157 なもなきこども
それはユラ大陸の三強大国、ではなくある孤国連邦の1つ、その中でも小さなとある国の海辺にある、小さな寒村での差し障りのない、特別でもない普通の日の夜の、何でもない出来事だった。
天気は晴れ。星もよく見える。寒い地方なので夜空はとても美しく、闇告星も爛々と輝いている。
何でもない日常で働き、家族と団欒を過ごし、夜空を見ながら酒を飲み、寝る。家を持たない旅人や冒険者は焚き火をしながら夜空を見上げて、休息を取ったりしているかもしれない。
まあ魔物と戦ったり盗賊と戦ったり、世界を脅かす悪の秘密組織と戦っているかもしれない。
そんな家庭や冒険者がほとんどだと思う。穏やかな夜だった。ちなみに世界を脅かす悪の秘密組織がこのユラ大陸にあるかどうかは、誰も知らない。
その男は、そんな綺麗な夜空を鬱々とした目で見ていた。
思い描いていた未来では、今頃妻と、いや、愛する妻と初めての我が子と笑い合っていたはずなのに。誰も悪くないが、その日だけは信仰する神だけでなくユラ大陸に恩恵をもたらす神々を、つい、ほんの少しだけ恨みそうになってしまった。
この日の夕方、つまり男がぼんやりと空を見上げている今より数時間前、男の妻が新たな命を産んだのだ。
男には出来ないことを成し遂げてくれた女にとても感謝した。喜んだ。女も辛い体を横たわらせながら、もちろん喜んだ。男に似たのか栗色の髪の毛が少しだけ生えていて、まだ目は開いていないけどきっと可愛いのだろう。男の子だったが我が子という存在は、可愛いのである。
しかし、我が子を無事取り上げて一息ついていた産婆のオババが急に険しい表情を浮かべると、そのことに少し遅れて気付いた夫婦もまた表情が変わってしまった。
我が子には、生き物に宿るはずの魔力が一切無かったのだ。泣き声はあげているが、どこか弱々しく聞こえる。
念入りに調べたオババが首を振ると、女は泣き叫んで気絶し、男はただ呆然として立ちすくむだけとなった。しばらくしてオババが帰るのを見送るために男が外へ出た。
オババが自分の家へ帰るのを確認すると、妻とオババの前で堪えていた涙を流した。いつの間にか起きたらしい女の慟哭が後ろの自宅から聞こえ、男もより一層涙を増やすことになった。
翌日、オババが朝早くに来てくれた。この村で長いこと産婆をしているオババでも『魔力なし』の子供を見るのは実に20年ぶりで、それ故に夫婦のことが心配だったのだ。昨日の夜に男の様子を見かけて事態を悟った村人たちも心配そうに夫婦の家を見つめていた。
オババが家へ入ると、泣き疲れてはいたが女は少し歩けるようになっていた。いや、本来は動くべきではないとオババは言うが、我が子のことは少しでも見届けたい。オババも女であり母である。その気持ちは痛いほど分かるので、そっと肩に毛布をかけてやった。
家にあった木材を使って精一杯きっちり丈夫に作った木の箱に、裕福とは言えない我が家からかき集めた中でも柔らかい布を敷き詰め、少しでも我が子がその時まで寒くないようにする。
村から出る時には近所の人々に見送られ、夫婦は3人で目の前に広がる海に向かう。
砂浜へ着くと、夫婦は木箱を砂浜へ置いて2人で言葉を紡いだ。
『遥か遠き祝福の地、我々の知ること無き彼方に住まわれる神々よ。
我らは再び過ちの種を産み落とした。
我らはここに神々への懺悔と敬愛を捧げる。
我らの溢した哀しみを汲み取られよ。
神々よ、我らの種は神々に還ることをここに祈る。どうか、どうか受け入れられるよう。
我らは神々の作られたこの地を愛する者なり。』
夫婦は我が子が入った木箱を海へそっと押し出す。どこからともなくリンリンと鈴の音が聞こえ、木箱は鈴の音に導かれるように沖へと進む。
神送りとは、魔力のない子供を自然を司る神々の元へ自らの手で送り出す儀式である。どうしても行けない時は代理人に儀式をしてもらうが、大抵は魔力なしの子を産んだ夫婦が行うものだ。
せめてものの、この寒村で信じる神の元へ、魂だけでも還られるように。本当に還れるのかは誰にも分からないけれども、それでも安らかに逝けるように。そしていつかまた、神々の元で魔力を受け取って我々の元に産まれてきてくれるように。
そう、これは神々が認めた、『我が子を殺すため』ではなく『我が子にまた巡り会うため』の儀式なのだ。
神送りをすることになった父たちと母たちは『次は魔力のあるこの子と再会したい』、そう強く願いながら祈るのだ。
夫婦は涙を海に落としながら、我が子の入った木箱が見えなくなるまでじっと見守り、その後しばらくぼんやりと砂浜へ座り込んでから帰宅していった。
近所の人々も『神送り』を遠くから見届けると、夫婦の家に少しばかりの差し入れをしてやろうと考えながら家へと戻って行った。
大抵の場合、木箱がフタもなく流れると近いうちに転覆したり浸水したりする。こうして中にいる赤ん坊は神々の元へ、はっきり言うと命を終えることになる。
中に入っているのが柔らかい人間の子供であるのならば、海を飛ぶ怪鳥や海を泳ぐ魔物に攫われることも容易く想像できるだろう。
さて、ここで1つ目の奇跡が起きる。
男が作った木箱は浸水もせず、その流れる軌道がほぼ全て穏やかな波であったこと。
少しでも快適なようにしっかりと作られたようだった。転覆もしなかった。ちなみに男は村一番の大工の弟子だった。
続いて、2つ目の奇跡。
ユラ大陸南の海から通る海域全て、魔物も危険な水生生物も偶然いなかったこと。
普段は海上の獲物を食らうシーサーペントは赤ん坊が鳴いている時間帯に珍しく満腹で海底の住処でむにゃむにゃ微睡んでいる間に、木箱はシーサーペントの真上を流れて行った。
海の無人島を根城にするお肉大好き猛禽類たちと無人島に住むお肉果物大好きグルメなサルたちと超絶美味しい鹿肉を賭けて偶然死闘を繰り広げている間に、赤ん坊の木箱がその横を流れて行ったりした。結果は引き分けだったので半分ずつ分けたらしい。
その他にも様々な偶然が重なり、木の箱はゆりかごのように赤ん坊をあやし、ゆらゆらと海を漂った。
ユラ大陸で『神送りによっていつかは辿り着く』と言われる島はユラ大陸のかなりとてもめちゃくちゃすごく遠い南にある。本当に遠い。あのクリストファー・コロンブスが新大陸を見つけた距離よりももっと遠い。たぶん。
神々が実際に住むそこは『神ノ島』とシンプルに呼ばれていた。神々も面倒だしシンプルでよろしい、と受け入れていた。
海岸で釣りをすることが日課の水神ネイラードは、あくびをしながら糸を垂らしていた。決して釣りが上手いわけではなく、釣り糸を通して海の様子を見ているのだ。釣りも兼ねているので、魚が釣れたら食べるのだが。
そんな彼は、ゆっくり流されてきた木箱に気付いた。珍しい。とても珍しい。木箱が箱のままでこんな遠い島に辿り着くなんて。
何が入っているんだろう、孤国連邦の船から落ちたのかな。中をひょいと覗くと、人間族の赤ん坊が入っていた。すやすや寝ている。しかも生まれたてっぽい。
やばい。そう呟いたネイラードは釣り道具を雑に空間魔法の中へ仕舞い込んで、神々の生活拠点である島の中心地へ赤ん坊を木箱ごと運んで行った。
「ただいま、やばい」
「どうしたのよ」
「これ」
「あら、まあ」
「これは、やばいわね」
「やばいのぅ」
「本当だ、やばいな」
水神ネイラードの感想は他の神々の感想と一緒だった。満場一致だった。
ちなみにこの時の『やばい』は『やばい、人間族の赤ん坊が流れ着いちゃったよ、どうしよう』ではなく、『この赤ん坊、ユラ大陸のどこからかは知らないが無傷でここまで流れ着いたぞ、やばい運命力だ』の『やばい』である。
全神が揃ったところで、赤ん坊の木箱を囲んで話し合うこととなった。中の赤ん坊はとりあえず豊穣神ハーヴェジルが抱っこして、人間族でも食べられる果実を絞ったものを少しずつ与えていた。
ちゅうちゅうと布に含まれた果汁を吸う赤ん坊を見て、豊穣神ハーヴェジルは破顔している。尚、この時点で本来神々が持たない母性父性らしきものが全員に芽生えつつあったが、神々なので特に気にすることはなかった。何せ、これまで全員で1人の人間に注目することなんて無かったのだ。
要は、全員人間の赤ん坊にメロメロになりつつある。神々は赤ん坊の額に手を当て、産まれる前からここに至るまでの記憶を読んで、既に事情を理解していた。
事情が分かったところで「無事に辿り着いたとはいえ、数日間水も飲んでいなかったし衰弱している。それ以前に魔力がない。あと数時間で亡くなってしまうかもしれない」と癒神ローロアは告げる。
豊穣神ハーヴェジルは我が子が死んでしまうかのように顔を顰めた。彼女の子供ではない。
ここで神々の代表でもあり赤ん坊を撫でまくっていた万能神ゼノンは、「『類い稀なる幸運でここまで来た奇跡』を持つこの人間を讃える」ということで神々で出来ることをしようと決めた。
「孫は私が助ける」とも付け加えた。彼の孫ではない。
魔力もない人間族の赤ん坊をどう助けるかというと、癒神ローロアが提案した「『人間の血』と『神の血』を総入れ替え」が採用された。
神々の血には魔力がたっぷりと溶け込んでいるため、その血が流れるということは魔力を持つということになる。理論上は出来る。神々ならば。
そう聞いた神々は全員が癒神ローロアに血を渡した。
しかし、これは肝心の赤ん坊が耐えきれなければ意味は無い。人間でありながら神の一部を授かるのだ、拒絶反応はあっておかしくない。無謀な賭けではあったが、赤ん坊を信じるしかない。
癒神ローロアは癒やしの神。生かすことに関して右に出る者はいない。彼はとても頑張った。詳細は誰にも真似出来ないしグロテスクなので秘密である。
強運はここでも発揮され、赤ん坊は無事魔力をまとった、まさしく『神の子』として生き延びることが出来た。
人間の体でありながら神の血をその体に巡らせる、強い運命力を持つ神の子。その存在がどう育つのか。育ての親兄弟は男神8柱と女神6柱。
どうなるのかは、この時の神々ですら分からないことだった。
「というのが、俺も覚えていない俺の過去なわけなんだが。ああ、血が神々のものというだけでその他は人間なんだ。だから俺は種族的には人間族になるわけだ」
「サイ」
「うん?」
「どのへんが俺と同じやねんな。虐待のギャの字もあらへんわ。育児放棄とはまた違うけど、ここの儀式に沿って送り出されとるやんけ。思ってた500倍違う上に養子ポイントないやん」
「まあ焦んなって。養子ポイントはここからだ」
「いや養子ポイントって何…?」
そんな冒険者の1人の呟きは無視された。