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男爵令嬢リリスの事情 後編

 そんな生活がしばらく続いたある日のこと。雑貨屋の御用聞きが、リリスに不吉な噂を教えてくれた。


 リリスを娼館送りにしようとしたご令嬢が、未だにリリス探しを諦めていないらしい。この家に「リリス」という「女性」がいることを知り、本物のリリスが見つからないのならば「老女」の「リリス」を殺してしまえと騒いでいるのだという。こんな森の中にまで聞こえてくるとは、どれだけ騒いでいるのか。しかも「売りとばせ」ですらなくなったことに、リリスは胃が痛くなった。


 ひとのよさそうな御用聞きは、心の底からリリスたちを心配しているようだった。そもそも森の中でぽつんと暮らしている訳ありの少年の世話を焼いていた人物である。さらに訳ありのリリスが増えてからも、誰にもそのことを漏らさずにいてくれたあたり、本当に信頼できる相手なのだ。だからこそ、迷惑をかけるわけにはいかないとリリスは決めた。すなわち、夜逃げの実行である。


「そういうわけで、ダミアン。私はここを出ていくことにするわ。もう少しダミアンと一緒にいたかったけれど、仕方がないわね」

「リリス、なぜだ。そいつらの言うことなど、放っておけばいいじゃないか」


 ふてくされるダミアンを見て、リリスは苦笑した。実際のところ、リリスとて彼らに振り回されるのはもうたくさんだ。だが、八つ当たりでひとの命を奪う力を持っているような連中に、正論で戦いを挑んだところで返り討ちにあうのが関の山である。逃げるが勝ちというではないか。


「貴族というのはえげつない生き物だから。私が言うことを聞かないとわかったら、まずは私のそばにいるダミアンに被害が行くわ」

「地獄の番人ダミアンさまに恐れるものなどなにもないぞ!」

「そうね。ダミアンさまなら、大丈夫でしょうね。でも、ダミアンが大丈夫でも、近くの村の皆さんがどうなるかわからないわ。例えば雑貨屋さんだってそうよ。私は、大切なひとたちが傷つくのはイヤなの」


 リリスはぎゅっとダミアンを抱きしめた。お日さまのような甘い匂い。何があっても、この子には幸せになってほしい。同じことをリリスの母も、リリスに対して願ってくれただろうか。


「でも、リリスは悪くない」

「バカみたいに相手を無条件で信じた私も悪かったの。もう少し考えてみれば、相手が嘘をついていたことにだって気づけたはずなのに」

「騙すほうが悪いだろう」

「でも大人になったら、騙されないように自分で自分を守らなくてはいけないの」


 不機嫌そうにひん曲がった口元さえ愛しくて、リリスはダミアンの頬を撫でた。


「俺が、リリスを守るから!」

「ありがとう。ダミアン、これをあげるわ」

「このペンダントは……」

「母の形見よ。明日からしばらくの間、ダミアンは雑貨屋さんのところで寝泊まりしておきなさい。万が一、あのひとたちがここに来たら危ないから。私は明日の朝、ここを発つわ」


 もともとダミアンのお家なのに、迷惑をかけてごめんなさいね。困ったように笑うリリスを見て、ダミアンが地団駄を踏んだ。


「俺は、神をも恐れぬ男ダミアンさまだ。リリスを泣かせる奴は、絶対に許さない!」


 リリスが差し出したペンダントを握りしめたまま、ダミアンが駆け出した。もうすぐ日が暮れる。小さな森とはいえ、足を踏み外せば怪我をすることだってあるというのに。


「あ、ダミアン、待ちなさい」


 家を飛び出し、あっという間に見えなくなったダミアンを追いかけて、リリスもまた暗い森に向かって走り始めた。



 ***



「ダミアン、どこ? どこにいるの? 聞こえたなら、返事をして」


 老婆の体では足が追いつかない。


 すっかりダミアンを見失ったリリスは、息をきらしながら森を探し回っていた。早く、ダミアンを見つけなくては。気ばかりせいてくる。


 この森に大きな肉食の獣がいるとは聞いていないが、小さな子どもがひとりでうろついて無事にいられるほど甘い場所ではない。足を踏み外したり、川に落ちたりすれば、ひとたまりもないだろう。


 夜の森は、昼の森と空気が違う。急に野盗に追われていた日のことを思い出し、リリスは心臓が痛くなった。


 ああ、ダミアンは泣いてはいないだろうか。怯えてはいないだろうか。せめてこの老いた体が、若者のように素早く動けたなら。リリスがそこまで考えたそのときだ。


 突然の衝撃を感じた。燃えるような熱さに悲鳴も上げられないまま地面に倒れこむ。左肩は、無慈悲なまでに深く矢に貫かれていた。


「まさか、本当に生きていたとは」

「だ、れ?」


 見上げたはずの相手の顔は、なぜかぼやけていてちっともうまく見えない。横になっているはずなのに、頭がくらくらする。舌打ちの音とともに乱暴に体の向きを変えられた。どうやら、顔を確認しているらしい。確認したところで、ここには少女のリリスなんて存在しないのに。


「どうやって生き延びていたのかは知らないが。悪く思わないでいただきたい。こちらも、仕事なのでな」


 わざわざ老婆を18歳のリリス扱いして説明してくれるなんて、目の前の人間は職務に忠実でかつ誠実なようだ。とはいえ本当に誠実な人間は、通常ひとを殺さないはずだが。馬鹿馬鹿しくなったリリスは笑ってみせたかったが、ひゅうひゅうと喉が鳴るばかりだ。


「かわいそうに。もう少し醜い容姿をしていれば、いらぬ嫉妬を受けずに済んだものを」


 少しもかわいそうだとは思っていないその口調が、つくづくしゃくにさわる。首を絞められているわけでもないのに、息ができない。口の中がからからに乾いて、舌がはりついた。


 しばらく前にダミアンとぴんぴんころりなんて話していたけれど、それはまだ自分にとってまだ「死」が遠い存在だったから言えたのだろうと、リリスは思う。いざ「死」が目の前に見えた時、自分の心を占めたのは「死にたくない」というただその想いだけだったから。


 ダミアンが大きくなるまでは死ねない。


 いつの間にか、少年はリリスにとって何より大切な相手になっていた。ダミアンのために頑張ってきたリリスだったけれど、それは小さな子どもの向こう側にかつての自分を見つけてしまったからかもしれない。


 自分が欲していた、けれど決して手に入れられなかった言葉を、愛を、優しさをすべてまるごとあなたに。


 ダミアンに幸せになってほしくて頑張っていた。けれど、本当に幸せにしてもらっていたのは、むしろリリスのほうなのかもしれなかった。


「リリス、大丈夫か!」


 視界が霞んでいくのと同じように、聴覚もおかしくなってしまったらしい。リリスの耳に聞こえてくるダミアンの声は、大人のような低い声。


 ああ、ダミアン。いけない、どうか逃げて。あなたが手を出して敵うような相手ではない。そう叫びたいのに、体が動かない。ちりちりと熱いような、寒いような不思議な感覚に囚われる。ふたりの会話はもはや途切れ途切れにしか聞こえない。


「貴様、よほど死にたいらしいな。俺のリリスに手を出すとは」

「そんな、馬鹿な。これはまるで、失われた禁術……まさかお前は!」

「俺か。俺の名は……」


 意識を失う直前、リリスの目に映った人影は小さなダミアンよりもずっとずっと大きなものだった。



 ***



「リリス、おい、リリス」

「……ダミアン?」


 ゆっくりと目を開ければ、そこはふたりが暮らす小さな部屋の中だった。魔女の一撃をくらったときに飲んだハーブティーによく似た、けれどあれよりもさらに甘く濃い香りが部屋に充満している。


「大丈夫か。俺を追いかけてきたリリスが転んで気絶していたから、雑貨屋に頼んでここまで運んでもらったんだ」


 バツが悪いのかそっぽを向いたまま、ダミアンが説明してくれる。


 まさか先ほどまでの出来事はすべて夢だったというのか。リリスは不思議に思いながら、全身を確認した。


 幸いなことに大きなケガはないようだ。もちろん、矢傷も血の跡もない。しかしどこかの木の枝にひっかけたのか、左の肩口が大きく破れていた。


 最後に見た人影は、雑貨屋の御用聞きのものだったのだろうか。けれどなぜかリリスには、それがダミアンのものであったように思えて仕方がなかった。


「ダミアンが大きくなった夢を見ていたわ」

「どうだ、カッコよかっただろう」

「ええ、とっても素敵だったわ。でも、あんな風に強くなってしまうのはもう少し先でいいと思うの」

「何でだよ」

「ただでさえ口が悪いのに、思春期になって『クソババア』なんて言われたら耐えられないわ」

「今のリリスが老婆なのは事実だろう」

「こら、『ババア』なんて言わないの!」

「いや、今のはリリスが自分で言っていただろうが!」


 ぎゃあぎゃあ騒ぐダミアンの目は、いつの間にか真っ赤に染まっていた。笑ったり、怒ったり、感情が爆発しやすい少年が泣いたところを、リリスはこれまで一度も見たことがない。けれどダミアンは、リリスを看病している間、瞳をずっと潤ませていたのかもしれない。


 自分と同じくらい、ダミアンもリリスのことを大切に思ってくれているのだ。それを知ったリリスは、嬉しさを噛み締めながらダミアンのこめかみにそっと優しく口づけた。


 この夜以降、リリスの行方を追い回す貴族の話はぴたりと聞こえなくなった。



 ***



「おい、リリス。服が小さくなってしまった」


 洋服の丈が足りなくなってしまったらしく、ダミアンがにょっきりと手足を見せつけてきた。つんつるてんの服を身につけていても、どこか気品あふれて見えるのだから美少年というのは恐ろしい。


「子どもなんだから、大きくなるのは当たり前でしょう」

「この体になってから随分経つが、こんなことは今までなかったはずだ」

「もう、ダミアンったら。子どもが子どものままだと、みんな困ってしまうわ。みんな、少しずつ大人になっていくの。そうして、私がダミアンと暮らしたように、ダミアンもまた誰かを幸せにしていくのよ」

「イヤだ。俺はずっと、リリスと一緒がいい!」


 突然リリスにしがみついてきたダミアンを見て、リリスは微笑んだ。ゆっくりと抱きしめ、それから優しくささやく。


「私だっていつぽっくりいくかわからないんだから。立派な大人になってちょうだい」

「立派な大人になったら、ずっと一緒にいてくれるのか」

「ダミアンの考える立派な大人というのがどんなものなか、ちょっと気になるわ。私もずっと一緒にいられたらいいけれど、寿命というのものがあるからね」


 とはいえ、最近はすこぶる調子がいいのだが。18歳だったあの頃と同じとまではいかないけれど、膝や腰の痛みがすっかり消えている。ダミアン特製のハーブティーがよっぽど体質にあっているのかもしれない。


「いや、俺が大人になるということはだな、リリスは少しずつ若返るということで」

「ダミアン。残念ながら、人間は老いる一方で、若返ることはないのよ。そうねえ、ダミアンが大人になるまで、一緒にいてあげられたらいいのだけれど」

「当然だろう。不老のダミアンさまが、リリスと一緒にいたいと思ったんだ。リリスが本物の老婆になっても、俺はずっとリリスと一緒にいるぞ」


 なぜか決め文句を言ってやったとばかりにポーズをきめ、リリスを見つめたダミアンだが、リリスはといえば「老婆」という単語に目を吊り上げていた。


「だから、女性に向かってババアと言ってはいけないって教えているでしょう。いい加減にしなさい。罰として、今から井戸の水汲みね」

「いや、ババアとは言っていないし、老婆になっても愛して」

「また、ババアと言ったわね。今日のデザートのチェーリーパイはお預けよ」

「どうして!」


 今日も小さな森の小さな家の中では、リリスとダミアンの賑やかな声が響いている。

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