手記:プロローグ
ぼくの人生は満ち足りていた。
両親は優しく、友人とは互いに信じあい、恋人がおり、大学も国立で。
だけど僕は、何か空虚なものを常に抱えている。
両親に逆らえず夢を殺し、友人とは影で貶めあい、恋人には僕でない恋人がおり、大学も留年で。
あぁだつてもう面倒面面倒。
死のう。
自然な発想だった。
なんのビルかも知らない13階建ての頂上は風が吹き荒れていて、ぼくの人生初の自由意思を後押ししてくれている。
転落防止の役目を果たす気があるのかないのか分からないくらいに低いフェンスをよじ登り、向こう側へ、自由への扉の遥か上にたつ。
ここから下へ飛び込めば自由だ。
理性が足を進ませると、本能がそれを戻してしまう。そんなもどかしいやりとりは、20分も続いた。
「結局、ぼくに自主性などなかったんだな」
ぼくはぼくに失望する、扉に向かえない僕自身に。
帰ろう、そう思ってぼくは再びフェンスをよじ登った。
独り暮らしのアパートの部屋に戻って、彼女に電話して、友人とオンラインゲームをして、両親に留年を伝えて、そして眠ろう。
憂鬱なのはきっと魔が差しただけ。明日になれば全部元通りだ。
「あらあらどうして死なないの?」
突然のことだ。
先程まで誰もいなかったはずの屋上に女性がおり、ぼくに愛しげな笑みを向けてきていた。
彼女は慈愛に満ちた表情を作ってはいたものの、それはどこか不気味でぼくは身震いする。
「だ、誰ですか」
「ふふ…神様かしら?」
「何を言って―――
「知ってる?人は死ぬと異世界に転生できるの」
流行りのライトノベルのような、アニメのような妄想を女性は語り出す。
「ひとつの世界が受け入れられる魂の量は決まっている。この世界はその中心であり源。ここで育ったはみ出し者の魂は死ぬことで解放され、異世界で本来の力をふるうの。素敵でしょう」
まるで少し拗ねた性格のアマチュア小説みたいな設定を聞かされて、僕は少し馬鹿らしくなった。
「悪いですけど創作なら語るより書いてみてどこかに投稿するのが良いですよ。じゃあ僕は帰るとこなんで」
声に見下している気持ちが乗ってしまっていることに、ぼくは気づかない。
「帰るなんて無理ね。今日ここで、貴方は死ぬのだし」
女性の声が艶っぽく笑った。
こっちは悩みに悩んで自殺しようとしていたのに、それを茶化すなんてとんでもない。
心の内で火花が散った。
「さっきから何が言いたいんだよ」
放たれた語気荒々しい言葉を女性は楽しそうに受けとる。
「医者の親は文系の道を選んだ子供に失望しているし、貴方の彼女は貴方の友人と楽しくセックスしてるわね」
心臓が電気ショックをくらったかのように跳ね上がる。嘘だ、そんなこと、ありえない。
鼓動が早くなり、全身の血流がフルアクセルと化す。身体中がスポンジみたいになって汗がにじり出る。
母さんたちが僕に失望?
嘘だ、だって大学合格を祝ってくれたじゃないか。
アイツがぼくの恋人と?
嘘だ、アイツにも彼女がいる。
思い出した。
僕を見る親の目を、僕を見る友の目を、僕を見る恋人の目を。
そして見つけた。
僕を見る自称女神の慈悲を浮かばせる救いの目を。
殺せ、自決できないぼくを、俺を殺してくれ。
そう懇願すると、彼女は歓喜に打ち震え喜びの涙を流し絶叫した。
彼女は白い細腕で三度めのフェンス越えをした俺を、突き落とした。
かつてニュートンが発見した法則に従いながら、女神の叫びを耳にしながら、ぼくは思う。
親の喪失を、友の邪悪を、恋人の欲望を。
そうして段々と女神の絶叫が遠くなって。
どすん。