二
俺は今何を考えているか…それは次々見る過去の夢、それも雪女に出会ったその日から鮮明に頭の中で思い浮かべてくるのだ。なんだか懐かしい思いを募らせる。
俺はあれから自宅に帰ってベッドに倒れかかって天井を見上げる。俺の出会った例の美人の事を思いながら。
「雪女…か…」
一言そう呟いてポケットに入っていたお守りを取り出すと、突然頭が痛くなってきた。俺は頭を抱えながらベッドの外に転がり落ちてしまう。
ーーーお母さん お母さん お母さん お母さん お母さん
何度も何度もその詠唱が頭の中に巡らせる。こびりついているのだ。泣いても怒っても笑ってもその言葉が消える事はない。
あっお母さんだ
唐突にそう言った。言わなければならない、言わないと何かが止まる気がして。俺の一言と雪女の姿が重なり、俺はやっとぽっかり空いた心の隙間にパズルが当てはまってしっくりきた。
忘れていたあの記憶を…秒針が動き始める。
俺は一枚の写真を大切に持ち歩いてたが、いつしか見なくなった。その写真という紙の記憶媒体を急いで見たい衝動に駆られて、必死に起き上がって探し始めた。そして見つけた写真を見て一言呟く。
「はは…自分のお母さんの顔を忘れていたなんて……な」
俺は長い間旅をしていた。親を忘れる親不孝な旅を。ゆっくりと歩み寄る悲しい感情をその期間中は忘れていたようだ。
「お母さん……まさかこんな事になっていたなんてな」
家出してから一度も帰っていない。それどころか実家付近の県内に近付くことも無かった。俺は今頭の中で最後に会って頭を下げればよかった…謝れば良かったと後悔し始める。
お守りの模様は優しいマーク。
俺を包み込むような…本当は愛してくれたような……
俺は思わず涙を流しながら頭を掻きむしり始めた。
「くそっ! くそっ!! あぉぁぁぁぁぉぁぁあ!!!!」
静かに倒れ込む。数時間混乱の渦に頭を悩まされながら、気付いたら外は明るくなっていた。俺の目はクマだらけ。髪もボサボサ。そして一言
「…一度だけ家に帰ろう」
何かを思い出したかの様に急いで玄関の上に置いてあった車の鍵を乱暴に取って部屋を出た。そして同じタイミングで部屋から出てきた隣人の挨拶を無視しながら操られたような感覚で駐車場まで歩いていく。
ゆらりゆらり…と。
隣人は俺の様子を気にかけてついてくるが、怒声を浴びせるばかりだ。人格が変わりすぎた俺を見かねて精神科に行こうと強く呼び止められるが俺は涙を流しながら何かを訴えた。
怯えた隣人の足は止まって俺は車に乗り込み、一心不乱に運転をし始めた。あちらこちらに揺れながら。それでも俺はハンドルを握る手を話さない。
「……」
言葉が出ずに頭の中でお母さんの顔を鮮明に把握しながら地元に向かった。
実家に帰ると父親がいきなり殴りかかってきた。突然消えて突如現れて、お前は一体どこまで親不孝なんだ!と怒声を上げている。弟は蔑むような目で俺を見てくるがそんなことはどうでもいい。俺の目的は…
「お母さん…」
大きな仏壇があった。
線香が立ててあった。
笑顔でこちらを見てるお母さんがいた。
俺は涙を流しながら近付いて仏壇の前で跪く。そして何度も何度も「ごめんなさい」と呟いた。父親は座り込んで弟にご飯食べに行くぞ。こんなクソが入ってきて気持ち悪い。
そう言って俺に向かって家の鍵を投げつけた。俺を睨んだ父親は舌打ちをして弟と共に家から飛び出して車でどこかへ行ってしまった。
俺はゆっくり鍵を拾い上げて写真を見つめる。そして自分の苦労話、楽しかった話、悲しかった話、現状の事、同僚の話を延々と述べていく。お母さんはそれを笑顔で聞いてくれた。
「ふふっ人生を楽しめられたのね。あなたは自慢の息子よ」
俺は後ろを振り向いた。すると笑顔で雪女が立っていた。少しずつ近付いてくる。俺は恐怖で足がすくんでしまって動かない。
「お守り、ちゃんと持ってくれていたのね。うれしいわ」
ニッコリと笑った彼女は雪のように消えかかっていた。俺はその時にやっと足が動いてくれて彼女に抱き着いた。そして、体が分子のように細かくなってボロボロと粉雪が舞い散るように飛んでいくさまを俺は見逃さずにいたのだ。
「消えないで!!」
そう言って俺は急いで粉雪を拾い集めて彼女の消えかかっていた部分にくっつけるが元には戻らなかった。そして残っている手を俺の頬に当てて微笑みながら語りかける。
「決してあなたを恨んでなんていないわ」
その一言を発した直後に彼女は跡形もなく消えてしまった。その場に残っていたのは水溜まりと、溶け残った氷結晶のみだ。俺はそれらをすくい上げて涙を流す。
「ごめんなさいお母さん…ごめんなさい!!」
俺が人生で一番後悔した瞬間だった。
それからというものの仕事に精が出なく、魂が抜けきったような状態であった。同僚らは心配してきたし、鈴木は幽霊のせいだと、何度も俺の前でお経を唱えまくっていた。
俺は初めてこんな感情を持った
死にたい…と。
父親から逃げるように自分勝手に上京した自分に嫌気がさした。
あの時逃げないで親の言う通りにしていたらどんな結末になっていたのだろうか。
もしかしたらお母さんは生きていたのでは…
考えるだけで辛い。辛い辛い!!
心の奥底から、自分の行為の浅はかさの穢れた汚いものを思いっきりゲロと一緒に吐き出したい。その吐き溜めに自分も混ざりこんで苦しむ事が…などと意味不明な事を考えながら涙を流す。
ごめんなさい
この一言しかでない。この一言で表せるのはどう言った意味なのか?そんなこと知らない。こんな無責任な言葉の意味なんて。
身体中が焼けるように熱い。
俺はおもむろに立ち上がって外に出る。父親に投げつけられた鍵で家の戸締りをし、ポストに鍵を入れて静かに車の中に入った。
「………」
車を走らせて走らせて走らせる。山を超えて向かった先は長野県。一度取材で来たばかりの場所でもあるそこには一つの伝説上と謳われた山がある。山の名前はアルト山。そこは雪景色が実に美しいと噂される山なのだが、登山した人間が帰ってきた試しはない山なのだ。