38.天恵指南
ようやく午前の鍛錬が終了し、ユディタの家の前でずっと体に巻きつけてあった紐を外す。
妙な感覚だった。
重く力が入り辛いような、淀んだ澱が堆積したかのように動かしづらかった鈍い感覚。それが少しずつ消えていくかのような、川に溜まった落ち葉が流水で流されて綺麗になっていくようなそんな体感。
「ふふふ、不思議な感じがするかい?
みんな最初はそういった顔をするからね、実にわかりやすいよ。
こればっかりは慣れてもらうしかない。人によっては巻いた部分の肌に痕とか出てくることもあるけど、大したことじゃないからそこは目を瞑って欲しいな」
少しばかり頭がクラクラする。
これがユディタが言っていた刺激というやつなのかどうかは定かではないが、今回の鍛錬の影響なのは間違いない。
しかしまさかこんなもので縛って血と魔力の流れを阻害して鍛錬するだけで、そんな効果が出るなんてなぁ……意外と本当に重要なことっていうのは簡単なことなのかもしれない。
「ちなみになんだけど自分で巻くのは基本的にNGね。こう見えても微妙な力加減とか、その紐の巻いている面積とか微妙に調整しないとベストなのって出来ないから。
例えば巻く面積が大きすぎれば、最低限必須な流れすら阻害して最悪壊死しちゃうし、逆に足りなければ阻害が不十分で効果が落ちる。力加減を誤っても同じこと。
その人の体格や種族、その体調とかによって加減は変わるわけだし、これ以上ない効果が見込めるところでビシ!っと出来るのは、長年研究しているワタシくらいのものだよ、少年」
なるほど。
むしろ壊死ギリギリ一歩手前までやってるってかなり危険なんだな、これ。
「おまけに魔力は生体エネルギーだから生物には万遍なく流れている。だから血管だけじゃなく皮膚とか筋肉自体だって路があって通っちゃうわけで、普通に縛っただけじゃ魔力は止められない。
この特殊な紐があったればこそなんだけど、これも実は作るのに凄い手間暇かかってるんだよね。
素材自体も手に入れるのが大変だし。一見簡単に見えるかもしれないけど、そう見えるのはキミが膨大な過去の研究という名の犠牲の果て、その果実だけを得ているからだね」
「……おみそれ致しました、ってトコかな」
話を聞けば聞くほど、確かに個人てやるのは困難な感じになってくる。
自分のことを客観的に判断した上で、しっかりとした知識で適切にフォローしてくれる指導者がいて初めて出来る部類の鍛錬か。
「しかしこれは見誤ったかな」
目の前にいる指導者は思わせぶりに腕を組んで、悩んでますよといった風を見せる。
一体何を見誤ったというのか。
「ワタシの目算だと午前中の鍛錬が終わった段階で、キミがばったりと倒れるくらいかなと思って鍛錬強度を決めたつもりだったんだけど……意外と平気そうだからさ。
息も絶え絶えになって、っていうのが初日の定番なんだよ、通常は」
なるほど、メニューの目算が甘かったんではないかと思っているのか。
少し沈黙して自らの体の感覚を確かめる。
もうちょいイケる気はするかな……ただギリギリに近いことは間違いないので、ここから先を本当の際まで突き詰めるとなると故障の危険も高くなる気がする。例えるなら崖の端まであと30センチのところまで来ている感じだろうか?
そこから数センチとか数ミリまで追い込むことは出来るけども、地面が崩れたり足を滑らせたりと言うアクシデントの可能性が高くなるイメージだ。
「まぁそのへんは1日終わってから考えるとしようか。
計画と言うのは常に検証して改善していくのが当たり前でもあるし」
むっふっふ~、と意味深に笑っている彼女に苦笑する。
しかし彼女自身は自らのことを格闘士って名乗ってたけども、あまりそういった雰囲気がしない。唯一それらしいと実感できたのは初対面のとき、小鬼たちを刺激するために戦意を放った瞬間くらいだ。
普段はマイペースで色々ツッコみたいところはあるが、こと闘争に関してはどちらかというと理論を大事にして実践もしている学者肌というか、それこそひとつのことを突き詰めようとしている求道者っぽい気がする。
いや、毎日振り回されていそうなヘレナあたりが求道者とか聞いたら鼻で笑いそうなくらい、普段はアレなんだけどもな! あくまで鍛錬中の話限定だ。
「む、何か失礼なことを考えてないかい?」
「? 別に」
しかも変なトコで鋭いしな。
「……まぁそれはいいや。事前に心折れないように言っていたのが不要なくらい全然参ってないようだし。これは午後も楽しみだね。ホント、少年はメンタルが強いや」
本当よく言われるなぁ。
自分ではそんな風に思わないんだが。
「納得いかない顔をしているけど、それは才能のひとつだよ。使い古された表現で言うなら高さ1メートルに渡された幅30センチの橋は大抵の人が渡れるけど、それが高さ50メートルの谷に掛かっていたら渡れない。例え無風でバランス等の条件がまったく同じだったとしてもね。
それくらい精神状態は体に大きく影響する。ギリギリのトレーニングで弱気になって楽に逃げることもない、実戦で必要な選択肢を選ぶことに臆することもない。
だからこそキミの強いメンタルは武器なのさ」
「いや、だって高さがいくつであれ渡らないといけないんなら、やるしかないと思うんだが……。で、渡るときに怯えてたら逆に危ないんだから、そこは切り離して淡々とやるしかないんじゃないか?」
「理屈ではね。でも普通はそうできない、っていうハナシさ」
才能ねぇ。
あって困るわけでもないからヨシとしよう。
「さて、あとはお昼摂って、それからしっかり休憩も取ること。
午後は動きやもっと実践的なものを主体とした鍛錬になるから、頭が疲れてイメージ力も沸かないようじゃ効率半減だからね!」
気持ちは切れてはいないが、だからといって体が消耗していないわけではない。
正直どれだけ昼食が食べられるかも怪しいが、さっさと詰め込んで休むとしよう。
「そうそう。最終目標がわからないと張り合いも出ないだろうから……午後はまずキミの得ようとしている“天恵”がどれほどのものなのか、ワタシが実演してあげよう」
このタイミングでそれか……上手いなぁ。
内心ワクワクしながら、オレは邸内に入った。
次回、第39話 「目指すべき場所」
7月15日10時の投稿予定です。