エピローグ
松井は忙しいはずなのに、わりと近い日程で約束を取りつけることができた。
待ち合わせ場所は自然にいつもと同じカフェになった。
時間通りに店に入ると、この前と同じ席で松井は読書をしていた。
「おう、忙しいのに悪いな」
「今日はちょうど休みだったから」
平日の夕方。店内はまばらな客足だった。
レジには誰も並んでいなかったので、すぐに注文ができた。
だいぶ涼しい時期になってきたので、温かい飲み物を頼むことにした。
コーヒーの注がれたマグカップを受け取って、松井のいる席に向かう。
「結局、お前の言う通りだったな」
テーブルにマグカップを置いて腰かけた。
「そりゃそうだね、間違いないって言ったから」
松井はいつもどおりの淡々とした様子だった。
「医者のことはよく分からないんだけど、ああいうことはよくあるのか?」
そう質問すると、彼は少しの間をおいて口を開いた。
「他の科なら……、例えば整形外科で骨が折れてないのに骨折とは書けないし、内科に置きかえたら検査や数値で出せるものをごまかすことはできないんだよ。そう考えると、精神的な症状の診断はだいぶ違ったものになるよね。客観性の持てるデータが少ないところは」
松井はふっと軽くため息をついた。
「ふーん、そんなもんなのか」
俺はマグカップを手に取り、ゆっくりとコーヒーを啜った。
「父親の名誉のために言っておくと、精神科医全否定というわけじゃないから。よしおクリニックはやりすぎな部類だから、ああいう結果になったんだよ」
「そうか、そうだよな。そういえば、松井は親父さんと同じ精神科医になろうと思わなかったのか?」どうして内科医の道を選んだのか。
「こう見えて気が短いからね。なかなか良くならなかったり、変化しない患者を見続けるのは性に合わないと思ったんだ。といっても、内科は手術しないけどね」
「気が短いなんて初めて聞いたぞ」
「そうか、たぶんそうかもね」
彼は子どもっぽい笑い方をした。
「……ところで逆に聞くけど、村上がボランティアに行ってる途中に目に見えて元気になった人はいた? 何ヶ月かいればある程度わかることだと思うけど」
松井はふいに真顔になっていた。
「うーん、何だかむずかしい質問だな。たしかにほとんどの人がちょっと元気になったかと思ったら沈みがちになったり、気分の波が激しかったりで……来なくなった人もいるし、中には仕事に復帰するっていう人もいたような……」
「まあ、そんなところだろうね」
彼は初めから答えが分かっていたと言いたげに見えた。
「なんかよく分からないんだけど、ボランティアの時に教えられたのは良くなるのに時間がかかることが多いから焦らせないとか……なんとか」
どこか的を得ない答えだった気がして、細部を思い出せなかった。
「とりあえず、よしおクリニックに関していえば多剤処方が問題で、その状態でリワーク? に通わせることで患者を囲いこんでいたのが悪質なんだよ……ごめん、むずかしい話で」
「いや、何となく分かった。どのビジネスでも固定客は重要だからな。それを何かよろしくない方法で囲おうとしてたっていうのは理解できた」
「あそこはデイケアをリワークって称して、社会復帰させるつもりもないのに患者を集めてたのは悪質だと思うよ……あっ、独り言だから、忘れて」
「ああっ、気にしなくていいぞ」
松井が珍しく熱くなっているように見えて不思議だった。
色々なところで情報を得て、思うところがあったのだろう。
「話は変わるけど、うつっぽい程度の症状なら内科の処置でも対応できるから、職探しで参ったら連絡してくれればいいよ。友人割引で対応するから」
「まあ、そうか。あんまり頼る状況になりたくないけども」
俺は苦笑いしてコーヒーを啜った。
それからしばらくして、練習場所の室内コートにやってきた。
栗田を含めて、いつものテニス仲間が集まっていた。
ウォームアップをしてラリー練習、それからゲーム練習。
汗をかくことで気分が晴れるのを感じた。
練習が終わってから、栗田と二人でベンチに座っていた。
他の仲間も思い思いの場所で世間話をしている。
「いやー、大変だったな。よしおクリニック大ニュースじゃないか」
栗田が大げさなトーンでいった。
「そうなのか、新聞で見ただけだから詳しいことは知らないな」
自分だけしか知らない情報は話さないでおこうと思った。
「そこにかかってた社員が何人かいて、人事がけっこう調べたみたいなんだよ。結局、他の病院に移らないと許可しないってなって、よく分かんないけど、何人か辞めちゃったな」
彼は他人事のような話しぶりだった。
「あとこの前の大沢だっけ、あいつも結局辞めちゃったな。なんか病院変えるのに納得しなかったとかなんとかなって……うーん、細かい部分は忘れた」
「何だかやけに詳しいな」
「ああっ、そりゃ、会社の総務に彼女がいるからな」
栗田は事もなげにいった。
「マジか、それは知らなかった」
「そりゃそうだろ、わりと最近付き合い始めたからな」
彼はにやりと笑みを浮かべた。
「あれ、じゃあ前の彼女とは……?」
「別れました、残念」
栗田はそういって合掌した。
「きみは楽しそうでいいねえ」
高校時代から変わらない様子が羨ましく思えた。
今回の騒動があってから、姉から電話があった。
そもそも、姉の紹介がボランティアを始めるきっかけだった。
「秀悟、大丈夫だった? よしおクリニックに監査が入ったって? うちの病院でも話題沸騰中なのよ。やっぱり、個人経営の院長は信用ならないわね」
医療従事者の言葉とは信じがたいけど、面倒くさいのでスルーしておいた。
「ああっ、大丈夫。もうボランティアには行ってないから」
それから姉は心配しているというより、何か面白い情報がないかを記者のように質問をしてきた。それも面倒くさいので適当に聞き流した。
自分の身近なところで、あんな事件が起きるとは思わなかった。
その経験を今後に役立てるなどときれい事をいうつもりもない。
そして、同じようなことは日本のどこかで今日も起きているのだろう。
もしも俺が、市川さんや矢上さんの立場だったらどうするだろう。
経営者や責任者に楯突くのか、自ら身を引くのか。
――その答えはまだ出せていない。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
今回にて完結となりました。
実際のエピソードを小説に応用するにはどんな表現をしたらいいか、そんなことを考えながら今作を書きました。また、作中の情報は全て架空の設定です。