8月7日、彼のお腹は天然バリュート
無限に広がる大宇宙……。
こんなクサイせりふ、一度言ってみたかったんだ、なんて守は思ったが、案の定周囲には音を伝播するほどの空気がなくて、声が発せない。
ちょっと残念である。
守たち一行は、イイーキルスに糸をくっつけて、守がアッパーで白蛆邪神をぶっ飛ばした勢いに便乗し、この衛星軌道上へやってきたわけである。
外に出ているのは、守とシャタクとアトラ。
真空とか大丈夫な人たちだけである。
イブは実は、守の毛皮の中にいる。
自分でハスターの術式を使い、空気を確保してあるらしい。
「いざとなったら空気を出しますからご期待ください」
とか言っていたが何を期待するんだろう。
ともかく。
ルリム・シャイコースは身を竦ませ、逃げ場を失っている。
宇宙空間では彼の翅も、風を切ることが出来まい。
守は拳を握り締める。
足場として召喚するのは、無形の落とし子である。
重力が少ないのは守も一緒だが、一応手打ちのパンチだって、小惑星くらい破壊できる自信がある。
だが、相手は邪神。もっと腰の入ったパンチを撃ちたい。
だからこそ、無形の落とし子が生きるのだ。
彼らは出現すると同時に、ルリム・シャイコースまで続くトンネルを生み出す。
それは守が走るのに合わせて、高速で回転を始める。
スペースコロニーの回転っていうのを、3DCGやアニメで見たことはないだろうか?
あれを擬似的に再現しているのだ。
ぐるぐる回る擬似重力が、守の足をしっかりと星の側に向けてくっつける。
アトラとシャタクをお尻にくっつけたままでも、これだけ重力がしっかりしていればふらつくことなんてない。
(いくぞ!)
守は声にならない声で叫んだ。
すぐ目の前に、白蛆の邪神。
奴は尻尾を渦巻かせ、せめて守に対する壁にしようとする。
イイーキルスはありったけの白い光と炎で氷の壁を作り、ルリム・シャイコースを守ろうとする。
守の拳周りに、無形の落とし子が集まってきた。
彼らはいつか見たような、ごつくて黒い篭手の姿になる。
ここで、イブが顔を出してきた。
「”ハスターに関する記述”風よ!」
空気が生まれた。
喋れる。
だから、守は思わずあの技名を口にした。
「邪神パンチ!!」
炸裂。
圧倒的一撃は、以前地上で放ったときとは次元が違う。
何ら気遣いするべき対象など無いのだ。
イイーキルスが生み出した、大陸一つを氷漬けにするような全力の白い光を物理的に打ち砕き、白い炎をその勢いで擦り切れさせ、宇宙に満ちるダークマターを泡立たせ。
ルリム・シャイコースの尻尾を擦過熱で蒸発させながら、その真っ白な鼻面に一撃。
炸裂と同時に、地球圏が振動を起こしたような錯覚が生まれる。
少なくとも、この星全ての存在が、空で起こった振動を知覚した。
それは生物だけではなく、海も、山も、風も。
それらが起こそうとする暴走を止めるため、支配者達がひどく苦労するのはまた別の話である。
ツァトゥグァが放った本気の一撃は、ルリム・シャイコースを一撃で原子レベルまで粉々にした。
そして大爆発。
「ふぃーっ」
一仕事終えて汗を拭う仕草をした守の額を、お尻の辺りから這い上がってきたシャタクがドレスの裾で拭った。
「お疲れ様です。流石はマモル様です!」
「うむ、お主のバカ力は本当にデタラメじゃのう!」
「さあ、ハスターの力を使いますぞ。戻りましょう」
イブが後方に向けて風を出したので、一行はゆるゆると星の方向に動き始めた。
もうじき重力圏につかまるだろう。
「これだけやれば大丈夫だよね」
「ええ、ルリム・シャイコースも当分大人しくしているでしょうな」
「えっ、あれだけやっても死んでないの?」
「死にはしましたが、邪神は根本的には滅びませぬ。また数百年すれば復活することでしょうな。無論、マモル様が全力で叩けば滅ぶでしょうが……」
「むむっ、僕もまだ本気を出してないだけだったのか……」
原子になっても復活してくる。
邪神、意外なしぶとさである。
「まあ、相手はレッサーじゃろ? 邪神の中では一番の小物じゃ! もしかすると、魂だけの此方でも勝てたかもしれんからのう!」
「それでも、マモル様だからこんなにかっこよく勝てたんです! やっぱり流石マモル様です!」
頬ずりしてくるシャタク。
毛皮の上からでも、その感触が心地いい。
「でも、ムー・トゥーラン半島は完全に氷漬けになっちゃいましたね……」
「うん、腐っても邪神だなあ。マモレナカッタ」
自由落下に任せながら、風のバリアで摩擦熱を軽減する。
別に空気との摩擦熱があってもどうということは無いのだが、熱いのはいやだ。
ゆっくり時間をかけてムー・トゥーランに着地する。
守はそこで、無形の落とし子をわーっと大量に召喚した。
「掃除開始!」
指示を出す。
落とし子たちはわらわらと半島中に広がっていった。
凍った部分をそぎ落として、海に捨てるのである。
またルリム・シャイコースが復活すれば、ここは氷に閉ざされるであろうが、その時はその時である。
「とりあえず、今の世代の人たちは救った」
「神様だって万能じゃないですしね。出来ることからやっていきましょう」
とりあえずシャタクは、守を基本的に否定しない。
いい子だ。
守のもこもこした毛皮からイブも出てきて、
「レッサー・オールドワンに対して、これだけの被害で勝てたのならば御の字でしょう」
周囲を見回す。
なるほど、氷漬け以外にも、周囲は守がルリム・シャイコースを打ち上げた時に発生した津波やら振動やらでボロボロである。
ハイパーボリア以外の沿岸では被害も出ているだろうし、火山活動などにも何かしら影響があるのではないだろうか。
その予想を裏付けるように、彼らの背後の海面が盛り上がった。
「いた」
頭がタコで、コウモリの翼を生やして、ウロコを生やした非常に大きなボディの者が出現する。
「君さ、新人の邪神でしょ。困るんだよねー、手加減無しでこういう事されちゃ。被害軽減のために、海の邪神が大変だったんだから」
「あ、すみません」
守が素直に誤ると、彼は溜め息をついて、
「まあ、こういう風な事態になるのは初めてでしょ? 次からは気をつけようね。最初は誰だって失敗するんだから」
と言って、どんまい、と声をかけて去っていった。
「あのナイスガイは誰だろう」
「マモル様、あれは大いなるクトゥルフ様でございますな。海の邪神たちの頭目をやっておいでです。力ではなく、人格と人脈で神々を動かす才覚をお持ちだそうで」
「おお、あれが……」
有名人に会ってしまった。
ちなみに、彼が棲まうルルイエの都は、ここからちょうど地球の反対側である。
それを考えると、今のクトゥルフは本体ではなく、ルルイエから投影された幻であろうというのがイブの判断であった。
ともかく、小さな失敗はあったものの、ひとまず状況は片付いた。
この事件の余波に、勇者が4人ほど巻き込まれていたのだが、それに彼らが気づくことは無かったという。