リワークルームへようこそ
終わりがけを見計らうように院長がふらりと現れた。
そして、自然な様子で新しい書類セットを手渡してきた。
「それじゃあ、次は一番に患者さんがいるから、よろしく」
言いたいことだけ言って、院長は去っていった。
俺に質問する時間は与えられなかった。
任されると張り切ってしまう。そんな性分を思い出していた。
「……まあねえ、お客さんをあんまり待たせるわけにもいかないよね」
院長以外の職員は受付にしか見当たらず、たずねる相手も見つからなかった。
俺は腹をくくって次の仕事に取りかかることにした。
――結局、それから昼休憩の時間まで、ぶっ続けで同じことを繰り返した……。
院長を探そうと手の空いた受付嬢にたずねてみたら、昼食に行かれたのでいつ戻るか分かりませんと返ってきた。
一応、ボランティアは午前中という約束なので、仕方がなく帰ることにした。
小野田という看護師を探してみたけど、彼女は彼女で休憩に入っているようで見当たらなかった。
「……なんなんだ、ここの連中は」
いまいち釈然としない状況だった。
今日は午前中までと聞いていたのに、これでは帰りのあいさつもできやしない。
さっきまでの混雑が嘘のように、待合室は閑散としていた。
「行列のできる病院……いまいち笑えないな」
俺は皮肉めいた気持ちになりながら、よしおクリニックを後にした。
そして翌日。前日と同じようにバスに揺られてやってきた。
今度こそ、ボランティアについての説明を受けるつもりでクリニックを訪れた。
駐車場には数台の車が止まり、奥の喫煙所では誰かがタバコを吸っていた。
初日と同じように、朝一番の時間帯はさほど混雑していなかった。
とりあえず来てはみたものの、誰に何をたずねればいいのかわからない。
俺は受付の女性に話しかけた。
「あの、すいません、昨日来た村上です。えーと、ボランティアのことって、誰に聞けばいいですか?」
そこにいたのは昨日と同じ若い受付嬢だった。
「……ああっ、はい。ちょっと待ってもらえます?」
今日の彼女は何だか不機嫌に見えた。
きっと、寝不足なんだろうかね。
少しの間だけ受付の奥に引っこむと、受付嬢はすぐに戻ってきた。
彼女に遅れて一人の男性が出てきた。
「ええと、村上くんだね。職員の矢上といいます」
彼は受付の横を出てこちらに近づいた。
水色のシャツを着た爽やか系イケメンだった。年齢は三十歳前後に見える。
「はじめまして、よろしくお願いします」
「よろしく。じゃあこちらに」
矢上さんは俺をどこかへ案内しようとしていた。
それに従って後ろについていくと、昨日と同じ三番の部屋を示された。
彼は扉を開いて中に入るよう促した。
二つあるうちの奥の椅子に腰かけると、矢上さんも同じように座って話し始めた。
「まず、昨日はうちの院長が悪かったね」
「……ええと、何のことですか?」
「ああっ、これだよこれ」
矢上さんは見覚えのある書類を取り出した。
「はいはい、それですか」
俺は思わず頷いていた。
「昨日まで研修やら学会で留守にしていたところでね。朝一番に資料を確かめてたら、確認者のところに村上くんの名前があったんだよ。まあ、誰だろうと思って」
彼はそう言い終えると軽く笑みを浮かべた。
「……やっぱり、まずかったですか」
相手が笑顔になっていても、何となく不安な気持ちになってきた。
「いや、村上くんのせいじゃないから、ほんとに気にしないで」
矢上さんはそう言って顔の前で右手を仰いだ。
「とにかく、こちらの落ち度だから、この件に関しては忘れてもらって、改めてボランティアなんだけど……」
彼はそこまで口にして、何かを考えるような顔になった。
「きっかけというか、どうして興味を持ったのか聞いてもいい?」
少しの間をおいて質問があった。
「えーと、そうですね……大学は心理学部を出たんですけど、これから院に進んで臨床心理士の資格を取ろうと思っていて、こちらのボランティアならそれに役立つ経験ができると思ったのがきっかけですね」
まさか面接ではないよなと思いつつ、言葉を選びながら話した。
「おおっ、そうか。臨床心理士に」
矢上さんは少し嬉しそうに口にしてから、首から下がった名札を見せてきた。
「そっか、矢上さんは臨床心理士なんですね」
「そうなんだ、自己紹介を端折ってしまってすまないね」
彼は微笑みながらいった。
「そうそう、それでボランティアなんだけど、もともとお願いするはずだったリワークの手伝いに行ってもらうから、早速案内するよ」
矢上さんは時間を気にしているように見えたので、他にもやらなければいけない仕事があるのかもしれない。リワークという単語の意味を聞きそびれてしまった。
「はい、お願いします」
部屋を出ると、彼に先導してもらいながら進んだ。
施設内を歩いていると、一番から三番までの部屋とは別のところに診察室があることがわかった。
そこを通り過ぎると階段があって、上の階に進むようだった。
「……ここがリワークルーム」
白い金属製の扉には「よしおクリニック リワークルーム」と書かれていた。
外の立て看板同様に、人をなめたようなポップ調の丸文字に違和感を覚えた。
「おはようございます」
矢上さんが扉を開いて中に入った。
俺は心の準備ができないまま後に続いた。
中に入るとそこは広めの塾の一室みたいに見えた。
等間隔でテーブルが並び、その奥には大きめのホワイトボードが置かれている。
カーテンの開け放たれた窓からは明るい日射しがさしこみ、心療内科やら精神科というステレオタイプな雰囲気は感じられなかった。
テーブルと椅子の数からして二十人近くは収容できそうだったけど、部屋にいるのは五、六人といったところだった。
「おはようございます……ええと、その方は利用される方ですか?」
俺が部屋の様子を眺めていると、一人の男性が歩いてきた。
「中沢さん、利用者さんじゃなくて、ボランティアに来てくれた村上さんです」
「はじめまして、村上といいます」
俺は中沢と呼ばれた男性に挨拶をした。
「どうも、はじめまして。責任者の中沢です」
公務員にいそうな雰囲気の人だった。物腰が何だか堅苦しい。
白いシャツを着て、黒縁の眼鏡をしている。
「それじゃあ、僕は患者さんの対応があるから。村上くん、ここのことは中沢さんに聞いてくれたらいいから」
そういって矢上さんはそそくさと立ち去った。
「ええと、今日はそうですね……とりあえず、リワークルームの様子に慣れてもらいましょうか」
中沢さんはこちらにあまり目を向けず、一人で何か考えているように見えた。
「利用者さんは話しやすい人ばかりなので、それではあとはお任せします」
それだけいって、彼はその場から去ってしまった。
「……えっ、どうすりゃいいの」
俺は途方に暮れて、部屋の様子を呆然と眺めた。
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