8月9日、夏の日の幻
「それでは、こちらも始めようか」
開始の合図はその一言だった。
ナイアーラトテップの姿が変容する。
それは、顔の変わりに円錐状の触手を生やし、三本の足を有する異形の怪物。
守もまた、それを迎え撃つために姿を変える。
ナマケモノとコウモリをあわせたような、黒く獣毛に覆われた怪物の姿。
恐ろしいというよりはどこかユーモラスで、大柄にもかかわらず、威圧感は薄い。
だがその肉体には、例え同じ邪神であろうと滅ぼしてしまうほどの、圧倒的なパワーを秘めているのだ。
「行くぞ!」
守は地面を蹴った。
拳を振りかぶる。
ナイアーラトテップは、守めがけて、知覚出来ない何かを叩きつけてくる。
守は直感的にそれを拳で打ち抜く。
その瞬間、悟った。これは世界だ。
這い寄る混沌を名乗る邪神は、世界そのものを武器として守にぶつけてきている。
それを喰らってしまえばどうなってしまうのかは分からない。
だが、砕いてしまっていいものだろうか。
守が一瞬の逡巡を感じた時だ。
守の周囲を取り囲むように現れた世界が、その方位を縮めて360度、あらゆる方向から襲い掛かってくる。
「このおぉぉぉっ!!」
守は、力を込めて拳を振り回した。
拳に触れる世界が次々と砕け散っていく。
勢いを殺さぬまま、守は駆け寄る。
その距離は邪神の力によって、無限大にも等しい距離に帰られていたが、守は無限大と言う概念そのものを蹴り砕く。
刹那の間に、ナイアーラトテップは守の眼前に迫った。
「これで終わりだ!!」
守が渾身の一撃を放つ…………這い寄る混沌はその顔ともいえぬ顔に、笑みを浮かべたように思った。
砕け散る。
「……くん」
揺さぶられる感触。
守は全身のだるさを感じながら、顔を上げる。
「守くん、守くんたら。……やっと起きたよ」
目の前には、つんつん髪にどんぐり眼の少女が立っている。
ややピンクがかったブラウスは布地も薄く、その下にある豊かな少女の肢体を否応なく連想させる。
「あれ、金城さん……」
「なんだよ、守くんは他人行儀だなあ。勇って呼ぶ約束じゃない」
彼女は、守が知るままの優しい笑顔を浮かべて、守の腕を取った。
「私達、付き合ってるんだから」
頭がぼんやりとして、思考が晴れない。
いつから自分は金城さんと付き合っているのだろう。
そう自問自答しながら、守は日々を過ごしていく。
だが、この幻めいた日々は、薔薇色に輝いていた。
「守くんってさ、歌が上手いよね」
一緒に行ったカラオケで、頬を染めて勇が拍手をする。
彼女は守が歌うアニソンを毛嫌いしない。いい歌だね、と言ってくれて、その曲に対する守の思い入れを理解してくれる。
何の矛盾も無い。
金城勇とはそういう人だ。
一切の偏見を持たず、いつの間にか懐に入り込んで、自分の本質を見てくれる。
だから好きになった。
二人きりのカラオケボックスは、薄暗い照明も相まって、なんだか非日常な空間。
微かに残ったタバコの臭いは、普段なら顔をしかめてしまうが、今日はそれが淫靡に感じる。
勇がとてとてとやってきて、守の隣に座る。
席はまだたくさんあるのに。
体が密着して、彼女の匂いがする。
「金城さん」
「勇」
彼女が口を尖らせて言い直しを要求する。
「勇さん、ち、近いよ」
「近くないよ。私、まだまだ守くんを知りたいもん」
背の低い守よりも、なお小柄な彼女が見上げてくる。
守も見つめ返す。
じっと目線が合う中、ぽつりと勇が言う。
「いいよ、私、守くんとなら……」
彼女が目を閉じる。
守は引き寄せられるように顔を近づけて……。
待て。
これでいいのか?
自問自答する。
何を悩む?
これでいんだ。
お前が本当に好きなのは、彼女だろう? 金城勇だろう。
彼女がお前を好いてくれる。
それ以上に何を求めるのだ。
守は勇の肩を掴んで、少しだけ距離を取った。
勇が目を開け、不思議そうに守を見つめてくる。
攻めるような色は無い。そういうことはしない女性だ。
だから、余計に胸が痛い。
なんでだ。
なんで、僕は迷っている。
守は自問自答する。
何か違う。
彼女は好きだ。
大好きだが、違う。彼女の隣には、僕ではない、誰かがいたような。
思う内に、場面が変わる。
見覚えの無い田舎の光景だ。
守が来たことが無い風景。
小山があり、そのふもとに沼がある。沼を囲むように集落が広がり……。
隣にいる勇が、守の手を引く。
「ここが私の故郷なんだよ」
そう言って、やや小高い場所から、集落全体を見渡す。
勇が言っていることは本当だろう。ここは、彼女のふるさとなのだ。
「私と一緒になる人は、この集落が受け継いできた伝統も受け継ぐの」
隣を見返すと、ノースリーブのワンピースを纏った勇が、微笑み返した。
「君に受け継いで欲しいな、守くん」
……違う。
守の心の中で、何かが叫ぶ。
これは勇だが、勇ではない。
守が好きな金城勇という少女は、確かにこうやって、ちゃんと好意を見せてくる。
だが、守が好きだったのは……金城勇という少女単体だけではなくて……。
”守れ伊調!! フライングボディアタックだ!!”
叫び声が聞こえた気がした。
心臓の鼓動が高鳴る。
辺りを見回す。
”彼”の影は無い。
違和感が増す。
「どうして君がいないんだ」
名前を思い出せない、ある男の事を思った。
「ここは君の居場所だろう。だって、僕は君と金城さんが一緒で、一緒だから、だから、君たちを好きになったんだ」
走ってくる足音がした。
存在を思い出す。
彼はそこにいなければならないのだ。
駆け寄ってきた手が、守の背中をバーンと叩いた。ちょっと痛い。彼なりの親愛の証だ。
「お、どうしたんだ、伊調」
「遅いよ、坂下君」
守と勇の間に、見慣れた親友が立っている。
守は彼の背中をポン、と叩くと、笑った。
「金城さんをしっかり守ってね」
行きがけの駄賃に、沼から勇に伸びていた手を軽く払っておく。
それだけで、沼に潜む存在は力を隠した。
「さあ、これでおしまいだ。君の手札はまだあるのかい、ナイアーラトテップ」
周囲がハイパーボリアへと変化する。
「いやあ……お見事」
白人の風貌をした、黒い肌の男が肩をすくめた。
守が拳を叩き込む寸前。
全てはここで止まっていたのだ。
預言者の姿をしていた這い寄る混沌が、ブラックマンと呼ばれる姿になっている。
「どうやって私の幻影を破ったのかね? あのままなら、君は永遠に虚ろな牢獄に閉じ込められるところだった」
「ちょっと友達に助けられてさ」
「なるほど……いい友人をお持ちのようだ」
一撃。
炸裂した攻撃が、ナイアーラトテップの、この世界における写し身を消し飛ばした。
戦闘終了である。