テニスそれは男の勝負 その2
男の勝負は大沢さんからのサーブで始まった。
4ゲーム先取と伝えたつもりだけど、ちゃんと聞こえていたかは自信がない。
つかえた腹で上半身がスムーズにひねられず、ぎこちない動作でトスが上がる。
腕力に物を言わせたそれなりに球威のあるサーブが飛んできた。
十分に目で追えているので、返球するだけなら簡単だった。
ステップを踏んで歩幅を合わせて、バウンドしたボールにラケットを当てる。
実際の試合なら強打してネット前に詰める状況だったけど、さすがにそれは大人げないと思った。
俺はそのままベースライン付近に立ち止まって、相手の返球を窺うことにした。
回転量の少ないボールに対して、大沢さんは力任せにラケットを振った。
ボール自体に勢いはあったものの、それはネットにかかった。
「くそっ……」
彼は悔しそうにこぼすと、ネット前に落ちたボールを拾い上げた。
「0ー15(ラブフィフティーン)」
コールの後、大沢さんのサーブが飛んでくる。
さっきと同じぐらいの球威だった。
俺は同じようにステップを踏んでラケットをあわせる。
スピードも回転もそこそこのボールが相手の正面に飛んでいった。
そのボールを大沢さんは力任せに打ち返す。
今度はネットをこえて返ってきた。
「まあ、これぐらいなら……」
身体の左側、バックハンド側にきたボールをスライスショットで返す。
回転をかけすぎると相手が打ち返せないだろうと思い、ボールをなでるように回転を緩くかけて打ち返した。
さほどスピードの出ないボールが相手コートに返った。
またこのボールを相手は強打しようとしたけど、打点がずれたのかミスショットになった。
「もっと本気出してくださいよ。男の勝負ですよ」
大沢さんはボールを拾いながらいった。
「手を抜いてはないですけど、強く打ったほうがいいなら、まあ」
俺は戸惑いながらも作戦変更することにした。
「0ー30(ラブサーティー)」
大沢さんはこちらの的を絞らせないつもりだったのか、今度はゆるいサーブをバックハンド側に打ってきた。
ただ、それぐらいの速さなら、簡単に打ちやすいポジションに移動できる。
俺はステップを踏んでボールの左側に回りこみ、フォアハンドで返球した。
四割ぐらいの力で、相手が打ちやすいはずのフォアハンド側を狙った。
大沢さんはぎりぎり反応して、ラケットに当てることはできたものの、こちらからすればチャンスにしかならない球が返ってきた。
さすがにこれをゆるく返したら怒るだろうなと判断して、足早にボールに近づいてオープンコートにスマッシュを打ちこんだ。
「ああっ、すごい」
金田さんの声が届いたけど、あえて聞き流した。
大沢さんは悔しそうな態度で、ハードコートをラケットで小突いた。
カンッ、カンッと短く音が響いた。
「0ー40(ラブフォーティー)」
大沢さんは途中までのように速いサーブを選択した。
ただこれも対応可能な範囲だったので、ボールに近づいて打ち返した。
今度は相手のバックハンド側を狙った。
大沢さんはバックが苦手みたいで、甘い球が返ってきた。
それをがら空きになった左側のスペースに打ちこむ。
三割ぐらいの力でも簡単に決まる状態だった。
コートの端へとボールが転がっていく。
「ああっ、チェンジコートです」
大沢さんがレシーブポジションに入ろうとしたので声をかけた。
彼は我に返ったような表情をして移動を始めた。
そこからの展開は勝負といえるほどの物ではなかった。
こちらがコースを狙ったショットをことごとくチャンスボールで返球してくれるので、それを打ちこむだけでよかった。
試合後の握手は必要ないだろうと思って、マッチポイントが決まってからそのままベンチに戻った。終わってから自分がスニーカーを履いていることに気づいた。
「……どうりで動きにくかったわけだ」
俺が腰かけたところで、正面に大沢さんが立っていた。
「もう一度勝負だ、この野郎」
そんなに悔しかったのか、口調が荒くなっていた。
「おれが負けるはずがない。勝負はこれからだ」
その言葉にただただ困惑するしかなかった。
他の利用者たちも戸惑った様子で成り行きを見守っている。
これはもしかして、最初に聞いていた場面だと気づいた。
「すいません、金田さん。市川さんを呼んできてもらえますか?」
彼女は頷いて席を立った。
「……何回やってもいいですけど、大沢さんの体力が心配ですよ。かなり息上がってるじゃないですか」
「関係ねえ、ふざけたこと言ってるとぶん殴るぞ」
鋭い視線でそう言い放たれて、冷え切った何かが胸の内を流れた。
「どうぞどうぞ、殴りたいなら殴ってもいいんじゃないですか。そのあとに警察沙汰になるでしょうし、療養中の人間がそんなことしていて、リワークする気あるのかなとは思いますけど」
「……ぐっ、うっ……」
強い口調で言ってしまったせいか、大沢さんは黙りこんでしまった。
怒りが収まったとまではいかないものの、こちらに向かってくるような気概は消失したように見えた。
「――村上くん、大丈夫?」
慌てた様子の市川さんが小走りでやってきた。
「はい、大丈夫といえば大丈夫ですね」
俺がそう答えると、利用者の一人が市川さんに近づいた。
「あの人、ぶん殴るとか言ってたわ。ボランティアさんは何も悪くないのに、ちょっと気の毒だねえ」
「えっ、大沢さん、そんなこと言ったの?」
市川さんは呆れた様子で騒動の主を見た。
「……お、おれ、帰ります」
そういって大沢さんはその場から立ち去った。
「ついてった方が……いや、まあ、そっとしておくか」
市川さんは困り果てた様子で汗を拭った。
ちょうど撤収する時間になり、運動公園からクリニックへ帰る時間になった。
俺は行きと同じように市川さんと並んで歩いていた。
さっきの出来事があったせいか、彼は複雑な表情になっていた。
「ほんとごめんね。あの人はもう、いい加減にしてほしいんだよなあ」
「そんなに気にしてないんで」
テニスの試合でも勝敗がついてからクレームをつけるタイプはたまにいる。
まあ、さすがにぶん殴るぞとは言わないけれど。
「マジでどうすりゃいいんだろうねえ。レクとか遠足とか来たいプログラムにしか出てこないし、来たら来たで誰彼かまわず絡んでいくし」
「なんだか、大変ですね」
俺はそう言いながら、ボランティアと職員では立ち位置が違うと気づいた。
「そうだねえ、たまにこういうことがなければ、わりと平和で働きやすい職場ではあるんだけどね」
「そういうもんですか」
その言葉を聞いて、こういった職種でも普通のサラリーマンと共通する部分はあるんだと思った。相手にするのが人である以上そういうもんなのかもしれない。
リワークルームに戻ると帰る時間になっていた。
部屋に残っていた数人と看護師の小野田さんが給食の準備をしていた。
「それでは、失礼します」
市川さんの帰っていいよという言葉を聞いて、部屋を後にした。
この騒動の翌日。
俺は普段練習場所に使っている室内コートに来ていた。
栗田やいつもの仲間が集まっている。
一通りウォームアップをしてから、ゲーム練習を行った。
変な気を遣わなくていいのは楽だとしみじみ思った。
休憩の時間になり、栗田が近くに座っていた。
俺は大沢さんとの男の勝負について話してみたい気分だった。
「――へえ、そんなことがあったのか」
一通り話を聞いてから、栗田は不思議そうな顔をしていた。
「一応、ボランティアなわけだから、完膚なきまでに叩きのめすのは控えた」
「なんかそれ、接待テニスみたいじゃないか」
栗田はにやついた顔でいった。
「やめてくれよ、接待だなんて」
そんなに外れていない気もするけど。
「うんっ……あれ、なんか聞いたことあるぞ、そんな話」
栗田は何かを思い出したように首をひねった。
「ああっ、思い出した。おれも似たようなことあったわ」
「なにそれ、男の勝負を挑まれちゃったやつ?」
俺は栗田の話に興味を抱いた。
「うちの会社のテニス部、っていっても遊びのテニスなんだけど、そこで練習した時に同じようなことがあった……大柄でベリーショート?」
「……あれ、言ったっけ? まあ、そうだけど」
「もしかして、そいつの名前って大沢とか言ったりする?」
「えーと、大沢違いとかじゃないよね。その大沢さんは同じ会社?」
俺は少し困惑していた。同僚に対してもやらかしていたのか。
「そうだな、休職中っていうのが共通してるなら間違いないだろ」
栗田はスポーツドリンクの入ったペットボトルに手を伸ばした。
「何それ、お前の会社の人かよ。世間は狭いっていうか……」
「おれは遠慮なく叩きのめしたけどな」
ハハッと栗田は手を叩いて笑った。
「ほんとかよ、素人に毛が生えた程度なんだから優しくしようよ」
俺も思わず笑いがこみ上げていた。
栗田は高校時代ほとんどの期間にレギュラーで、俺は補欠とレギュラーを行ったり来たりしていた。
残念ながら彼と男の勝負をしたら、八割以上の確率で負ける。
そんな彼に試合を挑んだのだから、大沢という人は頭がおかしいとか思えない。
どう考えてもバカにしか思えないけれど、そんなことを繰り返していたら、どこにも居場所がなくなってしまうだろう。現に市川さんは次に見かけたら厳重注意することになると話していた。
「やっぱり、テニスは楽しくやらないと面白くねえ」
そういった栗田の瞳は輝いて見えた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
大沢みたいな人は困ったちゃんな反面、不器用で周りと上手く関われないという側面もあるんですよね。絡まれた方からすればたまったもんじゃないですが(笑)
四日市市で国内の有力選手が集まるテニスの大会が開催中ですが、この暑さでは観戦する側が干物になってしまいそうなので現地応援は断念しました。杉田祐一選手がわりと好きです。