8月6日、シャタクの車窓から
「来ると分かっているものを待つばかりなのはいかがなものか」
守の提案に、一同なるほど、と頷く。
ルリム・シャイコースがやって来る可能性が高いなら、こちらからやっつけに行ってしまおうというわけだ。
では、どうするのだろう。
銀の鍵は事態が発生した時に伝えてはくれるが、事の起こりの前に、それを教える機能は無い。
「ふむ……かの邪神がどこからやってくるのかを調べることが出来れば良いのですが。我が魔道士エウァグの霊を召喚して聞き出したのがこの記述ですが……むむ、だが、これは未来の知識……? 氷山、イイーキルスに乗って海を漂う……くっ……!」
イブが膝をついて倒れた。
守は慌てて助け起こす。
彼女が開いていた魔道書のページに、新たな記述が追加されている。
魔道書とはそれ自体がすでに魔法的な生物である。
一度編纂された魔道書は、自ら貪欲に知識を求め、その内容を深化させていく。
イブが生み出した魔道書は、かのネクロノミコンすら上回る名も無き一冊。
エイボンの書の完全なる原本である。
記述によれば、ルリム・シャイコースは現在この星の上で、イイーキルスという名の氷山に乗ったまま海を漂っている。
既に彼の影響はハイパーボリアに出始めており、ムー・トゥーラン半島付近にある島々には、氷に閉ざされているものすらある。
つまり、イブを助けたあの付近にいるかもしれない、ということなのだ。
「じゃあ、実際行ってみようか。どれくらい距離が離れてるのかな?」
「徒歩で一ヶ月ほどでしょうかな。空を飛ぶ術もございますが、シャタク殿一人では我々を運ぶのは難しいでしょう」
「え、余裕で運べますよ?」
「いや、絵的に、シャタク殿に我々三人が乗っているというのはいかがなものかと……。いや、そうか、シャタク殿がそれだけの力を持っているなら、籠を用意すれば……」
「何じゃ、それなら此方が作るぞ」
アトラが言うなり、しゅるしゅるっと糸を出し、器用に何人かの人間が入れる籠を作り出してしまった。
一見すると大きなバスケットだ。
シャタクが何やらアトラに細かい注文を出して、アトラがそれに応じる。
守専用らしい高い位置の座席が出来た。
いよいよ出発だというところで、わいわい乗り込むと、守はシャタクの狙いを理解した。
「あっ! この座席、頭にシャタクさんのおっぱいが当たる!!」
狙い通り、とシャタクが微笑む。
なんということだろう。役得である。
そんなこんなで、ハイパーボリアを空から眺める旅となった。
上空から見ると、何とも不思議な大陸である。
大陸と言うだけあって、端から端までが良く見えない。邪神になった守の視力は向上していて、その気になれば8,0くらいあるのだが。
コモリオムからヴーアミタドレス山までは、あっという間である。
シャタクがわざと高度を下げてくれたので、ヴーアミ族の集落上空をのんびり旋回することになる。
村人や、チナがこちらを見つけて手を振ってくる。
「せめて僕の信者は守ってあげたいなあ」
なんて呟くと、イブが感心したように声を漏らした。
「我が神は慈悲深いのですな。旧支配者たちの中には、己に奉仕する種族を使い捨てとしか考えぬ者もいるというのに」
「偽善かもしれないけどねえ」
「マモル様、それは庇護を受けた者たちが考える事です。マモル様は、思ったままになさっていれば良いと思いますよ」
シャタクの言葉が優しい。
「まあそういうことじゃのう。此方の奉仕種族は似たような蜘蛛の姿をしておるが、彼奴らとて、此方が気持ちを伝えてやれば自ら手足の如く動いてくれる。マモルの精神衛生上も、悩まず思うが侭にやることはよかろうよ」
この三人の中にいると、自分をこうやって認めてくれる。
これだけのことがとても嬉しい。
守はやる気になってきた。
「よし、がんばるぞ」
ぐっと力瘤を作る。
だが、自分で触ってみても、作った力瘤はぷにぷにしていた。
ヴーアミタドレスを超えると、コモリオムから続く街道が延びている。
建設途中の都がすぐ近くに見えて、あれはウズルダロウムという、副都となる予定の場所なのだという。
新しく作られただけあって、コモリオムに比べると碁盤目状の都市構造が美しい。
反面、尖塔などの特徴的な建物が少なく、少々味気なく感じた。
街道を辿っていくと、ところどころに村がある。
大陸には他に幾つか大きな都市があるとのことだが、大体の都市は港と一体化している。コモリオムが例外なのだ。
上空から望める港には、ムーやアトランティスといった大国からの船が到着しており、行商人達が煌びやかな積荷を降ろしているところだった。
街には活気が溢れ、自分もあそこに降りて街歩きを堪能したい気分になる。
だがまあ、いきなり邪神である自分がそこに降りればパニックであろう。
下手をすると、守が発する邪神の瘴気だけで街が壊滅する。
ここは自重である。
「そもそもさ、一旦家に帰って、銀の鍵で半島に行けばよかったんじゃない?」
「マモル様はムー・トゥーランの土地の姿を、正確に覚えておられますかな」
「……曖昧だなあ」
「でしょう。銀の鍵は、目印となるポイントが必要だといわれています。それは使用者がイメージできる、その土地のシンボルだからです。我がイホウンデーの使徒どもから逃れていた土地は、何も無いだだっ広い草原。目印などないでしょう」
それに、ルリム・シャイコースが近くにいるなら、その影響で鍵で開かれる扉に何かあるかもしれないと言われた。
こうやって上空から旅をする事で、目印となるポイントを守自身の目で確認していく。
これはそういう意味もある旅路なのである。
上空で道を辿る旅は、俯瞰の視点で人々の営みを見つめる事になる。
ハイパーボリアもやはり人間たちが支配する世界で、かつてヴーアミタドレスで守を迎えてくれた蛇人間たちは滅び行く種族なのである。
人間たちは街を作り、村を作り、畑を作り、獣を狩猟し、魚を獲り、果実を採取して暮らしている。
イメージしていた中世ヨーロッパの世界に比べると、都市は近代的で、反面村は原始的。
自然が人々にもたらす恵みは豊かだった。
こんな平和そうな土地が、一皮剥くと邪神たちひしめく魔境なのである。
「コモリオムから南へ行けば、伝説の都と言われるツチョ・ヴァルパノミがございますぞ。その地を支配する神の力なのか、宝石の如く美しくも危険な浜辺がございます。いつか共に参りましょう」
「イブさん、抜け駆けはだめです」
魅力的な誘いをしてくるイブだったが、シャタクが釘を刺した。
何気にイブは守を狙っている様子である。
「シャタク殿はいつもマモル様と一緒にいるからいいではありませんか」
「それはそれ、これはこれです! マモル様が行かれるなら私も行きます!」
「何じゃ! どこか観光にいくのか!?」
アトラまで付いてきた。
張本人である守を置いておいて、きゃあきゃあと騒ぎ出して、この場にいる唯一の男性は女子たちのパワーに圧倒されるばかり。
雰囲気のいい旅が、あっという間に姦しい旅になってしまった。
シャタクのテンションが上がったのか、空を飛ぶ速度がぐんと上がった。
もりもり旅路を進んで行き、夕方には半島らしき場所までやってくる。
びょう、と肌を突き刺すような寒風が吹きぬけた。
ムー・トゥーランは確かに涼やかな気候だが、それにしてもこれは寒すぎる。
この場に、冷気が堪えるようなものはいないが、尋常な人間であればたちまちの内に凍えてしまうだろう。
「おうおう、派手にやっておるのう」
アトラがその紅い目を細めた。
彼女が見つめる先には、幾つもの小島が浮かんでいる。
それら全ては、決して融ける事の無い白い氷に覆われ、あたかも氷山のような姿になっていた。
それら群島の奥深く。
傍目でも分かるほど、冗談めいて巨大な氷山が浮かんでいる。
あの山がイイーキルス。邪神ルリム・シャイコースの居城である。
どうやらあちらも、新たな邪神の登場に気付いたようだ。
もぞり強大な気配が、氷山の中で蠢いた。
「よっし、いっちょ行きますか」
守はアトラが作ってくれた紐を体に巻くと、そのままぶらんと、シャタクからぶら下がる形になった。
じっとイイーキルスを見つめると、氷山の頂点にある、鋭角的な氷解が崩れ落ちるのが見える。
姿を現したのは、巨大な白い蛆だ。その顎は三叉に割れ、牙と赤い口腔が覗く。蛆の背中には巨大な虫の羽があり、奴は咆哮をあげると、羽を高速で羽ばたかせ始めた。
「来ますぞ!」
イブの声が合図だった。
瞬間、白蛆の姿が消える。
それはあっという間に守の目の前まで現れ、白い光を纏いながら強烈な体当たりをしてきた。
「うおっとおおおおお!!」
守はがっちりと、自分の五倍はある巨体を受け止める。
少し遅れて、衝撃波が届いた。
どうやらこの邪神、超音速で飛ぶらしい。しかも、その質量を活かしたぶちかましはとんでもない威力である。守だから受け止められたものの、その衝撃でシャタクが体勢を崩しつつある。
守は背後の空間に無形の落とし子を展開して吹き飛ばされるのを防ぐが、ルリム・シャイコースは自由にならぬ敵の姿勢に気付いたようだ。
全身から白い炎を噴き出し、これを守の手から逃れる潤滑剤のように使う。
守の手を氷が覆おうとするが、これは大気の水分が凍結したもの。邪神を凍らせる力は無い。
「こんのっ、暴れるな!」
守は体を覆う氷を一息で砕きながら、振り上げた拳で組み付いた白蛆を殴った。
肉の一部が大きくひしゃげ、爆散する。白蛆の邪神は金属が擦りあわされるような絶叫をあげた。
一際大量の白い炎が漏れる。
「うわっ」
ずるりと、ルリム・シャイコースは守の束縛から外れた。
そのまま、凄まじい速度で海側へ遠ざかっていく。
「ううっ、申し訳ありませんマモル様! この状態だと、追跡できません!」
周囲には、強烈な乱気流が発生している。
足元のムー・トゥーランは氷に覆われ、見渡す限りの海もまるで北極の海。
体勢が崩れたシャタクは、籠を支えるのに手一杯だった。
並みの飛行機などなら、錐揉み落下しているような空の状態である。
「あれは、空で相手をするのはだめだなあ……。速過ぎるし、捉えられないや。掴まえてもああやって逃げてしまう」
守は呟いた。
一撃。真っ向から本気で一撃浴びせれば倒せる。そのためには……。
「足止めをして、地上か……そうじゃなきゃ、宇宙で叩く」
ルリム・シャイコース撃破作戦が幕を開けた。