔石で灯された邸宅の明かりか、それとも追っ手の炬の明かりかすらわからない。
焦燥に縺れる足をひたすら動かす。
(このままじゃ、捕まってしまう……!)
パーティホールで紹介された数人の男達に向けられた、全身を舐めまわし値踏みされるような、嫌な視線。
それを思い出し身震いしながら、駆けるとは言えないぐらいの速さで、藻掻くように必死に駆け続ける。
『こっちよ』
「?!」
どこからか、柔らかな女の声。
後ろに見える明かりとは違う、小さくてぼんやりとした頼りない光の塊が、ほわりほわりと声の方に浮かんでいる。
『こっち』
ベアトリーチェの身体は、縋るようにその光の方へと向かっていた。
いつの間にか喧騒が消えたどころか、無音のような静寂が辺りを包んでいる。そのせいだろうか。緊張と焦燥に強ばっていた身体が、情けない程に重い。
無慈悲だった森の暗闇は、木々の隙間からやんわりと注ぐ月明かりに照らされ、深緑の暖かな薄闇となっていた。
光が大きな古木のところで吸い込まれるように消えると共に、ベアトリーチェは力尽きて倒れ込んだ。
木々の葉擦れの音がさわさわと耳朶を擽り、肌を優しく撫でる。
『おやすみなさい わたしのかわいいこ』
薄れていく意識の中で、子守唄を聴いた気がした。