〈幕間〉カウンセラーの憂い
矢上裕人はその知らせを聞いた時、悪い冗談のような印象を受けた。
「はい、彼は僕が担当していた生徒です」
「……自殺の兆候。いえ、そういったことを口にしていたことはありません」
スクールカウンセラーとして勤務していた学校の生徒が自殺した。
臨床心理に携わる者の宿命として、相談者の自殺に遭遇することはけっして稀なことではなかった。
運がよかったといってよいのか、彼はキャリアを積み始めてからの十年近い年月の中でその状況にかかわる機会はなかった。
あるいはそれが初めての出来事だったからこそ、矢上裕人という一人のカウンセラーの心に大きな影を落としたのかもしれない。
自殺の一報が入ってから数日後。
彼は海沿いの道をドライブして、砂浜の近くにある駐車場に車をとめた。
そこは夏場は海水客でにぎわっているが、冬が近づくこの時期は数える程度の人影しか見当たらなかった。遠くの空を鉛色の雲が通り過ぎていく。
普段流しっぱなしにしているバッハやモーツァルトを聴いていると、さらに気が滅入りそうになり、裕人はカーステレオを操作してラジオに切り替えた。
スピーカーからはパーソナリティの素っ頓狂な笑い声が響き、彼は少しばかり気持ちが和むのを感じた。
彼は自分を省みることは少ないほうだと自己分析していた。
しかし、ショッキングな出来事が彼の意識を変化させていた。
その変化を驚いたのは他ならぬ裕人自身だった。
――なぜ、考えたくもないのに同じことを考えるのか。
――過去を変えられるはずもないのに、何かができたと思うのか。
それは時に、自らを頼る者たちに内面的に抱いてしまった感情だった。
裕人はそんな自分に気づくと、深い自己嫌悪に陥った。
ことがことだけに、事情を知った者たちは彼を慰めることもあった。
それでも、慰めの言葉は何の救いももたらさなかった。
気持ちの整理がつかないまま休日が明けた。
彼が週あたりに担当しているのは二、三十人ほどの相談者だった。
学校で悩める生徒の相談に乗るのはもちろん、精神科や心療内科で患者の心理相談を行うのも仕事の中心になっていた。
治療者自身が深い苦悩の中にいても、相談者は己の苦悩を遠慮なく向けてくる。
裕人は次第に相談者に対して、関心を持ちづらくなっていた。
それは相談者への嫌悪感からではなく、自分が受け持った人間が再び命を断つことへの恐れからきていた。
彼は上の空で話を聞いていることを自覚する時、強い罪悪感に苛まれた。
あるいは、誰かに打ち明けられたのなら、彼の苦痛や苦悩は軽くなったのかもしれない。しかし、彼はそれを良しとしなかった。
自分自身が唯一救う手立てを持った人物であったはずで、自殺を見過ごした自分が誰かに相談することで救われるのは許されざる行為だと感じたからだ。
彼の高潔で打たれ強い精神は裏目に出ているように見えた。
その一方で彼の中で新たな価値観が芽生え始めていた。
病院での心理相談は通院とセットになっていることもあり、裕人は惰性で続くようなカウンセリングに疑問を持つようになっていた。
――もしかして、誰がやっても同じなんじゃないのか。
――もっと相談者の役に立てることはあるんじゃないのか。
彼は苦しみながらもカウンセラーとしての生きる道を模索していた。
それに区切りがつくころ、季節は一巡りしていた。
裕人は雇われの身では同じことの繰り返しになるだけだと結論づけた。
そして、自ら開業することでその状況を打破することを決めた。
彼が付き合っていた恋人にそれを告げると彼女は去っていった。
それでも、彼は後悔しなかった。
ある日、開業の段取りが決まった裕人は、勤めているよしおクリニックの院長に後任を探してほしいという話をした。
「開業したいから辞めたいだって? 何をバカなことを」
話を切り出した彼に吉尾院長は冷たく言い放った。
その出来事は裕人の決意を固くさせるものだった。
カウンセラーとして最善を尽くすと決めて以降、彼の背中に括りつけられていた『相談者の自殺』という十字架は消滅していた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
幕間はやってみたくてもなかなかやる機会がなかったので、今回更新できてよかったです。