男爵令嬢リリスの事情 前編
「まったく、魔女のくせに『魔女の一撃』をくらうとはな」
「誰が魔女ですって! あいたたたた」
ベッドに横たわっていた老女――リリス――が、声をあげて身悶えした。
「年寄りの冷や水だ。急に張り切ってストレッチなんぞするからさ」
「失礼ね。私はまだ18歳、花の乙女よ」
「えらく老けた乙女だな」
けらけらと笑っているのは、リリスの雇い主である少年ダミアンだ。じっとしていれば人形のように可愛らしい見た目をしているくせに、何とも意地の悪い顔で笑い転げている。リリスがぴしゃりと叱れば、庭のカラスが慌てたように空へと逃げ出した。
「見てみろ、使い魔が逃げているぞ」
「だから、私は魔女じゃないって言っているの」
「まあ、魔女にしては出来損ないが過ぎるな」
「まったく減らず口ばかり叩いて」
リリスはため息を吐いた。どうせ口で敵うことはないのだ。相手にするだけ無駄というもの。
「今日は雑貨屋のお兄さんが配達にやってくる日だったわね。そのときに、あなたがすぐに食べられるような保存食を多めに買っておきましょう。代わりに今月はお砂糖を買い控えて」
「けちけちするなよ」
「そういうのは、一人前になってから言いなさい」
「だから、俺はこの国を震え上がらせた大魔術師ダミアンさまだと言っているだろう。そんなに金が必要ならば」
腰に手をあてて得意げな顔をするダミアンをよそに、リリスはやらなければならない家事を確認する。
「誰しも、そういうのに憧れる時期があるわよね。私も小さい頃は、聖女さまごっこをやったものよ」
「違うと言っているだろう、俺は本物の」
「はいはい、ちょっとニヒルでクールなイケメン、ダミアンさま。その男っぷりを活かして、井戸から水を汲んできてちょうだいな」
「なんだ、その適当な誉め方!」
「あら、ダミアンさまは井戸の水も汲めないのかしら」
「できるにきまっているだろう! なんだったら、今すぐ湯桶を満杯にしてやろうか!」
バタバタと騒々しい子どもの足音を聞きながら、老女は痛み止めの効果があるというハーブティーを手にした。温かいお茶を飲み干し、布団を被ったまましばらく縮こまっていれば、とろとろと眠気が訪れる。
「リリス、今から寝るのか」
「ああ、もうすぐお昼だったわね。昨日焼いたパン、それから塩漬け肉があるでしょ。今日の夕食に使うから卵は残しておいてね。食べたら、ダミアンの夕食だけオムレツはなしだから」
「俺はそういう意味で聞いたわけではない」
「おやつは戸棚の中にあるわ。お昼ご飯をちゃんと食べてからにするのよ」
「だから、俺を子ども扱いするなといつも言っているだろう」
不満そうなダミアンを尻目に、リリスは頬に手をあて悩ましげにかぶりをふった。
「あなたが大きくなるまでは、元気でいたいのだけれど。お迎えが来るなら、ぴんぴんころりを希望したいところね。一体いつまでもつかしら」
「いつ死ぬかわからないから、ぴんぴんころりなんじゃないのか。だが、そもそもギックリ腰くらいで死ぬわけがないだろう」
「何が起きるかわからないのが、この世の中ってものよ」
老人が言うにはいささか不謹慎な単語を発し、リリスは目をつぶった。
***
今となっては信じるものは誰もいないが、こう見えてリリスは男爵令嬢であった。とはいっても、生粋の貴族などではない。
屋敷で働いていたところお手付きとなり、赤子を身ごもったことがわかるやいなや即座に追い出された平民女、それが彼女の母親である。独り身で子どもを生んだリリスの母は、働きづめで体を壊し、早死にした。
よくある物語のように、母の死後、男爵家に引き取られたリリスは、貴族の子女ばかりを集めた学園に入学することになった。そこで愛嬌を振りまき、高位貴族の男性たちに取り入ることを、父である男爵に望まれたからである。
リリスとて、馬鹿ではない。婚約者のいない男性を狙って行動していたつもりだ。かと言って、もともと貴族ではないリリスであるから、誰が誰の婚約者であるかという情報については疎い。
父親から婚約者がいる人間の一覧リストなどを与えられたわけでもないから、本人やその周囲の友人たちに情報を隠されれば、彼女には確認する術がなかった。
結果的にリリスは、母よりも悪い状況に追い込まれていた。リリスにとって真剣な交際であったはずが、相手にとってはただの火遊びでしかなかったのだ。さらにお相手の女性は、自身の婚約者の火遊びは許したが、火遊びの相手であるリリスのことは許さなかったのである。リリスにしてみれば、自分こそ学園生活を棒に振った被害者であるのに。
『そんなに男性がお好きなら、それを一生のお仕事になさったらいかがかしら』
微笑みながら娼館行きを示唆されたリリスだが、娼婦として悲惨な人生を送ることにはならなかった。もちろん、相手がリリスのことを許してくれた……というわけではない。
これまた物語にありがちなように、店に売り飛ばされる途中で馬車が野盗に襲われたのである。
『助けて、お母さん!』
形見のペンダントを服の上から握りしめ、リリスは森の中を必死に走った。心を通わせたはずの男に捨てられ、娘を育てるために早死にした母が自分を助けてくれるかどうかなんて今考えれば怪しいものだけれど。それでもあの時のリリスにとって唯一すがることができたのは、亡き母だけだった。
そしてようやく見つけた小さな家。中に入り込んだとたん、目も眩むような光に襲われた。
最初何が起きたのか理解できなかったリリスに、断片的ながら事実を伝えてきたのがダミアンだった。
『おいお前、どうやってこの家に入り込んだ』
『ごめんなさい、野盗に追われていて……』
『……鍵がなければ開かないはずだが? それにしてもこんな老婆を襲うなんて、最近の盗賊というのはよっぽど金がないらしい』
『はあ、誰が老婆ですって?』
『何をそんなに不機嫌になる。事実を言ったまでだろう』
『だから私は……』
そこで鏡を見たリリスは絶句した。
『嘘でしょう。一体どういうことなの?』
鏡に映ったリリスは、すっかり年老いていた。真っ白になった髪にしわだらけの顔。ほっそりとしていた手足は、節くれだち、ぼこぼこと血管が浮き上がっている。
悲鳴をあげつつも失神することなどなかったのは、あくまでリリスが下町育ちの庶民だったから。老婆に変わったことは確かにショックではあったけれど、これならば男爵令嬢リリスとして娼館に売り飛ばされることはない。意外と図太かったリリスは、それからダミアンの世話という名目でこの家に住み着いている。
***
ダミアンがどういう経緯でひとり暮らしをすることになったのか、リリスは知らない。本人曰く「偉大なる大魔術師は、おつきのものなどいなくても問題ない」ということらしいが、そんな答えで納得できるはずがなかった。
そもそも魔術師ダミアンといえば、リリスでも知っている超有名人だ。ただし、善人かと聞かれると首をかしげたくなる。小さい子どもが夜遅くまで起きていると、「早く寝ないと、ダミアンにさらわれて薬の材料にされてしまうよ」と脅されるような、そういう類いの人物なのである。
ひどい人間嫌いで使い魔を通してのみやり取りが可能だったとか、食に興味がなさ過ぎて好き嫌いさえなかったとか。魔法薬のためならどんな極悪非道な行為にでも手を染めたとか、錬金術に長けていて家は黄金でできていたとか。そういう眉唾な噂には事欠かない。
周囲の迷惑をかえりみずあまりに自由気ままに生きていたため、業を煮やした当時の聖女により、不老と魔封じの呪いをかけられ、庶民に混じってひっそりと暮らしているという言い伝えさえ残っている。
功罪さまざまな術式を残したこともあり、世紀の偉人とも、神をも恐れぬ愚者とも呼ばれる男。とはいえ、ちょっとカッコつけたいお年頃の男の子に大人気な人物、それが魔術師ダミアンであった。
おそらくダミアンは、同名である魔術師としてふるまうことで孤独を紛らわせているのではないか。リリスはそう考えている。
口は悪いが、ダミアンの立ち振る舞いは洗練されており、容姿もかなり整っている。普通の子どもだと思えるはずがなかった。どこぞの王族の落とし胤か、はたまた家督争いから落伍したのか。
たかが男爵の血を引いているだけで、リリスも貴族社会のごちゃごちゃに巻き込まれたのだ。この見るからに高貴な血筋の子どもを野放しにしておくのは危険過ぎる。
まあ、娼館に送り込まれる前に老婆になってしまう自分のようなおっちょこちょいにはならないかもしれないが、それでも身の振り方を考えられるように、しつけてやらねば。
下町育ちで、実は結構世話焼きなところのあるリリスは、彼女なりにいろいろと考えて子どもの世話をしているのであった。
「ねぼすけ魔女、やっと起きたか。もう夕方だぞ」
目が覚めると、ふてくされた顔のダミアンが枕元に立っていた。「ちょっと待ってね」と頼んでも、普段なら5分も待てないダミアンが、夕方までリリスを寝かせてくれたらしい。
「おかげさまで、だいぶ体が楽になったわ」
「さっき雑貨屋が来た。リリスが寝込んでいると伝えたら、魔女も病気になるのかと首をひねっていたな」
「だから、魔女じゃないって言ってるでしょ」
ダミアンのような子どもから見れば、歳をとった女性はみな魔女のようなものなのかもしれないが、雑貨屋の御用聞きにまでそう呼ばれているとは。頭痛を覚えながら体を起こせば、ふわりと良い匂いが鼻をくすぐった。
「雑貨屋が、体調が万全でないときほど栄養をとったほうがいいと言っていたからな。別に、食べたくなければ食べなくたっていい。俺が自分で全部食べる」
「ダミアンがスープを作ってくれるなんて嬉しいわ。火の扱いは教えていたけれど、困らなかったかしら」
ぷいっとそっぽを向きながら、褒めてほしくて仕方がないらしく口元が緩んでいる。子どもらしいその仕草に思わず目尻が下がった。
「俺は、天才ダミアンさまだ。本来なら、火魔法くらいお手の物なのだ。だが、雑貨屋が手伝いたがったから、少しばかり手伝わせてやった。俺の助手を務められたのだ、子々孫々まで誇って良いだろう」
「今度お会いしたら、お礼をしないとね」
「むしろ、お前が俺にもっと礼を言うべきだろう?」
「そうね。本当に助かったわ。ありがとう」
そのままゆっくりと体を起こしたリリスが見たものは、魔物の襲撃にでもあったかのようなハチャメチャな部屋の中だった。子どもにお手伝いをしてもらうと手間が倍以上に増える。口に出してはならないこの世の真実である。
「ここまで盛大に汚せるとは、なかなかに才能があるわ」
「まったくもって不思議だ。マンドラゴラでもここまで暴れないというのに、ただのトマトが爆発なんてするのだから」
「ダミアン、料理っていうのはごちそうさまの後、つまり片付けまでが料理だと言われたことはない?」
「俺は魔術師見習いだった頃から、掃除なんてやったことはないが?」
無駄に胸をはるダミアン。どうやら、伝説の男は汚部屋の持ち主だったらしい。せめて子どもの情操教育にふさわしいように、綺麗好きであってほしかった。肩を落としたリリスに、慌ててダミアンが言い募る。
「だが、薬はよく効いただろう!」
「薬……ああ、ハーブティーのことね。ええ、びっくりするくらい腰の痛みがひいたわ」
寝る前に口にしたお茶のことだろうか。
「ふふん、そうだろう。あれは、ダミアンさま特製のエリクサーなのだ。明日にでも体は元に戻っているはずだ。とはいえ、念のため今日はゆっくりしておくといい」
「優しいのね、ダミアンは」
「おい、信じていないな。そのエリクサーはかつて王家でも珍重された」
「はいはい。それじゃあおしゃべりはここまでにして、いったん雑巾をとってきてね。さすがに今はしゃがめないから、床掃除はダミアンにお願いするわ」
ダミアンが固まり、じたばたとわめき始めた。典型的な駄々っ子だが、リリスも慣れたものである。
「リリス、俺の話を聞け!」
「私が年寄りだからってそんなに大声で叫ばなくても、ちゃんと聞こえているから」
「だいたいお前は」
「きれいなお部屋で食べるとアップルパイは美味しいわよ」
「アップルパイ! まかせろ、最果てのダミアンさまにかかればこれくらいお安い御用だ!」
瞳を輝かせながら雑巾を振り回すダミアンに、リリスはこっそり吹き出した。こんな風に大好物を前にすぐにご機嫌になる子どもが、魔術師ダミアンごっこをするなんて可愛らしい。なにせかの御仁は、肉体の保持に問題がなければ食事などなくて構わないと宣っていたそうだから。
大急ぎで部屋の片付けにとりかかるダミアンを見ながら、リリスは彼が少しでも自分らしく過ごせるようにと願った。