矢上との対話
――結局、脳トレの時間は何事もなく終わった。
市川さんと目があった時、やれやれといった表情を見せただけで特に不満を漏らすことはなかった。程度の違いはあっても、ああいった出来事は特別ではないのかもしれない。
そして、正午になるといつもの給食の時間になった。
ほとんどの利用者が手際よく準備を始めていた。
「それじゃあ、村上くんは帰ってもらっていいよ」
「はい、それでは失礼します」
俺は少し安心した気持ちになった。
心のどこかで食べて行きなよと言われたらどうしようと思っていた。
同じ釜の飯を食べることに引き気味なのは、大人の小学校とバカにしたやつと似たようなものではないかという後ろめたさもあった。
自分でも何が距離を感じさせるのか理解しかねていた。
栗田や松井のように、彼らを敬遠する気持ちがどこかにあるのか。
「――お疲れさま」
市川さんの声を背中に受けながら部屋を出た。
二階の階段を下りて受付の前を通過。玄関で靴に履き替える。
徐々に慣れ始めたルーティンを経て、クリニックの外に出た。
「村上くん、こんにちは」
バス停に向かって歩き始めたところで声をかけられた。
「ああっ、矢上さん。お疲れ様です」
「お疲れ様。今から時間あるかな? よかったらランチでもどう?」
「……いいですよ、行きましょうか」
少し考えてみたものの、バスの本数はまだまだある。
「近くのファミレスでいいかな?」
矢上さんはどこかを指さした。
「はい、それでいいですよ」
俺と矢上さんは歩いて店に向かった。
クリニックから五分ほど歩いたところに目的のファミレスはあった。
チェーン店で系列店が市内に何店かあるところだ。
昼時ということもあって、駐車場は半分以上が埋まっている。
入り口には秋の味覚祭りと題した大きな看板が置かれていた。
「混み具合はいつもどおりってところかな」
店内の様子に目を向けて矢上さんがいった。
「矢上さんはよく来るんですか?」
「わりとよく来るね。女性の職員さんは弁当持参したりするんだけど、僕は一人暮らしだから」
彼は照れくさそうな笑いを浮かべた。
「いらっしゃいませ、二名様、全席禁煙なんですけどよろしいですか?」
二人で店に入ると慌ただしそうな店員がやってきた。
「僕は吸いません。村上くんは?」
「いえ、吸わないので大丈夫です」
「それではお席に案内します――」
案内されたのは窓際の席だった。
客の数が多く、あちこちから話し声が聞こえるので少し騒がしい。
「僕はいつも日替わりランチなんだけど、村上くんは何にする?」
「そうですね、同じのでいいですよ」
矢上さんがボタンを押すと、少し間をおいて店員が来た。
「はい、お決まりでしょうか」
「日替わりランチ二つでお願いします」
「はい、ドリンクバーはよろしかったでしょうか?」
「僕はなしで」
「こっちもなしで」
注文を終えるとようやく落ち着ける気がした。
矢上さんが思い出したように首から下げた名札をしまった。
「最近、バタバタしてしまってね、リワークの方まで行ける時間がないんだ。どう、あそこには慣れた?」
「うーん、慣れたといえば慣れましたね」
彼の質問に答えながら、同僚同士でランチに来たように見えて、実際のところ無職である自分が恥ずかしいと思った。言わなければ俺が無職ということは誰も分からないはずなのに。
「そうか、それならよかった。僕は近いうちに退職するから、村上くんに何かできることがあれば手伝おうと思ってたんだ」
「……そうなんですか」
突然の話に驚いてしまった。
「辞めるといっても、臨床心理士の仕事は続けるよ。これから個人で開業するつもりなんだ」
「ええと、独立するってことですか?」
カウンセラーが開業するという意味がよく分からなかった。
「そうだね、そんなイメージかな。村上くん、喉乾かない? ちょっとお冷入れてくるよ……」
矢上さんは手早く二つのグラスをもって戻ってきた。
「ありがとうございます」
氷の入ってよく冷えた水を喉に流しこんだ。
「村上くんはこれから臨床心理士になるつもりなんだよね」
「はい、一応……そのつもりです」
俺は明確に答えることができなかった。
「実際に患者さんを見て心境の変化があったのかな」
「たしかにそれもありますね」
矢上さんに聞きたいことがあるはずなのに、それが上手く言葉にできないもどかしさがあった。
「うん、そうだね、せっかくだから簡単に説明しておこうか」
「例えばよしおクリニックだと、臨床心理士の仕事は二つ。一つは、村上くんが前に任されてしまった新規の患者対応。もう一つは通院中の患者さんに対して行う、いわゆるカウンセリングだね」
そこまで言い終えて、矢上さんはグラスの水を口に含んだ。
店内が多少混雑しているせいか、二人分のランチはまだ運ばれてなかった。
「他にも学校のスクールカウンセラーという仕事もあるけど、時給が高くても扱いは非常勤になってしまうんだ」
「えっ、そうなんですか」
ニュースで取り沙汰される仕事なので、正規雇用だと思っていた。
「本音を言うなら、若くて将来のある人に勧めたいとは言いにくい」
矢上さんは複雑な表情で笑みを浮かべた。
「――失礼します」
話が切れたところで料理が運ばれてきた。
今日の日替わりランチはハンバーグと揚げ物がメインだった。
ソースの甘く香ばしい匂いが鼻に届いたところで、思い出したように空腹感がこみ上げてきた。
「それじゃあ、食べようか」
「そうですね」
微妙な話題になっていたせいか、俺と矢上さんは口数少なく食事を済ませた。
「……さっきの矢上さんの話を聞いていて思ったんですけど、リワークでの臨床心理士の仕事はどんなことがあるんですか?」
「そうだね、リワークだと利用者さんの相談、心理面に配慮したプログラム作りあたりかな。もう少し時間がある時はリワークルームにいることも仕事の一部だったけど、今は忙しくてなかなか」
矢上さんは少し困ったような顔をしていた。
「そもそもの話になっちゃうんですけど、あそこでボランティアするのって、臨床心理士になるのに役立ちますか?」
「精神疾患を抱えた人の支援の場にそうそう行けるものでもないから、そういった意味ではいい経験になると思うよ」
「……そういうもんですか」
俺はどんな答えを期待していたのだろう。
そんなに役に立たない、あるいは絶対に役に立つ……もっと明確な答えを聞きたかったのか。
矢上さんのように独立できるのは羨ましいと思うものの、自分はそのスタートラインにすら立っていない。病気を抱えた人の相談になるのはどう考えても簡単とは言いがたいはずだ。
そうこうするうちに、矢上さんの休憩時間が終わりに近づいていたので、早足で会計を済ませて店を出た。
「さっきの一人分、いくらでしたか?」
「いいよ、ぜんぜん。帰り際に引きとめてしまったし」
「ありがとうございます、ごちそうさまです」
俺と矢上さんはクリニックの前で別れた。
それから帰りのバスに揺られながら、自分はどうしたいのか考えていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
ガ○トのランチはコスパが高いですよね(笑)