序章
活動報告で宣言しました通り、リハビリ代わりに新作投稿を開始致します。
拙作ではございますが、よろしくお願い致します。
荒野、というのも憚られる。
そう表現するしかない殺風景な場所。
只々真白き天地が世界を築き、視界に入るその境にそれぞれを別つ領分を描いている。余りに平坦で白い世界は遠近感をまるで感じさせず、結果地平線という名のその果てはまるで絵画に引かれた線のように現実感がない。
そんな、命という命が存在しない死の大地。
存在を許されている者が居る。
そんなところに佇んでいるのは二人の男。
正確には一人。
だが、今このとき、この場所に限っては紛うことなく二人。
全く同じ顔をした彼らは、それぞれがこれまた全く同じ得物―――白銀の剣を構えた。
銘を問えば無である、と男は答えるだろう。
だが抜き身の刀身は余りに美しく―――そして余りに鋭い。
鍔元の意匠が最低限にしか無いせいもあり、男の腕よりもやや長い程度のその刃渡りだけがその武器の存在を高らかに謳いあげていた。
殺意も無く。
憎悪も無く。
敵意も無く。
ただ戦意のみを以って、彼は刃を煌めかせた。
生存条件は唯一つ。
目の前の相手を倒すこと。
何千。
何万。
何億。
常人では最早どれくらいか数えられないほどの繰り返し。
数多というにも生ぬるい数の戦いを経て、さらにその次を重ね始める。
自らと寸分違わぬ実力の相手―――というよりも、全く同じ実力の自分というのが正しいのかもしれない―――に一度でも敗れれば死ぬ。
制限時間は無く、勝ちを掴み取ったとしても再びその自らと同じ強さの相手が現れる。
そして再び戦い続ける。
純粋に敗北するのが先か、心が折れるのが先か。
これを苦行と言わなければ何と表現すればよいのかわからない、そんな繰り返し。
にも関わらず、
―――彼は笑っていた。
破顔一笑。
嬉々として、命の応酬を楽しんでいる。
誰の目にもそれが確信できるに足る表情で。
神すら絶つ剣閃の嵐。
それは津波にも似て。
それは雪崩にも似て。
致命を避け。
必死を放ち。
その上でさらにその先を目指し続け、彼は闘争の渦を泳いだ。
一合一合、研ぎ澄まされていくかのようにその能力を磨いていく。
だから彼は喜ぶ。
ここでは誰もそれを咎めない。
遠慮などする必要すらない。
そして何より―――
―――勝ってもいい。
そんな単純な唯一つの事実が、この救いようもないとしか表現できない無間地獄のような果てなき殺し合いすら幸福に満ちたものにしてくれていた。
刹那というにも短い時間に何度切り結んだのだろうか。
濃密な一瞬で勝負は決し、片方が勝利する。
だが、その次の相手は現れなかった。
□ ■ □
近づくその気配を意識が感じ取ったのだろう。
ゆっくりと覚醒しつつある彼に、
「お戻りになられましたか、偉大なる軍神よ」
そんな声が投げかけられる。
神殿の一室。
そこに設けられている寝台に横たわっていた彼はゆっくりと上半身を起こし、金がかった茶色の髪に手を当てながら、コキコキと首を鳴らした。
逞しい、という表現がまるで誂えたかのようにピタリと嵌る男だ。
身体が何一つ衣服を纏っていないせいで、厚い胸板や太い腕が寝台の布の間から見える。
顔立ちも整ってはいるものの線の細い美形、というよりは男前と言われた方がしっくりくるのではないだろうか。
「堅苦しいぞ。それに“役目”は消える前に譲ったはずだ……今の軍神はお前だろう?」
身体の動きを確かめるかのようにゆっくりと動かしながら、寝台の前に立っている青年へ、そう返答をする。それに対し、
「そうでしたね、父上」
青年はそう言って小さく笑う。
その言葉が示すように、彼らはよく似ていた。
いくらか違うところがあるとすれば、目の前にいる息子という男のほうが線が細く少し小柄だということくらいか。
とはいえ別段、男が小さいわけではない。
むしろ平均的と言ってもいいだけの身長はある。
「……どれくらい経った?」
「そうですね……お隠れになられてから5000年と少し、と言ったところです」
彼にとってその言葉は予想通りでもあり、そして同時に予想外でもあったのだろう。表情に、納得と驚きが少しずつ混じりあった微妙な色を一瞬浮かべた。
「他の者は?」
次に出てきた問いかけを、青年は少し懐かしそうに聞く。
聞きたいことはいくらでもあるはずだ。
にも関わらず彼が時間の次にまず問うた内容、それがいかにも彼らしかったからに他ならない。
それさえなければ、と思うと同時に、だからこそ、とも思う。
「基本的に皆、息災にしております。無論、弟も母も……」
と、そこまで答えたところで、ふと思い出したかのように一瞬言葉を止め、
「至高の御方だけは、こちらにおられません。どちらに行ったのかも不明です」
「主神殿のみ不在、と。いつものことだろうけど、戻ってきたら戻ってきたで騒動の種を運んでくるから始末が悪いなァ」
何せ神代の時代より続く悪癖だ。
おいそれと無くなるものでもないことくらい理解しているのだから、そう驚くことでもなかった。
「それにしても……起きるなり家族の心配とは、まったくもって貴方らしいというか」
「? 大事なことだろう?」
神。
そうカテゴライズされる存在の中でも異質。
勿論、神に家族という概念がないわけではない。
ある程度の情はあるし、当然ながら身内意識だって有る。
だがそれ以上に個々に隔たりがあるのも間違いがない。
それぞれが自らの権能と本能、存在そのものを誇示するかのように振る舞うがゆえに、喩え肉親であろうとぶつかり合うのが神という存在なのだから。
そんな中で、自らの存在を曲げてまで無条件に家族への情を持つ彼がやはり異質としか言いようがないのだ。
そしてそれこそが彼をして先代軍神という地位に座しめていた理由でもある。
「それにしても……皆、無事か」
「十二分に準備することが出来ていましたし、特に覇権争いそのものへの注力を抑えていたがゆえでしょうね。間違いなく貴方の助言のおかげです」
安堵する彼に、軍神を継いだという青年は淡々と解説する。
「で、どこが勝ったんだ?」
かつて彼が予言した争い。
その勝敗の結果は果たしてその予想の範囲内なのだろうか。
「勝っていません」
ただ一言だけ。
端的というには端的過ぎる短い答え。
「……は?」
意味がよくわからない。
そんな顔で思わず聞き返してしまった彼に対し、青年がコホンと咳払いをして、
「―――結果、世界は滅びました」
しれっとそんな驚愕の事実を告げると、さすがの彼も普段見せないほど大きい驚きを見せた。
5000年以上も軍神という大役を担わされた青年が満足する程度には。
「とはいえ、それだけでは説明が不足していますね。
正確には勝者が決まらないまま、終わったということです。逆に言えば全員が勝者になった、とも言えるかもしれません」
しれっと言葉を付け加えた。
世界の飽和点。
そこを越えた将来に起こる、神々の争い。
それこそがかつて軍神が予言したもの。
光と闇、善と悪、聖と魔、火と水、風と土、天と地……反発するあらゆるものが混ざり合えば、そこには混沌しか待ち得ない。ゆえにその戦いが長期化し続ければ消耗して消えていく。
その消耗が限度を超えたところで残った者が傷ついた世界を作り変え新たな秩序を作るのではないか、それこそが、かつての見立てであった。
「しっかりと記録はされておりますので、そちらをご確認下さい。百聞は一見にしかず、とも言いますし、それが一番早いでしょう」
「ああ、助かる」
青年が差し出した手。
その掌には不規則に揺らめきながら、かすかに膨張と収縮を繰り返す漆黒の円環が載せられている。
まったく躊躇することなく、そこに彼は手を伸ばし、ぞぶり、と微温湯のような泥が体に纏わりつく感覚を受け入れた。
軍神の力。
長きに渡り彼が醸成し、そして息子に預けたそれが再び戻ってくる。
同時に名を取り戻す。
偉大なる軍神―――アレス、という自らの名を。
戦における負。
栄誉の影。
光に目が眩んだ人々が見て見ぬフリをし、数多の神々が望まぬそれを望んで一身に受けることが出来た偉大なる神格。
「……なるほど」
わずか数瞬の沈黙を破ったのは、アレスの納得するかのような呟き。
一時とはいえ力を預かっていた青年にとっては、それだけで意味が十分過ぎるほど理解できた。
戦の負を司るということは、その敗者の全てを司ることと同義だ。
つまるところ、彼らの一切合財その存在に付随するものを常に纏うに等しい。
そこに存在する数少ないメリットのひとつが、
“敗者の囁き”
そう呼ばれる能力である。
背負った敗者の知識を己がものとして引き出し使うことを可能とする。
軍神が眠りについてから今日に至るまでの敗者たちの生き様を識ることで、知らぬ歴史を補完したのは間違いなかった。
ただそういったものが存在していることを理解はしていても、力を預かっている間も青年はそれを使ったことは無い。敗者の囁きに耳を貸すということは、その際限無い負の想念の波に身を任せることでもあるのだから。
喩え一人一人は非力で小さくとも、数が増えればそれだけ妄執も大きくなる。
ましてや過去から現在に至るまでの敗者の総数となれば、それこそ神だとて迂闊に手出しすれば破滅を免れえないものになっていることぐらい、子供でも予想がつきそうなものだ。
にも関わらず、目の前の軍神はそれを散歩でもするかのような気楽さで行う。
だからといってデメリットを受けていないわけはない。
間違いなく敗者たちの悪意に蝕まれているはずだ。ただその現実そのものを耐え、そして受け入れることが出来るだけのこと。
そんな彼の在り方がもどかしく、苦々しい。
「現状は理解した。とりあえず……出来ることは当座、何もなさそうだな」
現在に至るまでの過去、そして今の世界の有り様。
把握した上で軍神はそう結論づけた。
「そうですね。最早、我々が簡単に直接的な手出しを出来る世界は存在しておりませんから」
単なる事実。
かつて人と神が近く在った時代を識る身としては、それが少し名残惜しくもあった。
そんな軍神の感慨を知って知らずか、青年は改まって言葉を紡ぐ。
「ですから、もう自由になさってもよろしいかと。
他の誰に遠慮をすることなく、自分の心のままにやりたいことを為す。最早それを許さない状況は存在していないのですから」
息子からの思わぬ申し出に、
「……それは誤解だ。オレは好きなようにやってきた」
対する軍神は、そう淡々と返した。
「ええ、そうかもしれませんね。
ただ……貴方は優し過ぎる。その優しさの好きなように、という意味なら間違いないのでしょうが……ならば聞きましょう」
優しさも度を過ぎると毒だ、と言ったのは人間だったか、と青年はため息をついた。
そのまま指を一本立てながら問う。
「戦が本職でない鍛冶神に負けて追い払われることが、やりたいことですか?」
「アレは負けないと駄目だろう。悪いのは母上なんだから、いくらか溜飲を下げてやらなければ落としどころも探せない」
もう一本指を立て、
「海神の息子どもに壺に閉じ込められて死にそうになることが、やりたいことですか?」
「……いやぁ、だってな? 曲がりなりにも従兄弟なんだから、どうしても頼みたいことがあると言われたら何とかしてやりたいと思うものだろう」
「それで信用して、隠れた壺が神力を吸い取る壺だった、と。弱い神ならば数日で死ぬあの封の中に13ヶ月も居て滅びなかったことだけは、さすがですが………。
どう考えても殺しにかかってる相手を未だに信じているのはどうなんでしょうね」
立てられる指はさらに増える。
「不名誉にも神々の裁判にかけられることが、やりたいことですか?」
「……オレの不注意だったからな。罪が罪として扱われたことに対して異論はないよ」
「あっちが先に貴方の娘に手を出し、それを問い詰められるなり襲ってきた挙句、予想外に脆くてあっさり殴り殺されてしまった馬鹿の相手を罪というのなら、神々の世界は罪しか残りませんよ」
当然、無罪になったわけですからね、と青年は面白くなさそうに言った。
「挙句、トロイアのときにも……」
「その話はするな。頼むから」
「誤魔化しても無駄ですよ。当事者から聞いておりますので……まだまだありますが、それはまぁいいでしょう。
私が言いたいのは単純なことです。
今挙げたことを含め、そのどれもが不名誉に歪められ伝わっていることをご存じですか? やってきたことを好き勝手に捻じ曲げているにも関わらず、貴方は過去から今このときに至るまでそれを訂正させようとしない。
むしろそうやってきた連中を慮ることしかせず、結果として不遇を囲っている。
それに対して面白く思っていない神がかなりいる、ということですよ。私も含めて、ね」
言うべきことは言った、とでも言うかのように青年は背を向けてその場を後にする。
室内には嘘偽りのない直言を向けられた軍神だけが残された。
彼は思わず天井を仰ぎつつ、己に向けられた言葉を頭に留める。
すでに世界は変わってしまっている。
青年の言う通り、今ならば一番気を遣わなければならない相手も居ない。
これまでの評価をわざわざ直す必要はないし、そのつもりもないが、やりたいことをやれる状況であることは確かなようだった。
そう考えたとき、ひとつ考えなければならないものがあった。
やりたいこと、そのものだ。
この際だから、今の自分がやったことのないようなこと、やろうと思いもしなかったことが良いのではないか。
そう思い少し悩んでから、ふと先ほど“敗者の囁き”で得た知識の中からひとつだけ、面白そうなことを思いついた。
壊れる前の世界の書物。
その物語の中の言葉。
―――異世界転生。
神や超常的存在が死んだりした人間を他の世界へ生まれ変わらせるというモノ。
考えもしなかった、まさに軍神である今の自分に打ってつけな所業ではないだろうか。
そして生まれ変わった存在を鍛え、磨き、育てる。
戦いの神である以上、そこに惹かれないわけもない。
確かに彼が直接力を振るえる世界は壊れてしまっているが、それでも間接的になら力を振るうことが出来る世界があることは、すでに識ることが出来ている。
ならば、この思いつきを実現してみるのも悪くはないだろう。
「ひとまず他の神々に顔出しをしてから、ゆっくりと対象を選んで動くとしよう」
衣を纏った彼はそう心を決めて神殿を後にする。
この、長く燻った時間を持て余した軍神の行動。
これが全ての始まりだった。
次回、第一章のPrologueとなります。
投稿は6月2日10時を予定しております。