奇想天外のパソコン実習
ポンッ、ポンッと弾けるような音が規則的なリズムで聞こえる。
俺は地元の室内コートへテニスの練習に来ていた。
目の前のコートでは他のメンバーが練習中で、俺はベンチに腰かけている。
隣には友人で同い年の栗田が座っていた。高校時代からのテニス仲間だった。
「秀悟がボランティアねえ、営業とは正反対じゃん、どうしちゃったの?」
栗田は明るく染めた髪をかきながらいった。
彼の仕事は工場勤務なので髪色は問われないらしい。
「いやまあ、これからは心理学の時代かなと思ってさ。取る予定の資格の役にも立ちそうなんだよ」
「ふーん、そんなもんかね。それにしても心療内科か、あんま良い印象ないわ」
栗田は煩わしそうな表情をした。
「おっと、なんかあった? そっち系と縁なさそうに見えるけど」
俺も栗田も身体を動かすのが好きで、特に栗田は快活な性格だからメンタルなことに結びつかなかった。
「いや、おれは関係ないけど、職場に休職中のやつがいてさ――」
栗田の話ではうつ病で年単位で休職中の同僚がいるそうだ。
仕事を休んでいても一定額の支給があることが面白くないらしい。
「……ああっ、そういうことか」
「えっ、どうした?」
「いや、今行ってるとこはそういう人のためにあるっぽい」
俺は目の前で繰り広げられている白熱したラリーに目を向けた。
「そんなところがあるんだな」
栗田が不思議そうにいった。
横目で見ると彼もラリーに釘付けになっていた。
「秀悟をわるく言うわけじゃないけど、おれとか職場で普通に働いてる人間からしたら、そういうとこに行けるなら出勤しろよって思うよな」
彼はそれだけ言うとラケットを持って立ち上がった。
「ほら、打とうぜ」
そう促されて俺も立ち上がる。頭上に設置された照明がやけに眩しく思えた。
おそらく、栗田の考え方は間違っていない。
ただ、俺みたいに会社をクビになった人間からすると、世の中には弱い立場の人間もいるという想像力が働くようになってくる。
「……何が正しいかなんて分からないな」
俺は思考を中断して、栗田が球出ししたボールを打ち返した。
ボランティア三日目。
朝一番でリワークルームに入ると利用者はまだ来ていなかった。
時間を確認するとプログラム開始には少し早かった。
「おはようございます……」
奥の方にあるテーブルで矢上さんと責任者の中沢さんが話をしていた。
声をかけようと思ったところで二人が話に集中していると気づいた。
「利用者さんの利益を考えたら、そこは厳しめでいいと思いますがね」
「中沢さんは責任者という立場だからそうかもしれないですけど、そのことよりも改善したほうがいいことがあると思います」
中沢さんが矢上さんに厳しい態度を示していた。
責任者で年長者っぽいし中沢さんの方が偉いのかと思いつつ、声をかけるタイミングを計りかねていた。
「とりあえず、この話はこのへんで。村上くん、おはよう」
矢上さんがこちらに気づいて立ち上がった。
中沢さんは気まずそうな様子でその場を後にした。
……何か聞かれちゃまずい話だったのかね。
「おはようございます」
「今日の午前はパソコン実習だから、パソコンの準備を手伝ってもらえるかな。必要な台数はテーブルに置いてあるから、順番に電源を入れてほしい」
「……あのう、リワークってどういう意味ですか?」
時間がありそうなのでたずねてみることにした。
「ああっ、ごめん。知ってるものと思ってたよ」
矢上さんはマウスとキーボードを操作しながらいった。
「すいません、下調べもせずに来てしまって」
俺は並べられたノートパソコンの一つに電源を入れながらいった。
「ううん、リワークだけど、精神疾患を抱えたひとが職場復帰するためのリハビリをすること、そういう説明になるかな」
「なるほど、そのためのパソコン実習、だいたい理解できました」
頭の片隅に読書タイムに読書しない勢が思い浮かんだけど、今は話題にしないでおこう。
「もう少ししたら利用者さんが来るから、パソコンの実習が始まったら操作を手伝ったりしてもらってもいいかな。パソコンはできるよね?」
「はい、初歩的なオフィスなら大丈夫だと思います」
営業の仕事で見積もりやら書類作成をしていたし、リハビリ向けの内容ならどうにかなるだろう。
パソコンの準備が済むと、実習までは休憩でいいと指示があった。
俺は手持ち無沙汰だったので、本棚から適当な週刊誌を持ってきた。
しばらくして、何人かの利用者が入ってきた。
顔色の悪い人、元気そうに見える人、色々だった。
ボランティアという立場なので、話しかけたりした方がいいのか。
そう考えていると――おはようございます、と声をかけられた。
「おはようございます」
あいさつを返して相手に圧をかけない程度に眺めた。
年齢は四、五十代に見える人の良さそうな男性だった。
ニコニコしているので、変にかまえる必要はないと思った。
「村上といいます。ええと……ここにはボランティアに来てます」
そう話しかけたところで、全体への自己紹介はまだということに気づいた。
「僕は三田です。よろしくお願いします」
三田さんは笑顔で頭を下げた。
「――今から、今日の朝礼始めます。席についてくださいね」
矢上さんがホワイトボードの前に立っていた。
俺はすでに腰かけていて、三田さんは近くの椅子に腰をおろした。
「ええ、まずは――村上くん、ちょっと来てもらえる?」
「あっ、はい」
俺は矢上さんのところへ歩いていった。
「皆さんへの紹介が遅くなってすみません。昨日からリワークのお手伝いに来てくれた村上さんです」
「はじめまして、村上といいます。よろしくお願いします」
型通りのあいさつをすると、まばらな拍手が返ってきた。
「それじゃあ、戻ってもらっていいよ」
俺は座っていた椅子に戻った。
「今日の午前中はパソコン実習、午後はストレッチタイムです。今日も一日よろしくお願いします」
朝礼が終わってからラジオ体操があり、その後にパソコン実習が始まった。
矢上さんは別の仕事があるようで、入れ替わりに違う職員がやってきた。
「はじめまして、市川といいます。よろしく」
三十代ぐらいでおとなしそうな雰囲気の男性だった。
「村上といいます。よろしくお願いします」
あいさつが済んでから、市川さんの指示でパソコンを操作する利用者をフォローすることになった。
この時間は五人がパソコンをいじっていた。
キーボードを叩く音、マウスを操作する音が聞こえている。
近くに三田さんがいたので、どんな内容か覗いてみることにした。
タンッ、タンッと散発的にタイプする音がする。
入力が苦手なんだなと微笑ましく思いながら、ノートパソコンの横に置かれた見本を眺めた。
「……ふ、ふーん」
俺は呆れたようなニュアンスを隠すように頷いてみせた。
ひらがなと漢字の混ざった文が数行あるだけで、言われなければタイピング練習の用紙とは気づかない内容だった。
さらにディスプレイに視線を移したところで、思わず呆気に取られてしまった。
どういう基準で入力しているのか分からないけれど、g94kwygfと画面に表示されている。
例文と出力された内容を見比べたところで、三田さんはローマ字入力の状態でキーボードに書かれたひらがなを元にかな入力していることがわかった。
俺はひどい悪夢を見ているような気分になりながら、バカにするのはよくないと気を取り直した。
「あの、三田さん。それ入力方法が違ってますよ」
どこに気を遣えばいいか分からず、なるべく穏やかにいうことが最善の選択肢と考えた。
「はっ、そうなんですね。どうりで見本と違っちゃうんだ」
彼は初めて知ったと言わんばかりの素直なリアクションを見せた。
「よかったら教えますよ」
それを見た俺は安心して教えることにした。
「ありがとうございます」
三田さんは笑顔になってノートパソコンの前を空けてくれた。
「ええと、これはローマ字通りに入力すればいいので、例えば『あ』と打ちたかったら、Aを押せばいいんですよ」
これなら専門知識はなくても教えられる、そう安堵した。
……ところが、三田さんは何だか難しい表情になっていた。
「すいません、むずかしくて分かりません。ああっ、頭が痛い」
「――はっ!?」
俺は戸惑いを隠しきれなかった。
「むずかしいことを考えると、頭が痛くなるんです。大丈夫です、きちんと書けなくても大丈夫です」
三田さんはそういうと、見本の用紙を手に取った。
「そ、そうですか……」
一応、本人のためにキーボードの前を空けると、彼は再びかな入力方式で解読不可能な暗号を入力し始めた。
他になにかできないかと周囲を見回すと、様子がおかしい二人を発見した。
さっき挨拶した市川さんと、白髪交じりで四十代ぐらいに見える男性だ。
「北野さん、このパソコンはリワークルームのものだから、勝手に設定変えられちゃ困るって……前にも言いましたよね」
おとなしそうに見えた市川さんが少し怒っているように見えた。
「別にいいでしょ。こっちの方が動作が軽くなるんです」
北野と呼ばれた男性は悪びれた様子を見せていなかった。
「……これはこれでめんどくさそうだな」
これ以上三田さんの相手をするわけにもいかず、一旦トイレに行くことにした。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
ゆうきゆう先生のマンガで分かる心療内科みたいなノリで読んでいただけたら幸いです(笑)




