研修医の同級生
リワークルームを出てトイレに行き、またリワークルームに戻ってきた。
三田さんのクオリティはともかく、四、五人ぐらいの利用者のほとんどはパソコン操作に集中していた。
ただ、市川さんと北野さんのやり取りは継続中に見えた。
「別にパソコンの設定ぐらい変えたっていいでしょ」
どうやら北野さんは興奮しているようだ。
「いや、困りますから。ほんとにいい加減にしてください」
対する市川さんは怒りをこらえているようにも見える。
「……やれやれ」
手伝うこともなさそうなので、俺は入り口近くの椅子に腰かけた。
二人の関係性が見えてこない状況では仲裁する気も起きなかった。
正義感に駆られて割って入ってもロクな結果にはならないだろう。
「わかった、わかりました。僕はタバコ吸いにいきます」
北野さんは苛立たしげに立ち上がって、そのまま部屋を出ていった。
「おいおい、小学生かよ」
そんな声がどこからか漏れ聞こえてきた。
なんだか混沌としていたものの、正午前にパソコン実習は終了した。
ちょうど今は、市川さんの作業を手伝っているところだ。
順番に電源を落として片付けられる状態にしている。
「……うーんと、なんか大変でしたね」
彼がおとなしそうな雰囲気に戻っていたので話しかけてみた。
「そうだね、まあいつものことだから」
市川さんの表情は疲れているように見えた。
「(さっきの話題は余計疲れさせれるかもな)……あの、市川さんは何を担当してるんですか?」
「自分は精神保健福祉士です」
彼はそういって首から下げた名札を見せた。
「へえ、精神保健福祉士……それって資格ですか?」
あまり聞き慣れない言葉だった。
「まあ、臨床心理士に比べたらマイナーだよね」
市川さんは自嘲めいた笑みを浮かべた。
「さあ、どうですかね……」
何だか気まずい感じがした。
「うちはそんなに給料高いわけじゃないし、何だか疲れてしまったよ」
「へえ、そうなんですね……」
誰に向かって言っているのか分かりにくく、適当に相づちを打った。
彼の憂鬱に付き合うのは面倒くさそうなので、そそくさと片付けを終えた。
やがて正午になると、どこからともなく給食の鍋が運ばれてきて、利用者の人たちがせっせと準備を始めた。
「村上くんは食べるわけじゃないし、手伝わなくていいよ。お疲れ様」
手伝うべきか考えていると、市川さんがそう伝えてくれた。
「はい、それでは失礼します」
正直なところ、俺も浜本さんと同じくここの飯を食べる気はなかった。
もちろん、刑務所の飯みたいというわけではない。
食事をよそう人の中に清潔とは言いがたい人が見受けられたから。
あるいはそれも含めて浜本さんはああいう例えをしたのか。
……どっちにしても、帰っていいなら帰るだけなんだけれども。
ボランティアは隔日なので、一日行くと翌日は休みになる。
今日はあらかじめ友人と会う約束をしていた。
俺は身支度を整えてから、待ち合わせのカフェに向かった。
時間通りに店へ入ると、すでに友人が座ってマグカップを口にしていた。
「おう、松井、久しぶりだな」
「ああっ、久しぶり」
松井はモスグリーンのポロシャツにベージュのチノパンという出で立ちだった。
医者になって金が有り余ってそうなわりに、質素な服装に見えた。
「これから注文してくるから」
レジ前に行くとおすすめ商品が書かれたボードがあり、和風小豆シェイクというドリンクの絵が書かれていた。値段を確かめると、なかなかのお値段だった。
「ご注文はいかがしますか?」
どれにするか悩んでいると、愛想のいい女性が声をかけてきた。
「……うーん、ホットティーで」
「はい、かしこまりました。そのままお待ちください」
カウンターで待っていると、湯気の立つマグカップが運ばれてきた。
ほのかに茶葉の爽やかな香りが漂ってくる。
「ありがとうございました」
会計を済ませてマグカップを受け取ると、松井の向かいに座った。
「会社をクビになったらしいけど、次の仕事は決まりそう?」
松井があまり聞かれたくない話題を切り出した。
たしか、フェイスブックでこの件を知ったらしい。
「……うんっ、まあこれからだな」
無目的に活動していると思われたくなかったので、ボランティアに行っていること、これから大学院に進んで資格を取ろうとしていることを伝えた。
「ふーん、よりにもよって心療内科ねえ」
松井は複雑な表情を見せた。
「医者にそう言われると不安になるぞ」
「うちの親父は精神科医だから、ある程度予備知識はあるんだよ」
彼とは中学時代の同級生だったけれど、そのことは初耳だった。
「それで、何か良くないのか?」
「いや、ボランティアで顔出すぐらいなら大丈夫だと思うけど」
松井はそういって、マグカップを口につけた。
俺も紅茶を飲むことにした。口に含んだ瞬間に心地よい香りが通り抜けた。
「まあ、それならいいか。松井はたしか内科だった?」
「うん、そう。今は研修医の身でバイトに精を出してるよ」
たしかドラマで見たことがある。
別の病院で夜勤をしたりして稼ぐ医者みたいな。
「医者になっただけで万々歳ってわけじゃないんだな」
「うーん、どうだろう。まあ、興味のない仕事でこき使われるよりマシだよ」
松井はのらりくらりとしていて、会話を楽しんでいるのか微妙な感じだった。
これが友人ではなく取引先だったら、何かしら気の利いた話でもしようと思ったかもしれない。
「忠告ってほどじゃないけど、入れ込みすぎない方がいいよ」
「何が? ボランティアのこと?」
「うん、そう」
俺は松井の意図することが分からなかった。
「村上は精神に不調があるわけじゃないし、まだ有資格者でもない。患者と接していていい影響がほとんどないことは親父の話で学習済みだからね」
「そ、そうか……」
あながち的外れではなかった。
例えば、三田さんや北野さんがいい影響を与えるとは考えにくい。
「といっても、村上の人生だからね。好きにするのがいいと思うよ」
松井は達観したように言うと、窓の外の様子をじっと眺めた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
途中で登場する松井は医者になった同級生からアイデアを得ました。