56.待ち受ける敵
さく……さく……ッ。
下草や落ちた葉が積もった大地を踏みしめていく感覚。
そのまま足を止めずに一定のテンポで進んで行く。
すでに何度も歩いて慣れたはずの森に異常が起こっていても、それは変わらない。
「急いでるから無駄な戦闘しなくてもいい、ってのはありがたいんだけどな」
その呟きの示す通り、明らかに魔物との遭遇率が下がっているのだ。
本来であれば奥に行けば行くほど、そこにいる魔物との遭遇率は上がっていく。これは単純に生息している魔物が強力になっており、その分だけ活動範囲が広がるからだ。
例えば小鬼などは移動速度も移動可能範囲も人間のそれと大差がない。対して巨大蟷螂のような魔物は倍以上の活動範囲を持っているし、グリフォンやマンティコアなどといった魔獣はさらにそれを上回る。おまけに縄張り意識も強かったりするので遭遇の危険性は段違いに高くなる計算だ。
その遭遇が無い。
すでにルート09領域に入ったにも関わらず、出発してからここまで2日経過しているにも関わらずその間の戦闘回数は、と言えばなんと0だ。
ここ一ヶ月の鍛錬による“天恵”の効果、そしてヘレナとの戦いで上がった実力を考えれば、今ならマンティコアくらいならなんとか対処できそうではあるが、別段戦いたいわけではないので助かると言えば助かる。
正直ヘレナとの戦いは結構キツかったしな。
少し休んだとはいえ出発してすぐは、大分動きが硬かったりして身体が重かった。気を張っている間はいいが油断すると疲れがドっと出てくる感じだったのだ。
だが2日、戦闘がなかったおかげで体調も十分戻った。
むしろ全身の筋肉痛も消えたので、成長して幾分かキレも増しているのではなかろうか。
「よし、後はここを超えれば、目的の遺跡だな」
崖を見上げる。
ほぼ垂直に切り立った崖ではあるが、表面は至る所に出っこみや引っこみ亀裂などがある岩肌だからいくらでも手を掛ける場所はある。一般人ならともかく、体力と技術さえあればまったく登れないということはないだろう。
とはいえ悠長にのんびりと登って、余り時間をかけているわけにもいかない。
頭の中で経路をトレースして確認。
それから一気に駆けた。
「よ、っとぉ!!」
タッ! ダンッ! タ、ッタンッ!! タタタ! ダンッッ!!!
かろうじて足が引っかけられるほどの岩の出っ張りを蹴り上がるように進んで行く。
肝は速度だ。
迅さを緩めることなく一気呵成に駆けあがっていく。
ガラ…ッ。
「あ、やべ」
足場にしたところが脆くなっていたのか砕けて、バランスが崩れた。
一瞬の浮遊感、それが重力の紐が体に絡まって引き寄せようとしていることを教えてくれる。
「くぁっ!!」
2メートルほど落ちたあたりで崖面を蹴り、その反動で体勢を入れ替える。そのままもう一度、今度は横蹴りを放って体を滑らせ、生えていた樹の幹を掴んだ。
「ふぅ……」
驚いたけども、生憎とこれまで不測の事態は山ほど経験している。
ランプレヒトやヘレナと戦うことを考えれば、この程度のイレギュラーの対処は難しくはなかった。
油断なく再度駆け上がり、今度は問題なく頂上まで到達する。
その崖の先。
すり鉢状になっている台地の上に在ったのは、広がっていたのは目的の遺跡。
「こりゃ絶景だな……。
出来れば、今回みたいなときじゃなくて、もっとのんびり探索出来るときに来たかった……ってのは贅沢な悩みなのかねぇ」
周囲を木々に囲まれた台地。
その真ん中に拓けた空間があり、そこにそれは在った。
すり鉢状に中心へとなだらかな斜面が続き、その真ん中には大理石を削り出した白亜の建物がそびえる。大きさとしては高さ8メートル、横幅が20メートル、奥行きは……ちょっとここからだとわからないかな?
一番手前にはおそらく正門だったのだろう、崩れ落ちた石造りの構造物があり、そこから白亜の建物までは広い石畳の道が続いている。
道の左右にはこれまた大きな台座とその上に石像が鎮座しているが、その作り込みたるや通る者を威圧しそうなほどの精巧さだ。それぞれが手に何か玉のようなものを持って掲げているので、何か儀式的にも意味があるのかもしれない。
惜しむらくは風に晒されたせいか、いくつか腕が落ちたりひび割れていたりと損傷している点だろうか。
見回してみると、中心部の建物を守るかのようにいくつかの小さな建物が周囲に点在しているのにも気づく。大きさとしてはさほどでもなく一階建ての民家サイズがほとんどだが、そのうちいくつかはくっついており行き来が出来そうだ。
それぞれ入口や窓周りに柱や庇をつけていたりと凝った装飾が見受けられた。このあたりは今より文化的にも発展していたと言われる古代遺跡らしいと思う。
全体としては長い年月で苔生しており、それが白い石と緑のコントラストを構成している点も情緒があって良い感じだな。
「で、動いてるのがいくつか……ん? あの残骸はもしかして骸骨か……?」
石畳の道を歩いている4つの影を凝視する。
幸いなことに、まだこちらに気づいていないようだ。
硬質な体躯と黒光りする足。
その生き物はカチカチと大顎を鳴らしながら、頭部から生えている触角をせわしなく動かして辺りを探っていた。
―――巨大蟻。
厄介な魔物が出てきたな、と内心うんざりする。
ユディタから教えられた知識を元に考えるのならば、おそらくは蟲系の魔物の中で最も面倒な相手だろう。
基本的な理由は3つ。
群生、個体の強さ、多種性。
基本的に一匹で生活していることはほとんどない。今回のように群れでいることが多いから、単体で現れる魔物よりもやり辛い。しかもその数は数匹から、多い目撃例では数百にも及ぶ。それどこから伝説や神話レベルならば数千、数万という表記もあるくらいだ。
しかもかなり強い。
一般的に蟻の群れの中では最下層の一般蟻ですら並みの冒険者では太刀打ちできない。甲冑のような強固な体皮に苦痛を厭わない獰猛さ、そして蟻酸のような飛び道具すら使ってくるためだ。
そして群れの中ですら最低でも3種類、場合によってはもっと多くの種類がいるという多様性がその脅威に拍車をかける。
一般の蟻ですら強いというのに、その上に戦士階級、そして女王が控えているのだ。大きな群れならば、さらに将軍階級、奴隷階級、変異体など様々な分野に特化した個体もいるらしい。
ちなみにユディタに言わせれば、そこまでは基本の話であって、実は脅威の理由としてもうひとつ、多様性を挙げていたりする。
巨大蟻と一括りにしているが、実際のところいくつもの種があるというのだ。
例えば相手を抑えつけて蜂のように尻尾の毒蜂で殺すものや、肥大化した顎での攻撃に特化したもの、果ては花の蜜のみを主食として人を襲わないもの、農業を行うもの、魔術にも似た爆発を使うもの等々。
とはいえ、見たところ道のところにいる連中は通常の巨大蟻に思える。
念のため予想外の攻撃に対応できるように心の準備はしておく必要があるが、倒すのは問題なさそうだ。
それよりも気になったのは徘徊する蟻たちの足元に転がっている骸骨と思しき残骸だ。損傷の痕からして蟻たちにやられたのは間違いない。
「壊されてまだあんまり時間も経ってなさそうだし……元々ここに居た死霊系の魔物って考えたほうがしっくり来るな……そんで後から来た、あの巨大蟻にやられた、ってトコか」
ヘレナの予想が見事にビンゴだったということだろう。
蟲系の魔物を使う奴は、オレの知っている限りランプレヒトくらいだ。
偶然この森の中にオレの知らない蟲使いがいたりとか、偶々巨大蟻が遺跡を見つけて根城にしようとしているところに遭遇したって可能性もあるが、可能性の話をしていたらキリがない。
見えた光明に心が逸る。
後から思えば、まさしくこれが油断だったのだろう。
ぞわり…ッ!!!
至近距離―――それも背後から起こった強大な気配。
いくら前に意識がいっていたからといって、生半可な相手の動きではここまで接近を許すわけがない。そう考えれば、その気配が発する実力も納得できる。
そんな相手がオレの背後に突然現れたことに総毛立ちながらも、咄嗟に前に転がるように距離を取ろうとする。
だが相手はさらに一枚上手だった。
後ろを振り向く間すら与えず、何者かの腕が首筋に絡みつく。
後悔先に立たず、とはよく言ったもの。
この上ない見事な奇襲だ。
そのまま一瞬にして意識が落とされていった―――。