表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

歴史とDNA

続ドラヴィダ人

作者: とびうお君

 コロナでインド人を取り上げたため、以前書いたものを読んでいたらこれまずいなってのが見つかった。ドラヴィダ人が中東人だと書いてるけど、最新のもので古い常識が変わってしまった。


 ただし、今の状態についてで。過去についてはまだ分かってない。過去アフリカ中東東南アジア東アジアアメリカって拡散で単純に捉えていた時代があった。しかし、どうも現在の遺伝子を調べると中東には古い遺伝子がおかしなのしかない。正確には父系遺伝子が古いものが一部を除いて死滅している。


 その一部が大きな問題で、この一部がネアンデルタール人との混血をしてない集団と言われている。この集団まだ特定されてない、それと言うのもね何出るタール人に関してアフリカ人と非アフリカ人を比較した場合、中東に謎のアフリカ人のネアンデルタール人に近い集団がいないと上手く説明ができないことが分かった。


 だが遺伝的に中東はアフリカ人に近いわけじゃない。そのため、初期の段階でネアンデルタール人と混血する前に分かれたユーラシア人グループに近い祖先集団がいると仮想集団が想定されたこれがたびたび取り上げてる基底ユーラシア人である。


 この例外的な集団を除いてどうも父系に限ってだが中東人は新しい集団にすっかり入れ替わってしまっているらしい。ただし母系mtDNAに関しては単純なアフリカからの拡散モデルで説明できるらしい。ただこれも問題があって、東アジアやアメリカに多いM系統取って系統がこの基底ユーラシア起源だと思われるM1を除き中東欧州で消え去ってしまっている。あくまでN系の広がりだけが単純な拡散モデルにあってるだけになる。


 そのためドラヴィダ人は中東人に近いとは単純には言えない。当時の拡散モデルが単純なものでとらえて私が書いたからになる。ただし、当時すでにこの点は事実としてあった。問題は、その意味について新しい学説などが出てきたとなる。どうもかなりの部分で中東欧州は遺伝子が新しい集団に大きく入れ替わっていると見られている。


 そのためドラヴィダ人を説明するにはアボリジニを持ち出さないといけない。出アフリカはかなり難しい部分で未だに良く分かってない。最近出てきた南周りルートと言うものと北回りルートもまだ決着ついてない。それどころかどっちもありうるとなってる。


 とりあえず一旦出アフリカした集団が、南方の海岸ルートを進んだ集団が、アボリジニの祖先となる。この過程でインドに残してきた集団が、ドラヴィダだとなる。草原牧畜集団や後の中東集団とすっかり混ざってしまったため分かりにくいが、アマンダン諸島にはまだこれらの純粋な集団が残っていて、彼らは形質的にもアボリジニに似てると思う。


 人種と言うが気を付けないといけないのは、形質が古いタイプを残してるだけで、全人類ただの黒人だったんだと知らないといけない。そのため彼らはアフリカ人よりアジア人全体に遺伝子自体は近いんだ。古い形質を残したままってだけで遺伝集団はアジア人である。


 さて問題は、さらっと書いた中東集団だが、これが単純なモデルでは理解しがたいグループになる。核遺伝子から言えば中東の集団が旧石器時代にインドに移住してきたとなる。ただドラヴィダインド人に多いHって父系ハプロは、もとはどこにいたのか?でかなりややこしいものがある。


 この手の移住は、新しい時期しか分からない。その中東の集団の一部は元どこにいたのか?はまだ良く分かっていない。あくまである時期に移動したのを古DNAから推測してる点にある。父系ハプロHはどっちかと言えばインドから中東ではまばらで、欧州に薄い広がりを持つ。インドを中心に広がったと思える部分がある。


 これらの集団はアボリジニとは何の関係もない。この集団はどこから来たのか?中東の核DNAの流れからなのか?ならおかしな話だと思う。中東から後の農耕民に近い集団が旧石器時代に移住してきたのは事実。だが、父系ハプロとしてのHはどっちかと言えば中東に逆に広がったように見える。


 これちょっと難しい話だと思う。1万から2万年の間に中東から遺伝集団がインドに移住したのは確か。だが、その集団は元どこにいたのか?良く分からない。この点どうも中東と欧州の古い集団が大きく入れ替わってるのが関わっている。インドにはもともと中東の遺伝子に近い集団がいたのじゃないか?と言う疑問も残る。


 まあこれは難しい。分かってる事実だけだと、1万年から2万年の間に後の農耕民集団に近いグループがインドに中東から移住したのが分かってる。これ当初は農耕時代に移住したと思われていたが、さらに古いDNAと石器など考古学的証拠で判明した。インダス文明がイランからの単純な農耕民移住で考えていたが、この事実が分かってから民族の移動は無かったと判明した。


 そのため文化伝播か?独自の農耕開発という事になる。多分時期的なものを考えると文化伝播。


 じゃ中東の集団で良いじゃないか?となるが、そう単純じゃないのは以前私は、アフリカからの単純な拡散モデルで中東人だと書いてたが、実際にはアボリジニに近い集団は中東ではほぼ入れ替わっている。


 そのためドラヴィダ人とは何か?と言うと、古いアジア集団であるアボリジニに近いオーストラロイドと旧石器時代に移住してきた後の農耕民に近い中東人と、新石器時代に南下してきた欧州人に近い草原牧畜民という事になる。最後の集団が所謂アーリア人。南部のドラヴィダ人にはこの遺伝子が薄い。


 ただし面白いのは、隣のバングラディシュは案外このアーリア系の遺伝子が濃い。これはあそこだけはかなり特殊な移住の仕方になったからだと考えている。ただし色は黒い。でも顔つきは確かに北部インド人に近い。ドラヴィダ人はかなり違う。形質がオーストラロイドにやはり近い。


 おそらくイランだけの中東集団だと思う。正確にはイランは現在は中東集団から遠い。インド人に近い部分もある。それはアーリア人によるものになる。だが、イランはそのまえに農耕民の集団がいてその集団とドラヴィダ人は混血している。彼らが何者か?と言うと、インドから広がったかもしれないHを無視すると、ロシア辺りから南下したクロマニオン人に近い集団と基底ユーラシア人の混血となる。


 それだと、じゃドラヴィダ人に多いHはどうやって欧州まで広がったのか?が良く分からない。話が逆転してしまうからになる。Hはおそらく、旧石器時代にインドに中東集団が移住してくる前にインドから拡散したと見ている。この辺りの時代の遺伝子の流れはさっぱり分かってない。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ