Prologue
黄昏の時代。
どれほど隆盛を誇ろうとも斜陽の刻は必ず訪れる。
人も、国も、神さえも。
この理から逃れることなど出来はしない。
そう、出来るのは―――抗い続けることだけなのだ。
等間隔に設けられた灯の揺らめきに合わせ、石造りの壁の表面を影が舐めるように滑っていく。広さだけは十二分にあるものの、椅子とテーブルしかない殺風景なその室内に、影を生み出している張本人が一人佇んでいた。
時折惑った羽虫が火に飛び込み己が身を焦がすその様を、静かに視界に収めながら。
「自らの身を焼く暴挙……これからの自分たちと重なる、か?」
かけられた声に振り向くと、そこには同じようにフードを深く被った長衣姿の人物がいる。
ゆったりとした長衣を纏っているため、両者の違いといえば若干の背丈、そしてフードの下から辛うじて見てる口元からわかる男女の差くらいのものだ。
同じ緋色の長衣は最初に部屋にいた男と、新たにやってきた女がそれぞれが“賢者”の称号を得ていることを示す複雑な文様が刺繍されていた。
「わかっていても……それでもなお飛び込まずにはいられない。確かに、重なると言えば重なるものよな」
ジジジ…と蝋が溶ける音などまるで気にならない響きで、耳障り良く流れるように淀みのない女の声が届く。
そもそも言葉を紡ぐのも賢者を賢者たらしめる重要な要素であると考えれば、それはさして驚くことではないのだろう。
「……まだ時間には早いと思うが」
「生憎とその時間を待つ意味はないよ。アイツは来ない。すでに旅立った」
男は静かに瞼を閉じ、その言葉の意味を噛み締めた。
「……そうか」
ただ、そう答えるしか出来ない。
せっかちだなとは思うが、それだけだ。
一刻も早くというその気持ちは理解できる。
「不満そうだね?」
「多少は。だが、アイツの計画が一番手間がかかる。その分だけ早く着手にかかりたい、というのはわからないではない」
ただそれだけ。
そもそも志こそ同じであれ、そこに至る経緯も、計画の設計思想すら違うのだから他者の行動についてとやかく言うだけの権利がない。
精々幸運を祈ることくらいか。
可能であれば一時的であったとしても、こちらに取り込んで彼の計画を支援してもらいたいという下心があってセッティングしたこの場が無駄になったことは残念ではあるが。
「じゃあね。あたしも行くよ」
「ああ」
踵を返す女に対してすら、素っ気ないその一言だけ。
馴れ合いなど不要。
彼らを唯一繋がりせしめていたのは、その目的だけなのだから。
―――魔王の討滅。
ただそのひとつだけを頼りに知り合ったと言っても過言ではない。
優れた才能が集まり、意見を交わし合い、情報を精査し、そして各々がそれぞれの対応を立案した。これから始まるのはその実践。
無論、実践するのとそれが届き得るのかどうかは別問題。
そもそも指先ひとつで半径数十キロを焦土にし、さらに数十年消えないと言われる呪いを大地にかける怪物を相手にするなど正気の沙汰ではない。
馬鹿げた話だ。
倫理を打破し、人道を棄て、尚届くのかどうかわからない。
ある者はその人の手の及ばぬ者を倒すため、人の手の及ばぬ存在の力を借りようとし。
ある者はその人の手の及ばぬ者を倒すため、人の手を用いて神代の武器を作ろうとし。
ある者はその人の手の及ばぬ者を倒すため、人の手により手が及ぶ存在を生み出そうとした。
そのどれが届く、あるいは、その全てが届かないのか。
これから結果が試される。
それ以上でも、それ以下でもない。
分の良い賭けではないのは百も承知。
同じ悲願を達成しようと、どれだけ多くの人間、集団、国が労力を費やし無駄に終わったか、そして現在進行形で無駄に終わろうとしているのかを考えれば、達成できる確率は大穴という言葉でも失礼なレベルだ。
残された男は立ち上がりながら、やや後ろにずり落ちそうになっていたフードを深く被り直した。
最早ここに用はない、とばかりに室内はおろか建物からも退出する。
外は夜の帳に覆われていた。
心地よい夜風と人の気配がしない静寂。
無計画に建てられた建物、加えて遠慮も思慮もなく、これまた雑多に繰り返された増改築。つまるところ法の支配の及びづらい無秩序めいた場所だということだが、そんなことは関係ない。
それらが無数に集まっているこの区画の空は狭く、星の瞬きが見えづらいのを少し残念に思う程度だ。
特に感情を感じさせない視線で周囲を一瞥し、ゆっくりを歩を進めていく。
1分か、10分か、あるいはそれ以上か。
歩き出しているうちに、いつの間にか付き従うように小柄な影がついて来ていた。
夜、そして明かりの灯っていない不気味な街並み、という条件を差し引いたとしてもなお見事なその気配の隠し方は、明らかに普通の町人のそれではない。
にも関わらずフードの男に驚きは無かった。
それどころか気配がついてくるに任せて、歩みを止めることも、遅くすることさえしない。
したことといえば、
「人払いは?」
唇がそう言葉を紡いだだけだ。
端的にそれだけ言わない短い台詞だったが、それでも影には十分だったのだろう。
済んでおります、と肯定の意を返し、
「アベリツェフ高司祭とは接触済みです。無論、今回の支援についての背後関係は辿れぬように、細心の注意を払っております」
ふたつの影は歩みを止めることなく、独り言をそれぞれが続けるかのように抑揚のない小さな声で続けていく。
「それで、かの御仁の儀式とやらは予定通りに進みそうか?」
「……難しいと思われます。現段階で予定の半分ほどしか進んでおりません。
原因としては“生贄”の力量選定の甘さ、そして予想よりも早く冒険者組合側の中に送り出しについて疑念を持った者がいるためではないかと」
前者により、確保の際に戦力を消耗し過ぎることでその次の確保が遅れ、さらに後者で獣を猟場に追い込むことについて妨害をされている、というわけか。
男はそう理解した。
「なるほど、どこにもまだまだ有能な者がいると見える」
思わず唇の端が持ち上がる。
とても喜ばしい、と言わんばかりに。
「ならば、少し後押しをしてやろう。
組合側の幹部の中に金で転ぶ豚が数匹居たであろうよ。
連中に送り出しそのものに便宜を図るよう動かせ。並行して懸念を示している者のリストアップもだ。背後関係を調べた上で取り込めるのならば取り込む。
かかる費用と人手は通常の作戦範囲の倍程度までであれば、細かい内容は問わぬ」
男の言葉を全て聞いたのを最期に、唐突に気配が消える。
夜の黒に溶け込んでいくかのように影自体がその場からいなくなっていた。
奇しくもそこはちょうど地区の切れ目。
少し先にある十字路からは、街灯の明かりと街行く人々の足音がわずかに洩れてきている。
ばさり、と。
男はフードを下ろし、さらにそのまま長衣も脱いで丸めた。
予め用意してあった羽根つき帽を被って歩くその姿は、これまでと違う躍動的な動きで立ち振る舞いそのものがこれまでと違う。
賢者の時間はもう終わり、ここからは街を行くただの住民となる番だというだけのこと。
その場その場で求められる立ち振る舞いをこなせるだけの所作は、これまで十分すぎるほど身に着けているのだから、この程度の変化は容易い。
というより容易くないと困る。
―――なにせ、この後はさらに町人から王太子という変化もこなさなければならないのだから。
全ての始まりがこの夜であったのかどうか。
それは誰にもわからない。
彼以外には。
次回より、第一章の本編開始となります。
第1話「誕生」 6月3日10時の投稿予定です。