28.蝕む悪風
言葉にするのなら一言で済む。
惜しい。
これだけだ。
大事なことなのでもう1度言おうか。
惜しい。
せっかくの肉。
それもかなりの上物。
何もかもが足りない、そして得るのに苦労する森の中において、その価値と来たら金銀財宝にだって勝ってもおかしくない。
そんなお宝を目前にして逃走する羽目になるなんて、悔しいことこの上ない。しかも自分が苦労して相手を倒してからの横取りだ。
腹立たしさもさらに倍に感じられておかしくないだろう。
とはいえ、射手から逃げているのだから叫ぶわけにもいかない。
内心で悔しさをかみ殺しつつ、しばらく全力疾走していると小川が見えた。
再びそのへんの木々に身を隠して様子を窺う。
「はっ……はっ……はっ……」
出来るだけ静かに、小刻みに呼吸を繰り返して体を落ち着ける。
とりあえずここに来るまでに矢を撃たれた形跡はない。このまま何事も無ければ、向こうはオレを撃つのを諦めたか、もしくはオレが撃てる範囲から逃げ切ったのかのどちらかだろう。
しかし、すぐにでも考えないといけないな、射手対策。
別段森の中に永住するつもりはないが、ある程度の準備が出来るまでは拠点にせざるを得ない。そう考えたときに再びあの射手と遭遇するかもしれない可能性は十分にあるのだから。
「……逃げ切った、か」
しばらく様子を見て、追ってきている感じも矢が撃たれる感じもないので、ほっと息をついた。
今回はなかなか際どい状況だったな。
いや、今回も、か。
ランプレヒトの斬撃も単純な速度とか攻撃力だけを見れば、矢よりも脅威だったわけだし。
「ホント、人生って飽きないよなぁ……痛ッ」
緊張が緩むと、矢が突き刺さった肩口がひどく傷んで来た。
確認してみたところ結構熱を持ってしまっている。
とりあえず小川へ降りて行った。
そこで少し躊躇したものの意を決して、
ずぐっ!
そこで矢を引き抜いた。
自分の肉を抉るような行為だが、こういうのはひと思いにやってしまったほうがいい。たらたらとしているのが一番よくない。
「ぐ……ッ」
矢じりは石だが、確認してみるとしっかりと小さい返しがついている。
それが傷口周りの肉を持って行ったようで、広がった傷口から血が流れていった。
ひとまず傷口をごしごしと洗ってから―――当然のことながら滅茶苦茶痛い―――服の裾を短剣で破って傷口を縛る。一通り作業を終えると、ごくごくと水を飲んでから帰路につくことにした。
肉は惜しいが、逆に言えばあの射手が小鬼側の奴だった場合、あの肉を持ち帰るのは確かだ。あれだけデカいんだから取り分けるのにも運ぶのにも当然時間がかかるだろう。
ならば、あの地点を避けて戻れば射手との遭遇はしないはずだ。もしかしたらそういう思惑とは別に偶然の遭遇の可能性もあるが、そのへんは運頼みだから考えても仕方ない。
そう判断して歩き出す。
予測が的を得たのか、幸いなことに帰路で矢を撃たれることはなかった。
だがそれとは別の問題が発生した。
ようやく根城の近くまで戻ってきた頃、身体に変調が現れ始めたのだ。
まず頭がフラつく。
もっと言うと、力が入らない。
さらに身体が熱っぽい。
いつぞやのランプレヒトと戦っているとき発揮された、謎パワーによるふわふわした感じとはまったく違う違和感。
原因を考えてみるが、思いつくのはじくじくと痛む傷口くらいだ。
巷で使われている「悪い風」という言葉がある。
傷から悪い風が入りこむと、傷を負った数日後から痙攣の発作を起こしたり呼吸困難を起こして死亡するというものだ。未だにその詳しい原因についてはわからないが、それでも市井では経験上清潔にしているほど起こり辛いということがわかっている。
これまたノーマッドからの受け売りでもあるが、特に冒険者は傷を負うことが多く、その対処によって命を左右されるこの手のことには敏感なのだという。
だからこそオレも小川で傷口周りを綺麗にしたのだ。
だが、もし悪い風が理由だとすれば早すぎる。
話に聞いていた限り、こんな1時間かそこらで何かが起こるようなものには思えないし、その上症状が聞いていたものとも違うように見える。
だとすると、
「毒、か」
住居に戻ると扉を閉めてからベッドに、どかっと横になった。
撃たれた矢。その矢じりに何か毒のようなものが塗ってあったのかもしれない。森の中で手に入るものだとすると蛇とか虫の毒だろうか。
すでに傷口も洗い流してしまっている以上、推測する以外に答え合わせも何も出来ないが、一応そうアタリをつけてみた。
「よしんば……毒の種類がわかったとしても……解毒薬も何もない今の現状では…意味ない、か」
木を削って作った器に溜めてあった水を口に含む。
出来ることと言えば、安静にして体力を温存することくらいだ。毒じゃないかと考えたところで人里がどっちにあるのかすら怪しい森の中では医者など見つかるべくもない。
そうこうしている間にも、どんどん症状は悪化していった。
霞がかったように頭は朦朧とし、時折閃くかのように猛烈な激痛が走って悶える。
「ぐぐぐぐぐ……ッ!」
歯を食いしばり堪えるしかない。
汗がぼたぼたと垂れるに任せ、ただ苦痛の中を泳ぐ。
粗い呼吸を正す労力すらも今は惜しい。
ここでどこであるとか、こんな状態で襲われたらひとたまりもないとか、刹那に様々な思考が浮かぶものの、全てがすぐさま散り散りになってまとまらない。
ガタンッ!! ガタッ!
悶える度に立てる寝台の音がまるで他人事のように響く。
視界すらぼんやりし始めた。
ただ耐える。
ひたすらに堪える。
他に出来ることなんてありはしないのだから。
時間の感覚も曖昧になっていく。
ほんの少しのような気もするし、かなり長い時間経っているような気もする。
ぐにゃりと寝台が歪んだ。
いや、歪んだのは毒に侵された視界なのか。
ただわかっていることは、このまま意識を手放すのは余りよろしくなさそうだということくらい。生に固執する強烈な意識の力以外に抗するべき縁などないのだ。
きゅぅ、と。
身体が圧迫されているような感覚。
まるで大きな壁に挟まれて徐々に左右から押し込まれているような、そんな妙な息苦しさ。
そしてそれに気を取られた頃に激痛も戻ってくる。
「……この借りは……必ず……ッ」
呻く。
その呻きこそが最も強烈な原動力。
これもまたひとつの戦い。
全身全霊を持って自らの命という存在を賭けて行われる戦いだ。
この目玉が裏返ったような引き攣りも。
時折、呼吸を脅かす痙攣も。
熱と強烈な刺激に翻弄される思考も。
寝台を掻き毟って割れて赤く染まった爪も。
かろうじて少量の水を飲む以外の何も受け付けない腹も。
まるで内部で蟲でも這っているかのような関節の違和感も。
激烈を極める戦場の屍のようなもの。
その何もかもの先にこそ生が待つ。
そう信じて、唯々自らを信じて抗った。
どれくらいの時間が経ったのか。
悪化する症状。
ようやくそれが緩和し始めたのを感じ取った。
そこでようやくオレは、ひたすら堪えて焼きついてしまいそうな頭を休めるべく意識を手放した。
次回、第29話 「ザ・リベンジマッチ」
7月4日10時の投稿予定です。