さよならは突然に その1
よしおクリニックへボランティアに通い始めてしばらく経った頃、研修医で同級生の松井から会わないかと連絡があった。
誘いがあるのは珍しいなと思いつつ、二人でよく使うカフェに向かった。
時間通りに店に入ると、松井はすでにコーヒーを飲んでいた。
「忙しそうなわりに元気そうだな」
「やあ、村上もいつも通りだね」
軽く言葉を交わしてからレジへ向かう。
俺は松井と同じホットコーヒーを頼んだ。
こぼさないように注意しながら、慎重な足取りで歩いていく。
席についてマグカップを置いた。
「珍しいな、お前から声かけてくるなんて」
「ああまあ、そうだね」
松井の雰囲気が何かいつもと違う。
長い付き合いなのでそれだけは感じ取ることができた。
「……何だ、もうすぐ結婚するとかそういう話?」
彼が話を切り出さないので、当てずっぽうでたずねた。
「ははっ、どうしてそんな話になるの」
松井は少しの間だけ笑いを浮かべた。
「いやっ、何か話があるんだろ? もったいぶらなくても」
俺はじれったい気持ちになっていた。
「……よしおクリニックだけど、不正の疑いでそのうち監査が入る」
彼はふいに声を潜めた。
「……はっ、不正?」
「詳しいことは話せないけど、親父からの情報だから間違いない」
「親父さんは医師会のお偉いさんだったよな」
俺は気持ちを落ち着けるためにカップに手を伸ばした。
「うん、まあ」
どうといったことはないという言い草で、松井はいつもの調子に戻っていた。
「といっても、監査が入るって言われてもな……」
ボランティアには慣れ始めて、それなりに打ち解けた利用者もいる。
「僕は伝えておきたかっただけだから。あとは村上の自由でいいんじゃないかな。一つ補足しておくと、監査が空振りになることはありえないみたいだね」
「そう、そういうこと……」
松井は涼しげな顔をして窓の外に視線を向けた。同じように眺めると夕暮れの路地を車のヘッドライトが流れるように通過していく。
「わざわざ手間をかけさせたね。電話で話すようなことでもないと思ったから」
「いや、ありがとう。ちょっと考えてみる」
すぐに答えが出せる話ではない気がした。
「僕は部外者でしかないけど、今回の件は他科の医者からしてもすぐにやりすぎって分かるレベルだから。村上の目から見ても異常なことがあったかもしれないね」
「ふーん、そうか……」
それから松井と会話をしたはずだったけど、いまいち記憶に残らなかった。
唐突に聞かされた監査という言葉が頭の中をぐるぐると回っていた。
――俺は最近のリワークの様子を思い返すことにした。
行き始めてから二ヶ月ほどが経ち、環境にも慣れ始めていた。
市川さんは会社の先輩みたいだったし、金田さんは馴れ馴れしいこともあるけど、積極的に話しかけられるのはイヤではなかった。
そういえば、少し不思議に思ったことがあった。
一ヶ月ぐらい前に新しい利用者が数名入ってきて、どういうわけか彼らは初めから顔見知りだったように見えた。市川さんの情報では会社の同僚という話だった。
俺はそれを聞いて体調不良になる人が何人も出るなんて、よっぽどブラックな会社なんだなと思っただけだった。
ただ、彼らは元気そうなわりにプログラムに参加する気が皆無だったので、三人連れで日焼けして黒いから黒い三連星だな、と市川さんに揶揄されていた。
何となくディスっていると分かるものの、どんな意味があるのか知らなかった。
そして、二週間前ぐらいに小宮という初老に近いおじさんが入ってきた。
小宮さんは話しかけてくるので、徐々に会話をする時間が増えていた。
今思えば、小宮さんはリワークのことをよく質問していた。
どういうわけか特に黒い三連星のことを知りたがっていた。
彼らの様子やら同じ会社なのかとか……色々な情報を。
たしかに小宮さんはどこか不自然だった。
元気か元気じゃないかという視点だけでなく、何と言うか……あそこに出入りしている人が見せるような歪みや偏りみたいなものがなかった。
営業の仕事を経たことで、人を見る目は鍛えられたと思っている。
その経験からすれば、小宮さんは聡明なおじさんにしか見えなかった。
そして、小宮さんは短い期間しかいなかったわけだけど、意味深なことを口にして去っていった。
「村上くん、今日でお別れです」
「ずいぶん、短いですね。もう元気になったんですか?」
あの時も『良くなる』という基準が分からなかった。
「そうですね、そんなところです」
「よかったですね」
「村上くん、こんなところでボランティアをしていてはダメです。君はまだ若いのだからどこか勤め口を見つけて働きなさい」
一人の年長者として小宮さんは真っ直ぐな目を向けていた。
それを見た時、彼は初めから元気だったんじゃないかと直感した。
ただ、元気な人間が元気じゃないふりをして入ってくる理由が分からなかった。
そして、その理由が監査という言葉でつながるような気がした。
すぐにボランティアをやめる気にはならず、しばらく様子を見ることにした。
会社をクビになって暇を持て余さずに済んだのはボランティアのおかげだったし、監査が入るという話にそこまでリアリティが持てなかった。
松井に会ってから次のボランティアの日になった。
「おはようございます」
リワークルームに入ると、市川さんがパソコンの準備をしていた。
「おはよう」
「手伝いますよ」
テーブルに並べられていたノートパソコンに電源を入れていく。
市川さんはいつもと変わらない様子だったので、監査という言葉を出すべきではない気がした。当たり前といえば当たり前なのだけれど。
「あれ、今日は静かだね?」
市川さんは準備を終えて近くの椅子に腰かけた。
「……そうですか、いつも通りだと思いますけど」
余計なことを言ってしまわないように平静を装った。
「とりあえず準備ができたら、利用者さんが来るまで休憩でいいよ」
市川さんはお決まりのようにテーブルにあった雑誌を開いた。
「はい」
何かしていないと落ち着かなかったので、本棚から適当な雑誌を手に取った。
しばらくして、普段と同じように利用者の人たちがやってきた。
それから朝礼とラジオ体操が行われた。
全員がパソコンの前で実習を始めたところで、黒い三連星が入室した。
市川さんがもう少し早く来るようにと軽く注意したものの、彼らは生返事をするだけで意に介していないように見て取れた。
俺は実習の手伝いをしながら、彼ら三人の様子が気になっていた。
三人ともパソコンの前に座ってはいるけど、特に操作をする様子はなくて雑談をしていた。
それとなく市川さんが声をかけても、実習に身が入るようにはならない。
ならず者のような振る舞いをする彼らに対して、他の利用者たちは関わらないようにしたり、避けるようにして近づかなかったりしていた。
たしかにこれでは何をしに来ているのかわからないし、ここまであからさまに元気だと本当に病気なのか疑わしい気持ちになってくる。
――もしかして、小宮さんは三人の様子を調べていたのか。
半信半疑ではあったものの、松井が嘘をつくはずもなかった。
ましてや、彼の父親は名のある精神科医だ。そんな父親が監査が入ると言っていたのなら間違いないと言っていいだろう。
あるいは、三連星がたまたま目につくだけで、もっとこう不正めいたことが監査の要因になっているのかもしれない。
一連の出来事が遠く離れたところで動いているような感覚を抱いた。
俺にできるのはボランティアをやめてしまうことぐらいなのだろうか。
自分がどうすべきか分からないまま数日が経過した。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
いよいよ終盤に突入しました。この先がどんな展開になるか、お楽しみください。