35.天恵へ至る一歩
人は慣れる生き物だ。
だがそれは慣れる前にも同じことが言える。
何かが変わる度にそれに慣れて適応していくが、だからといってそれまでの慣れが無くなるわけでもない。
つまり何が言いたいかというと、
「やっぱちゃんとしたベッドで寝ると、疲れの取れ具合が段違いだな」
昨日まで使っていた森での就寝用に樹の枝で作ったベッド。実際そこで寝起きしている間は気にならなかったが、今こうしてちゃんとしたベッドで眠って朝を迎えると体の軽さが全然違う。
勿論昨日の小鬼退治とその後の走り込みで筋肉が痛みを訴えてはいるものの、異常というほどではない。幸いなことにヘレナに凄い勢いではっ倒された平手打ちも、むち打ちなどの後遺症は出ていないのでヨシとしよう。
やはり肉を食べたのがよかったのかもしれない。
ちなみにベッドの置いてある室内は荷物がごちゃっとしている。それもそのはず、つい昨日まで物置として使われていた場所なのだそうな。
食事後、裏手の井戸から水を汲んできてざっと水拭きをしただけなので、いくらか埃っぽいが屋外で寝泊まりすることに比べれば雲泥の差である。
ちなみにベッドは簡易寝台として使われていたものを別の部屋から運んできたので、埃っぽいとかそんなことは一切ない。
「調子もいいし、ちょっと体を解しておくか」
窓から見える空は快晴。
今日からユディタに戦い方を習うことになったわけだし、多少なりとも体を動かしてウォーミングアップくらいは済ませておいたほうがいいよな。
そう考えて部屋を出た。
廊下を通って昨日食事を摂った入口の居間に出ると、すでにそこには先客が居た。
「おはよう、ヘレナ」
「あら、お早いんですのね、ルーセント。おはようございます」
テーブルでのんびりとコップにいれた水を飲んでいるヘレナに挨拶すると、丁寧に返された。今日もその縦ロールは完璧にセットされていて一分の隙もない。
「まだ朝の5時ですわよ? 初日ですからもう少しのんびりしてもよろしいですのに……とはいえ勤勉なのは良いことなのかもしれませんけれど」
彼女の言葉通り時計の針は5時を指していた。
なんと凄いことにこの家、居間に大きな鳩時計がセットされているのである。
機械仕掛けの時計は高級品で一般人の家にはまず置いていない。普通は街であれば時報変わりの鐘の音で時間を判断し、農村であれば完全に日の出、日の沈みなど太陽だけで大雑把に判断しているのが普通だ。
「勤勉とは少し違うかもな。やりたいことをやってるだけだし。ほら、誰だって楽しいことするのは好きだろう?
むしろヘレナこそ、オレが起きてたのよりもさらに早いんだから勤勉っていうのなら、そっちのほうが先じゃないか」
「そういう性分なのでしょうね。今更治りませんの。
それにこう言ってはなんですけれど……お師匠様は必要最低限以外の家事についてはかなりズボ、残念な方ですから。掃除や食事など気になるところがたくさんある状態で、のんびりするというのは少し考えられませんわ」
そう言えばこの居間も心なしか細かいところまで綺麗になっている気がする。
天井に吊るされているランタンの笠の部分とか、テーブルに置かれている花瓶に新しい花が挿してあったりとか。
ん……? ってことは、オレより先に、どころじゃなくて作業時間を含めればかなり早く起きてたんじゃなかろうか。
「……個人的には、そんなに早起きしてるのにちゃんと髪の毛をそこまでセットしてるのが凄いとは思う」
「身だしなみはマナーですわ。それに案外慣れるとそこまで大変ではありませんのよ?」
そんなもんだろうか。
いつか髪の毛が伸びたら編み編みヘアにしてみようか……いや、似合わんからやめとこう。
「おぉ! おはよう。ちゃんと朝早くからやる気満々じゃないか、結構結構」
そんなことを話していると、ユディタも起きてきた。
「なんだいなんだい、朝から楽しくお話ししてたのかな? 随分と仲良しさんになったもんだね」
「か、勝手なことを仰らないで下さいな!」
相変わらずのマイペースぶりでヘレナをからかいながら、ユディタもコップに水差しの水を入れている。
「ほらほら、ツンデレもほどほどにしておかないと、ブランちゃんみたいに婚期逃しちゃうゾ? 師匠心に心配してフォローしてるだけなのに」
「前回お師匠様がそれを言った後、ブランディーヌさんが数日塞ぎ込んでたのを知らないとは言わせませんわよ!? 本人今年で20代後半ですから気にしてますのに!」
「あんまりに綺麗で頭がキレ過ぎると男って寄り付かないんだよねぇ」
しみじみと言うユディタ。
とりあえず再び素直に感想を言ってみることにする。
「20後半……まだまだ全然イケると思うんだけどなぁ」
「ルーセントさん!?」
「お、そっちにいっちゃうの!? キミってばなかなかのチャレンジャーだねぇ、少年。まさかまさかの年上好きかい?」
「そういうのじゃなくて……ほら、25からが女盛りというか。まだまだ気にするような年ではないんじゃないかと思ってさ」
「ツワモノだなぁ。その言葉、ブランちゃんに聞かせてあげると喜びそうだよね?」
「……どうしてその同意を、わたくしに振りますの」
「ちなみにワタシも喜ぶよ!」
ユディタも20代後半ということだろうか?
確かに外見からすると20過ぎくらいに見えるのでおかしくはないが。
「んー、もうちょっとだけ上かなー、なんて」
「あ、そうなんだ?」
「そそ。ほんの200歳くらい」
……はぁ?
聞き間違えだろうか。
何かとんでもないことを聞いたような。
「朝から冗談キツいぜ」
「本当ですわよ。ただエルフは長寿で寿命そのものが長いですから、200歳そこそこではブランディーヌさんと似たり寄ったりくらいの認識で間違いありませんわ」
わぉ……予想の遥か斜め上だった。
エルフって長生きだったのか。てっきり耳がちょっと長めで尖ってるだけかと思ってた。
「さて、カミングアウトしてスッキリしたところで、朝食前に一汗かいておこうか。さ、外に出た出た」
背中を押されるように外に出されるオレを、ヘレナは小さく手を振って見送った。
まだ朝早いせいもあり日差しは柔らかく気温も過ごしやすい。
森の木々の緑と、その生い茂った葉の間から見える空の蒼さがなんともいえない爽やかな対比を生み出していた。
「何はなくともまずは体力。さ、ひとっ走りしてみようか。
それから朝食を軽く取って、びしばし厳しいメニューもいっちゃうからね、覚悟するように!」
促されて、先に駆けだした先代“天恵”さんの後に続く。
こうしてオレの鍛錬が幕を開けたのだった。
このときはまだ、これがオレがこの先に身に着ける“天恵”への一歩になるということを知らなかったんだ。
次回、第36話 「境界の極」
7月11日10時の投稿予定です。