私がいなくても国は回るそうなので、悪役令嬢は王都を去ります
一 断罪の夜
「リディア・フォン・エルヴァルト。お前との婚約を、今この場をもって破棄する!」
王立学園の卒業記念舞踏会。
燦然と輝く大広間の中央で、第一王子アルフォンスは高らかに宣言した。
楽団が演奏を止める。
談笑していた貴族たちは、一斉に口を閉ざした。
シャンデリアの光を浴びながら、令嬢たちの扇がわずかに持ち上がる。その陰で好奇心に満ちた瞳が光っていた。
この場にいる誰もが、待ち望んでいたのだろう。
完璧な公爵令嬢の失墜を。
アルフォンスの隣には、桃色の髪をした少女が立っていた。
男爵家の令嬢、ミレイユ・ローナ。
彼女は真珠のような涙を浮かべ、アルフォンスの腕にすがっている。
「殿下……どうか、わたしのために争わないでください。リディア様にも、きっと事情があったのです」
震える声。
控えめな言葉。
だが、その身体はアルフォンスから決して離れようとしない。
リディアは二人を静かに見つめた。
深い藍色のドレスには、王家を象徴する金糸が織り込まれている。銀色の髪は一筋の乱れもなく結い上げられ、夜空のような青い宝石が耳元で揺れていた。
この日のために、半年かけて用意させた衣装だった。
将来の王妃として王子の隣に立つ、最後の学園行事。
そのはずだった。
「婚約破棄の理由をお聞きしてもよろしいでしょうか」
リディアが問うと、アルフォンスは眉を吊り上げた。
その落ち着いた態度が気に入らないのだろう。
彼は幼い頃からそうだった。
リディアが泣けば面倒だと言い、泣かなければ冷たい女だと言った。
意見を述べれば生意気だと怒り、黙っていれば自分を見下していると責めた。
何をしても、彼の望む答えにはならなかった。
「まだ白を切るつもりか」
アルフォンスは懐から数枚の紙を取り出した。
「お前はミレイユに嫌がらせを繰り返した。彼女の教科書を破り、階段から突き落とし、温室に閉じ込め、さらには毒まで盛ろうとした!」
広間にどよめきが広がった。
ミレイユが小さく息をのみ、顔を伏せる。
「違うのです、殿下。毒の件は、きっと何かの間違いです。リディア様がそこまでなさるはずがありません」
「優しい君は、まだ彼女をかばうのか」
「だって、わたしが殿下のそばにいたから、リディア様は不安になってしまっただけです。全部、わたしが悪いのです」
「君は何も悪くない!」
アルフォンスはミレイユを抱き寄せた。
広間のあちこちから、感嘆のため息が漏れる。
悲劇に耐える可憐な令嬢。
彼女を守る勇敢な王子。
そこへ立ちはだかる、冷酷な悪役令嬢。
筋書きはすでに完成していた。
「証拠はございますか」
リディアが尋ねると、アルフォンスは手にした紙を突きつけた。
「ここにある。すべて目撃者の証言だ」
「誰の証言でしょう」
「ミレイユの友人たちだ。伯爵令息のカイル、騎士団長子息のジェラルド、そして宮廷魔術師の弟子であるルーク。全員が、お前の行為を目撃している」
名を呼ばれた三人の青年が前へ出た。
アルフォンスの側近候補たち。
いつもミレイユを取り囲み、彼女のためなら授業も公務の訓練も放り出す者たちだった。
「わたしは、リディア嬢がミレイユ嬢の教科書を持ち去るところを見た」
カイルが言った。
「温室の扉の前に立っていたのも彼女だ」
ジェラルドが続ける。
「ミレイユ嬢の茶から検出された毒と同じ薬草が、リディア嬢の実習机から発見されています」
最後にルークが証言した。
リディアはゆっくりと三人を見渡した。
「それだけでしょうか」
「それだけ、だと?」
アルフォンスの顔が赤くなる。
「貴族令嬢を殺そうとしたのだぞ!」
「失礼いたしました。わたくしが確認したかったのは、罪状がそれですべてかという意味です」
「そうだ。お前は未来の王妃にふさわしくない。冷酷で、傲慢で、身分を盾に弱者を虐げる女だ!」
「承知いたしました」
リディアは裾をつまみ、優雅に一礼した。
「謹んで、婚約破棄をお受けいたします」
アルフォンスが言葉を失う。
ミレイユも顔を上げた。
広間に集まった者たちも、期待していた反応との違いに戸惑っている。
誰もが、リディアが泣き叫ぶと思っていた。
無実を訴え、アルフォンスにすがり、ミレイユを罵倒すると信じていた。
だが、リディアは笑っていた。
十年間、王子の婚約者として身につけた、非の打ちどころのない微笑みだった。
「ですが、殿下。一つだけ確認させてくださいませ」
「な、何だ」
「この婚約破棄は、国王陛下とエルヴァルト公爵家の許可を得た正式な決定でしょうか」
アルフォンスの表情がこわばった。
「王太子となる私の決定だ。父上も反対はなさらない」
「つまり、陛下の許可は得ていらっしゃらないのですね」
「婚約は当事者同士の問題だ!」
「いいえ」
リディアの声は静かだった。
それでも、広間の隅々にまで響いた。
「王族と公爵家の婚約は、両家による政治的な契約です。王家からは国王陛下、公爵家からは当主であるお父様の署名が必要となります。当事者であるわたくしたちに、独断で破棄する権限はございません」
「お前は私の決定に逆らうのか!」
「逆らっておりません。確かにお受けすると申し上げました」
「ならば、黙って罪を認めろ!」
「それは別の問題です」
リディアはアルフォンスをまっすぐ見つめた。
「婚約破棄には同意いたします。しかし、身に覚えのない罪まで認めることはできません」
「証拠があると言っただろう!」
「拝見してもよろしいでしょうか」
「往生際の悪い女だ」
アルフォンスは証言書を床へ投げた。
紙が舞い、リディアの足元へ落ちる。
彼女は屈まず、後ろに控えていた侍女を見た。
「エマ」
「はい、お嬢様」
茶色い髪の侍女が進み出て、床の紙を一枚ずつ拾う。
エマはすべてに目を通すと、無言でリディアへ渡した。
リディアは一枚目を読み、二枚目を読み、三枚目に目を通した。
そして小さくうなずいた。
「確かに興味深い証言です」
「ようやく認める気になったか」
「いいえ。あまりにも不自然なので、興味深いと申し上げたのです」
「何だと?」
「カイル・ベネット伯爵令息。あなたは十月十二日の午後四時頃、わたくしが東校舎でミレイユ様の教科書を持ち去ったと証言されていますね」
「そうだ。自分の目で見た」
「その日は王妃教育の一環として、わたくしは午後三時から六時まで王宮におりました。王妃様、宰相閣下、教育係の三名が同席されています」
カイルの顔から血の気が引いた。
「ジェラルド・ウォーカー騎士団長子息。あなたは十一月三日の正午、わたくしが温室の扉を施錠したと証言しています」
「ああ。間違いない」
「その日は学園祭でした。正午の鐘が鳴ったとき、わたくしは講堂で開会の挨拶をしていました。全校生徒と教師が証人です」
ざわめきが大きくなる。
ジェラルドは助けを求めるようにアルフォンスを見た。
「そしてルーク・アビントン様」
リディアは三枚目の紙を持ち上げた。
「わたくしの実習机から毒草が発見されたとありますが、その机を調べたのはどなたですか」
「ぼ、僕だ」
「教師の立ち会いは?」
「緊急事態だったから、そんな暇はなかった」
「薬草を鑑定したのは?」
「僕だ。宮廷魔術師の弟子である僕の鑑定を疑うのか」
「その薬草が保管されていた場所は?」
「発見後は、僕の研究室で厳重に管理していた」
「つまり、発見者、鑑定者、保管責任者が、すべてあなた一人なのですね」
ルークは黙り込んだ。
「そんなものは屁理屈だ!」
アルフォンスが叫ぶ。
「三人の証言がある。彼らがそろって嘘をつく理由などない!」
「ございます」
リディアは淡々と答えた。
「三名とも、ミレイユ様に特別な好意を抱いています」
ミレイユが肩を震わせた。
「リディア様、わたしは皆さんをお友達だと……」
「わたくしはあなたを責めておりません」
「でも……」
「今はお黙りください」
冷たい声だった。
その一言で、ミレイユは息を止める。
愛らしく潤んだ瞳が、初めて怯えを帯びた。
「それこそが、お前の本性だ!」
アルフォンスはミレイユをかばうように前へ出た。
「自分より身分の低い相手には、そうして高圧的に振る舞う。お前のような冷たい女を王妃にするわけにはいかない!」
「それでは殿下は、どのような女性を王妃に望まれるのですか」
「当然、ミレイユだ」
やはり、とリディアは思った。
予想していた答えなのに、胸の奥がかすかに痛んだ。
十年前。
八歳だったアルフォンスと初めて顔を合わせた日、彼はリディアの手を握って言った。
いつか立派な王になって、君を幸せにすると。
その約束を信じていた時期もあった。
王妃教育がどれほど厳しくても、彼を支えるためだと耐えた。
友人と遊ぶ時間を失っても、好きだった絵を描けなくなっても、国外へ出る夢を諦めても、王国のためだと思っていた。
しかし、彼が欲したのは共に国を背負う伴侶ではなかった。
自分を褒め、自分に甘え、自分の失敗を決して指摘しない人形だったのだ。
「ミレイユ・ローナ男爵令嬢を、次の婚約者になさると?」
「そうだ」
「彼女は王妃教育を受けておりません」
「これから学べばいい」
「外国語は?」
「通訳がいればよい」
「国家財政、外交史、領地経営、宮廷儀礼については?」
「お前は何が言いたい!」
「王妃とは、愛されるだけで務まる役職ではございません」
アルフォンスは鼻で笑った。
「お前がいなくても国は回る」
「さようでございますか」
リディアは微笑みを深くした。
「それを伺えて、安心いたしました」
彼女は首元へ手を伸ばした。
王家から贈られた、青い宝石の首飾り。
十歳の誕生日から、一度も外すことを許されなかったものだ。
リディアは留め金を外すと、それをアルフォンスへ差し出した。
「王家よりお預かりしていた品を、お返しいたします」
「待て。正式な手続きは後日だ」
「婚約破棄を宣言なさったのは殿下です」
「だが、お前には今後の処分がある。ミレイユへの謝罪も」
「謝罪はいたしません」
「まだ言うか!」
「わたくしが犯人だという証拠はございません。むしろ、提出された証言がすべて虚偽である可能性が高いと判明いたしました。これ以上お話がないようでしたら、失礼いたします」
リディアは一礼し、背を向けた。
誰も彼女を止められなかった。
人々の間に道が開く。
出口までの距離が、ひどく長く感じられた。
背後から嘲笑が聞こえる。
強がっているだけだ。
公爵家にも見捨てられる。
もう社交界には戻れない。
悪女にふさわしい末路だ、と。
リディアは振り返らなかった。
広間を出る寸前、ミレイユの声が追いかけてきた。
「リディア様!」
立ち止まる。
「わたし、リディア様を恨んでいません。いつか、きっと仲直りできますよね」
リディアは少しだけ横顔を向けた。
「仲違いをした覚えもございません」
それだけ告げて、扉の外へ出た。
扉が閉まる。
音楽も、ささやき声も、まばゆい光も遠ざかった。
薄暗い廊下で、リディアは大きく息を吐く。
「お嬢様」
エマが心配そうに声をかけた。
「大丈夫よ」
そう答えた直後、リディアの頬を一筋の涙が伝った。
自分でも不思議だった。
アルフォンスへの愛など、とうに消えたと思っていた。
それでも、十年という歳月が消えるわけではない。
努力も、我慢も、捨ててきた夢も戻らない。
泣いているのは、王子を失ったからではなかった。
王子のために費やした自分自身を悼んでいるのだ。
エマは何も言わず、白いハンカチを差し出した。
「ありがとう」
リディアは涙をぬぐった。
そして、もう一度だけ振り返った。
閉ざされた扉の向こうには、彼女を悪役に仕立て上げた者たちがいる。
彼らはまだ知らない。
リディアがどれほど多くの仕事を肩代わりし、どれほど多くの問題を事前に解決してきたのかを。
彼女がいなくても国は回る。
アルフォンスは、確かにそう言った。
「では、確かめていただきましょう」
リディアはつぶやいた。
「本当に、わたくしがいなくても国が回るのかどうか」
二 公爵家の決断
エルヴァルト公爵邸へ戻ったリディアを迎えたのは、父レオナードと兄ヴィンセントだった。
二人は夜着に上着を羽織っただけの姿で、玄関ホールに立っている。
舞踏会で起きた事件は、すでに早馬によって伝えられていた。
「リディア」
父が娘の名を呼ぶ。
いつも厳格なその顔に、深い心配が浮かんでいた。
「お父様。ただいま戻りました」
「怪我はないか」
「はい」
「侮辱されたか」
「それは、多少」
レオナードは拳を握りしめた。
「多少で済むか。王子は大勢の前で、我が娘を犯罪者呼ばわりしたのだぞ!」
「父上、まずは話を聞こう」
兄のヴィンセントが父をなだめる。
彼はリディアより五歳年上で、現在は公爵領の経営を任されている。
リディアは家族とともに応接室へ移動し、舞踏会で起きたことを説明した。
婚約破棄。
ミレイユへの嫌がらせ。
三人の虚偽証言。
そして、アルフォンスがミレイユを次の婚約者にすると宣言したこと。
話を聞き終えたレオナードは、無言で机を殴った。
分厚い木の天板が震え、置かれていたカップが跳ねた。
「王家との間に結ばれた契約を、何だと思っている!」
「殿下は、当事者同士の問題だとお考えのようです」
「愚か者め。婚約のために我が家が王家へ提供した資金が、どれほどになると思っている」
十二年前、王国は大規模な干ばつに見舞われた。
国庫は底をつき、王家はエルヴァルト公爵家から多額の融資を受けた。
その代わりとして持ち上がったのが、リディアとアルフォンスの婚約だった。
公爵家には王家との強固な結びつきが、王家には公爵家の財力と穀倉地帯からの支援が必要だった。
「婚約破棄を撤回させるおつもりですか」
リディアが尋ねると、レオナードは即座に答えた。
「まさか」
「お父様?」
「あの愚か者の妻になる必要などない。婚約は破棄する」
「しかし、国益が」
「娘の尊厳を踏みにじってまで守る国益に、何の意味がある」
レオナードは、リディアの前へ膝をついた。
幼い頃でさえ見たことのない姿だった。
「すまなかった」
「なぜ、お父様が謝るのですか」
「お前を王家へ嫁がせることが、家と国のためになると思っていた。幼いお前が泣いても、王妃教育は必要だと言い聞かせた。アルフォンス殿下がお前をないがしろにしていると知りながら、いずれ理解し合えると目をそらした」
父の声が震えている。
「私は父親である前に、公爵であろうとしすぎた」
リディアは唇をかんだ。
責めたい気持ちはなかった。
父が自分を愛していることは知っていた。
だからこそ、家のために耐えようと思ったのだ。
「顔を上げてください、お父様」
「リディア」
「わたくしも、自分の意志で王妃になろうとしていました。すべてを誰かのせいにするつもりはございません」
「それでも……」
「ですから、これからのことを考えましょう」
リディアは父の手を取った。
「王家との金銭契約を、すべて精査してください。婚約に付随して提供した資金、人員、物資を明確にし、契約に従って返還を要求します」
レオナードが目を見開く。
「本気か」
「はい。殿下は、わたくしがいなくても国は回るとおっしゃいました。でしたら、公爵家の支援がなくても問題ないはずです」
兄のヴィンセントが笑った。
穏やかな兄には珍しい、獲物を見つけた猛禽のような笑みだった。
「面白い。王宮に派遣している我が家の文官は七十三名。王都の食料流通を担う商会の六割は、公爵家の系列だ。騎士団へ貸与している馬は二百頭を超える」
「すべてを引き揚げれば、民が困ります」
「もちろん、いきなり止めたりはしない。正式な返還期限を定め、段階的に手を引く。それまでに王家が代わりを用意できれば何の問題もない」
「用意できなければ?」
「王子に責任を取ってもらう」
レオナードは立ち上がった。
その顔には、当主としての冷静さが戻っている。
「リディア。お前はどうしたい」
「王都を離れたいと思います」
「領地へ行くのか」
「いいえ。南の港町ルセリアへ」
「ルセリア?」
ヴィンセントが首をかしげる。
ルセリアはエルヴァルト領の南端にある小さな港町だ。
かつては大陸南部との交易で栄えたが、二十年前の嵐で港が損傷してから衰退している。
「以前、視察報告書を読みました。港を修復し、新しい航路を開けば、再び交易の拠点になります」
「簡単ではないぞ」
「承知しています」
「王妃になるはずだったお前が、辺境の港町で暮らすことになる」
「だからこそです」
リディアは窓の外を見た。
冷たい夜の向こうに、淡い月が浮かんでいる。
「これまでのわたくしは、王妃になるためだけに生きてきました。これからは自分の力がどこまで通用するのか、試してみたいのです」
父と兄は顔を見合わせた。
やがてレオナードがうなずく。
「分かった。好きにしなさい」
「ありがとうございます」
「ただし、護衛は連れていけ。資金も必要なだけ持っていくこと」
「お父様」
「これだけは譲らん。娘を守るのは父親の権利だ」
リディアは少し笑った。
「では、お言葉に甘えます」
その夜、彼女は自室へ戻った。
王子の婚約者として与えられた宝石や衣装が並んでいる。
どれも美しい。
けれど、その多くはリディア自身が選んだものではなかった。
王子の婚約者らしく。
未来の王妃らしく。
公爵令嬢らしく。
彼女の持ち物は、常に誰かの理想によって選ばれていた。
リディアは机の一番下の引き出しを開けた。
奥からスケッチブックを取り出す。
十三歳まで使っていたものだ。
そこには海辺の町や外国の船、見たこともない植物や衣装が描かれている。
いつか海を渡りたい。
幼いリディアが抱いていた夢。
王妃教育が始まってから、子どもじみた夢だと封じ込めたものだった。
「お嬢様」
部屋へ入ってきたエマが、荷造り用の箱を置いた。
「何をお持ちになりますか」
リディアはしばらく考えた。
「このスケッチブックと、動きやすい服を何着か。それから領地経営と貿易に関する本を」
「宝石や夜会服は?」
「必要ないわ」
エマはにっこり笑った。
「では、一番大きな箱はいりませんね」
「あなたも一緒に来るつもりなの?」
「もちろんです」
「ルセリアは遠いわ。王都のように華やかではないし、暮らしも不便でしょう」
「お嬢様がおいでになる場所が、わたしの勤め先です」
「でも……」
「それとも、わたしを置いていくおつもりですか」
エマは悲しそうに目を伏せた。
その仕草があまりにもわざとらしくて、リディアは吹き出した。
王子に婚約破棄を告げられた夜。
人生のすべてを否定されたはずの夜に、彼女は笑っていた。
何かが終わった。
けれど同時に、何かが始まろうとしていた。
三 王宮から消えた歯車
翌朝。
国王オズワルドは、息子が起こした騒動を知った。
そして、謁見の間に響き渡るほどの声で怒鳴った。
「アルフォンスを今すぐここへ連れてこい!」
第一王子は、ミレイユと朝食を取っているところを騎士に連行された。
昨夜の英雄的な気分が残っていたのか、父の前へ出ても堂々としていた。
「父上。お呼びでしょうか」
「貴様、リディア嬢との婚約を破棄したそうだな」
「はい。彼女は未来の王妃にふさわしくありません」
「誰の許可を得た!」
「私の結婚です。私が相手を選んで何が悪いのですか」
「国王である私の許可なく、他国の大使まで出席する舞踏会で、公爵令嬢を犯罪者と断定した。それが何を意味するか分かっているのか!」
「証拠はあります」
「その証拠とやらは、すでに虚偽だと指摘されたそうではないか!」
アルフォンスは顔をしかめた。
「リディアの詭弁です。彼女は頭が切れますから、証言者を言いくるめるくらい簡単でしょう」
「頭が切れるのは悪いことか」
「彼女は私を尊敬していません。何かにつけて私の間違いを指摘し、命令を訂正し、人前で恥をかかせるのです」
オズワルドは息子を見つめた。
「アルフォンス。先月、お前が隣国への書簡で国王の称号を間違えたことがあったな」
「昔の称号を書いただけです」
「その書簡を発送前に止めたのはリディア嬢だ。もし届いていれば、外交問題になっていた」
「それは……」
「騎士団の冬季予算を誤って削減し、兵士の食料が不足しかけたとき、予算案を修正したのも彼女だ。お前が洪水被害を受けた北部への支援を忘れたとき、公爵家から物資を手配したのも彼女だ」
「側近がしたことだと思っていました」
「すべてリディア嬢だ!」
アルフォンスは黙った。
国王は深く息を吐いた。
「今すぐエルヴァルト公爵家へ行け。謝罪して婚約破棄を撤回してもらえ」
「嫌です」
「何だと」
「私はミレイユを愛しています。リディアと結婚するつもりはありません」
「愛で国が治められると思っているのか!」
「リディアがいなくとも、国は回ります」
昨夜と同じ言葉。
オズワルドは目を閉じた。
息子が愚かだとは知っていた。
だが、これほどまでとは思っていなかった。
「分かった」
「父上?」
「ならば、お前の言葉を証明してみせろ」
国王は宰相を見る。
「本日より、第一王子が担当する予定だった公務を、すべて本人に任せる。これまでリディア嬢や側近が代行していたものも含めてだ」
アルフォンスは自信満々に胸を張った。
「お任せください」
その日の正午。
エルヴァルト公爵家から、正式な書状が届いた。
婚約破棄の受諾。
リディアへの侮辱に関する謝罪要求。
虚偽の罪状についての再調査要求。
公爵家が王家へ提供していた融資の返還要求。
派遣していた人材の召還。
提供物資の契約終了。
項目は百を超えていた。
返済期限は三か月後。
国王は書状を読み、真っ青になった。
一方、アルフォンスは理解できていなかった。
「金なら返せばよいでしょう」
「国庫に、それだけの余裕があると思うか」
「税を上げればよいのでは?」
宰相が頭を抱えた。
さらに翌日。
王宮で働いていたエルヴァルト公爵家出身の文官七十三名が、一斉に辞表を提出した。
彼らは長年、複雑な税務、外交文書の翻訳、地方との連絡を担っていた。
仕事の引き継ぎ期間は契約どおり一か月。
しかし、引き継ぐ相手がいない。
王宮の人事を任されていた高官は慌てた。
高い能力を持つ文官は、一朝一夕に育成できない。
その多くは公爵家が設立した学校で学び、公爵家の推薦で王宮へ入っていた。
同じ頃。
王都へ小麦を運んでいた商会が、契約満了を理由に取引量の縮小を申し出た。
軍馬の貸与契約も更新されない。
宮廷魔術師団が使用する希少な魔石も、公爵領の鉱山から供給されていた。
国王は連日、対応に追われた。
アルフォンスも大量の書類に向き合うことになった。
「こんなもの、担当者に任せればよい」
「担当者は昨日、辞職しました」
「別の者を雇え」
「適任者が見つかりません」
「では、宰相が処理しろ」
「私は国全体の案件で手一杯です。殿下の担当分は、殿下ご自身でお願いいたします」
アルフォンスは苛立ち、書類を机の端へ押しやった。
そこへミレイユが菓子を持って現れた。
「殿下、お疲れではありませんか」
「ミレイユ。君の顔を見ると癒やされるよ」
「根を詰めすぎるのは身体によくありません。今日は庭園を散歩しましょう」
「そうだな。書類など明日でよい」
翌日。
判断されなかった書類の中に、堤防修復の緊急承認書があった。
三日後、北部を大雨が襲った。
修復されなかった堤防が崩れ、三つの村が浸水した。
幸い死者は出なかったが、多くの家屋と畑が被害に遭った。
アルフォンスは国王に呼び出された。
「なぜ承認しなかった!」
「書類が多すぎたのです」
「緊急と赤字で書かれていただろう!」
「私一人に押しつけるほうが悪い!」
「これまではリディア嬢が一人で処理していた!」
アルフォンスは言葉を失った。
彼女が処理していたのは知っていた。
しかし、それは簡単な仕事だと思っていた。
冷たい顔で机に向かい、書類へ署名するだけ。
自分でもできると信じていた。
「被災地へ行け」
国王が命じる。
「何ですか」
「お前の判断が遅れた結果だ。自分の目で確かめ、村人に謝罪してこい」
「しかし、週末はミレイユと観劇の予定が」
国王は無言で息子を見た。
その視線に、アルフォンスはようやく口を閉じた。
四 海辺の再出発
リディアがルセリアへ到着したのは、婚約破棄から十日後だった。
馬車を降りた彼女の前に広がっていたのは、想像以上に寂れた町だった。
石畳はひび割れ、倉庫の壁は潮風で白く傷んでいる。
港には小さな漁船が数隻。
大きな商船が接岸できる桟橋は半分が崩れ、海鳥たちの休憩所になっていた。
通りを歩く人も少ない。
閉じた店の扉には、売却を知らせる札が掛かっている。
「これは、なかなかのものですね」
エマがつぶやいた。
同行した護衛騎士たちも不安そうだ。
町の入り口では、ルセリアの代官を務める老人が待っていた。
「ようこそお越しくださいました、リディアお嬢様。代官のモーリス・ベインです」
「出迎えに感謝します。さっそく町を案内してください」
「お休みにならなくても?」
「馬車の中で十分休みました」
モーリスは少し驚き、それから頭を下げた。
リディアはその日のうちに町を歩いた。
港湾施設。
市場。
漁業組合。
井戸。
診療所。
町役場。
孤児院。
一つずつ、自分の目で確かめる。
町の人口は全盛期の半分以下。
若者の多くは仕事を求め、王都や別の港へ移住していた。
最大の問題は、やはり港だった。
二十年前の嵐で海中に土砂が流れ込み、水深が浅くなっている。
大型船は座礁する危険があり、接岸できない。
港を直すには莫大な費用が必要だった。
「修復計画はなかったのですか」
「何度も領主様へ申請しました」
モーリスは申し訳なさそうに答えた。
「ですが、公爵領には他にも優先すべき事業が多く、王都との婚姻に関する費用もございましたので」
リディアは目を伏せた。
王家との婚姻に使われた費用。
つまり、自分のためにルセリアは後回しにされていた。
「港を修復します」
「しかし、お嬢様。費用が」
「私の個人資産を使います」
「よろしいのですか」
「宝石を身につけているより、港に変えたほうが役に立ちます」
王子の婚約者として与えられていた私物のうち、王家からの贈答品を除いたものはリディアの所有物だった。
ドレス、装身具、別荘、王都に持っていた土地。
それらを売却すれば、港の応急修復費は賄える。
しかし、単に修復するだけでは足りない。
商船が寄る理由を作らなければならない。
リディアは町役場の一室を借り、毎日遅くまで資料を読んだ。
海流。
特産品。
周辺諸国の関税。
既存の交易路。
他港の入港税。
彼女のもとへ、毎日のように町の人々が訪れた。
「港が直るって、本当ですか」
「工事はいつ始まるんです」
「また昔みたいに、船が来るんでしょうか」
不安と期待。
リディアは一人ひとりの話を聞いた。
ある日、漁師たちとの会合の最中に、一人の青年が役場へ入ってきた。
旅人らしい簡素な服装。
日に焼けた肌。
黒い髪と、灰色の瞳。
背は高いが、威圧感はない。
腰には長剣を下げている。
「会合中に失礼する」
青年は流暢な王国語で言った。
「港の責任者に会いたい」
「わたくしです」
リディアが答えると、青年は意外そうに目を見開いた。
「あなたが?」
「エルヴァルト公爵令嬢、リディアと申します」
「王子に婚約を破棄されたという?」
部屋の空気が凍った。
護衛が剣の柄へ手を伸ばす。
だが、リディアは手で制した。
「そのとおりです」
「ずいぶん率直だな」
「事実を否定しても意味はありません」
青年は少し笑った。
「気に入った」
「あなたのお名前を伺っても?」
「カイと呼んでくれ。船乗りだ」
「船乗りの方が、港にどのようなご用件でしょう」
「沖で船が損傷した。修理のために入港したいが、桟橋が使えないと言われた」
「申し訳ありません。ご覧のとおり、現在の港には大型船を受け入れる設備がありません」
「小型艇で資材を運べば、沖に停泊したまま修理できる。代わりに、こちらから船大工を貸そう」
「船大工を?」
「港を直すのだろう」
リディアはカイを見つめた。
「なぜ、ご存じなのですか」
「町に入れば誰でも分かる。住民がその話ばかりしている」
カイは机の上に広げられた図面をのぞき込んだ。
「この設計では、次に大嵐が来たらまた南側が崩れる」
技師が不快そうな顔をした。
「何を根拠に」
「潮の流れだ。ここへ防波堤を延ばせば、内側に土砂がたまる。入り口を北東へずらし、水路を二本に分けるべきだ」
「そんな方法は聞いたことがない」
「南方の港では一般的だ」
カイは紙を引き寄せ、迷いなく線を引いた。
その説明は具体的で、説得力があった。
リディアは技師を見る。
「検討する価値は?」
技師は悔しそうに図面を見つめた。
「あります。少なくとも、計算する価値は十分に」
カイは席から離れた。
「船大工を六人出せる。十日ほどなら手伝わせよう」
「対価は?」
「こちらの船の修理資材と食料。それから、港が完成した際の優先入港権を」
「あなたに、そのような契約を結ぶ権限があるのですか」
青年の口元に笑みが浮かんだ。
「ある」
リディアはしばらく考え、手を差し出した。
「分かりました。仮契約を結びましょう」
カイはその手を握った。
小さな傷がいくつもある、硬い手だった。
「交渉成立だ、公爵令嬢」
「リディアとお呼びください。今のわたくしは、港の再建責任者です」
「では、私もカイでいい」
王宮であれば許されない、身分を越えた呼び方。
けれど、不思議と不快ではなかった。
その日から、港の工事が始まった。
カイの船から降りてきた船大工たちは腕がよく、町の職人たちへ新しい技術を惜しみなく教えた。
カイ自身も工事現場へ出た。
リディアも毎朝港を訪れた。
「危険です、お嬢様」
エマは何度も止めた。
「現場を知らずに責任者は務まりません」
「ならば、せめてその靴はおやめください」
リディアは王都から持ってきた細いかかとの靴を見下ろした。
翌日、丈夫な革靴を買った。
ドレスの裾も短くした。
日傘を差すのをやめたため、白かった肌が少しずつ日に焼けていった。
王都にいた頃なら、令嬢らしくないと注意されただろう。
しかし、ここでは誰も笑わない。
町の女性たちは動きやすい服の縫い方を教えてくれた。
漁師たちは海の見方を教えた。
子どもたちはリディアを見つけると駆け寄ってきた。
最初は「公爵様のお嬢様」と呼んでいた者たちが、やがて「リディア様」と呼ぶようになった。
工事開始から一か月後。
最初の桟橋が完成した。
まだ中型船一隻が接岸できるだけの規模だったが、町中の人々が集まり、完成を祝った。
「成功したな」
隣に立つカイが言った。
「まだ始まったばかりです」
「少しくらい喜べばいい」
「喜んでいます」
「そうは見えない」
「では、どのようにすれば喜んでいるように見えますか」
「笑えばいい」
リディアは困った。
社交界で使う笑顔なら、いつでも作れる。
しかし、カイはそれを求めていない気がした。
桟橋の先で、子どもたちが歓声を上げている。
漁師たちが酒樽を開ける。
エマが町の女性たちと笑い合っている。
潮風が髪を揺らした。
リディアは目を細めた。
「これでよろしいですか」
「それは王宮用の笑顔だ」
「違いが分かるのですか」
「分かる」
カイは海へ向き直った。
「本当にうれしいときは、もう少し不格好でいい」
その言葉が胸に残った。
リディアはもう一度、桟橋を見た。
自分たちの手で造ったもの。
誰かに命じられた仕事ではない。
王子に褒めてもらうためでも、王妃にふさわしいと認めてもらうためでもない。
自分が必要だと思い、町の人々と相談し、完成させた。
胸の内から、温かいものが込み上げる。
今度こそ、自然に笑みがこぼれた。
「それだ」
カイが言った。
リディアは少し恥ずかしくなり、海へ顔を向けた。
五 偽りの聖女
一方、王都ではミレイユの評判が変わり始めていた。
婚約破棄直後、彼女は悲劇の令嬢として歓迎された。
第一王子の寵愛を受け、未来の王妃となる少女。
貴族たちは競うように贈り物を届けた。
茶会や夜会へ招待し、彼女の好みを聞き出そうとした。
ミレイユは幸せだった。
これこそ、自分が望んでいた生活だ。
美しい衣装。
大きな宝石。
誰もが自分を褒め、王子はどんなわがままもかなえてくれる。
しかし、その幸福は長く続かなかった。
王妃が、ミレイユを呼び出したのである。
「本日から王妃教育を始めます」
王妃は冷たい表情で告げた。
「結婚はまだ先ですが、あなたが王子の婚約者となるならば、必要な知識を学んでもらいます」
「でも、殿下は、わたしは今のままでいいと」
「王妃は王子の愛玩動物ではありません」
ミレイユの顔が赤くなった。
「愛玩動物だなんて、ひどいです」
「では、王妃としての資質を示しなさい」
授業は午前六時に始まった。
礼法。
歴史。
法律。
財政。
外交。
外国語。
舞踏。
音楽。
宗教儀礼。
慈善事業。
軍事の基礎。
一日の授業を終える頃、ミレイユは立っていることもできなかった。
「こんなの無理です」
三日目、彼女は泣き出した。
「リディア様は、これを毎日なさっていたのですか」
「八歳の頃からです」
教育係は淡々と答えた。
「最初から全部できたわけではありませんよね」
「もちろんです。ですが、リディア様が授業を途中で投げ出したことは一度もございません」
「わたしと比べないでください!」
ミレイユは教材を床へ落とした。
「わたしはリディア様とは違います。殿下は、ありのままのわたしを愛してくださっています」
「では、ありのままのあなたが王妃にふさわしいと証明してください」
「もう嫌!」
ミレイユは教室を飛び出し、アルフォンスのもとへ向かった。
アルフォンスは大量の書類を前に不機嫌そうに座っていた。
「殿下、助けてください」
「どうした、ミレイユ」
「王妃様がひどいのです。朝から晩まで勉強させて、少し間違えただけで冷たい目を向けるんです」
「母上には私から言っておこう」
「王妃教育なんて、必要ありませんよね」
アルフォンスは返事に詰まった。
以前なら、迷わず必要ないと答えていた。
だが今は、リディアが処理していた仕事の重さを理解し始めている。
「多少は学んだほうがよいかもしれない」
ミレイユが目を見開いた。
「殿下まで、わたしを責めるのですか」
「そうではない。ただ、私も忙しい。君に手伝ってもらえるなら助かる」
「わたしには無理です」
即答だった。
「難しい書類なんて読めません。殿下は王子様なのですから、家来に任せればいいじゃないですか」
その言葉は、かつてのアルフォンスなら心地よく感じただろう。
だが今は、無能な家来に任せた結果、村が水害に遭ったことを知っている。
被災地へ行った彼は、泥だらけの家と泣く住民を見た。
お前のせいだと罵られた。
リディアなら、こんな失敗はしなかった。
その考えが浮かぶたび、アルフォンスは苛立った。
「私は仕事に戻る。君も授業へ行け」
「殿下?」
「王妃になるつもりなら、必要なことだ」
ミレイユは唇を震わせた。
「リディア様がいなくなってから、殿下は変わりました」
「何?」
「前は、もっと優しかった。わたしのことだけを見てくれたのに」
「今は国に問題が起きているのだ!」
「それは、わたしのせいではありません!」
ミレイユは泣きながら部屋を飛び出した。
廊下で待っていたカイル、ジェラルド、ルークの三人が、彼女を取り囲む。
「ミレイユ、どうしたんだ」
「殿下が冷たいの」
男たちは口々に彼女を慰めた。
アルフォンスには公務がある。
だが、彼らにはまだ時間があった。
兵士の訓練を休み、授業を欠席し、家から与えられた仕事を放棄すれば。
「僕たちがいるよ」
カイルが言った。
「殿下が君を大切にしないなら、僕たちが守る」
ミレイユは涙をぬぐった。
その瞳の奥に、一瞬だけ冷静な光が浮かんだ。
「皆さんだけが、わたしの味方です」
その頃。
王立学園では、ミレイユに関する再調査が進んでいた。
教科書を破られた事件。
温室への閉じ込め。
毒草。
リディアの要求を受け、国王が設置した調査委員会が関係者から聞き取りをしていた。
最初に崩れたのは、教科書の件だった。
ミレイユの友人だった女生徒が証言した。
「ミレイユ様から頼まれたんです。教科書を処分してほしいって」
「理由は?」
「古くなったからと。でも、数日後にリディア様が盗んだと聞いて……怖くなって、言い出せませんでした」
温室の事件では、管理人が鍵の記録を提出した。
事件当日、予備の鍵を借りたのはジェラルドだった。
毒草は、宮廷魔術師団の在庫からなくなったものと同じだった。
在庫管理を担当していたのはルークである。
そして、ミレイユが毒を飲んだとされる日の診療記録には、こう書かれていた。
「毒物反応なし。軽度の腹痛。食べ過ぎによるものと思われる」
毒など、最初から盛られていなかった。
調査官は三人を個別に尋問した。
証言の食い違いを指摘され、最初にカイルが白状した。
「ミレイユが言ったんだ。リディア嬢に苦しめられていると。助けてほしいと」
「虚偽の証言を頼まれたのか」
「彼女は、少し大げさに伝えてほしいと言っただけだ!」
「なぜ従った」
カイルは顔を伏せた。
「好きだったからだ」
ジェラルドも同じことを言った。
ルークだけは最後まで否定したが、研究室から毒草が発見された。
三人の証言をもとに、ミレイユにも召喚命令が出された。
だが彼女は、王子の婚約者であることを理由に拒否した。
その態度が、さらに疑いを深めた。
六 海の向こうから来た王子
ルセリアの港には、少しずつ船が戻り始めていた。
リディアは入港税を一年間減額し、新規商人には倉庫を安価で貸し出した。
町の特産品として、海藻から作る保存食と、近隣の丘で栽培できる薬草に目をつけた。
漁師の妻たちが加工所を運営し、孤児院を出た若者を雇った。
公爵家の商会が販路を提供したことで、商品は王都だけでなく隣国へも売れた。
人口は増え始めた。
閉まっていた店が再び扉を開ける。
夕方になると酒場から音楽が聞こえ、広場では子どもが走り回った。
崩れかけていた町は、生き返ろうとしていた。
その中心にリディアがいた。
「また帳簿を見ているのか」
カイが執務室の窓から顔を出した。
「扉から入ってください」
「そのほうが早い」
「三階ですよ」
「船のマストより低い」
もう驚くことにも疲れ、リディアは帳簿へ視線を戻した。
「何かご用ですか」
「今夜、祭りがある」
「存じています」
「一緒に行こう」
「わたくしは忙しいので」
カイは机の上から帳簿を取り上げた。
「返してください」
「町の責任者が祭りに顔を出すのも仕事だ」
「夕方に挨拶をいたしました」
「挨拶だけで帰っただろう」
「まだ確認すべき支出が」
「エマ」
カイが扉へ呼びかける。
待っていたかのようにエマが入ってきた。
「はい」
「これを預かってくれ」
「かしこまりました」
エマは帳簿を抱えた。
「返しなさい、エマ」
「今夜は戻ってきません」
「あなたは誰の侍女なの?」
「働きすぎるお嬢様を休ませる、忠実な侍女です」
カイに手を引かれ、リディアは半ば強引に外へ連れ出された。
広場には色とりどりの布が張られ、屋台が並んでいた。
焼いた魚。
香辛料の効いた肉。
果実酒。
小さな楽団が陽気な曲を奏でている。
人々は輪になって踊っていた。
「王都の舞踏会とは、ずいぶん違います」
「嫌いか」
「いいえ。楽しそうです」
「踊ろう」
「この踊りを知りません」
「私も知らない」
「それでは踊れないでしょう」
「周りを見てまねればいい」
カイはリディアの手を取り、踊りの輪へ入った。
決まった型などない。
隣の人と手をつなぎ、音楽に合わせて回るだけ。
子どもが走り込み、大人たちが笑う。
何度も足を踏まれた。
リディアもカイの靴を踏んだ。
王宮の舞踏会なら、重大な失敗だ。
けれど、誰も気にしない。
「あなた、踊りが下手ですね」
リディアは息を弾ませながら言った。
「そちらもだ」
「わたくしは王宮舞踏なら完璧です」
「ここは王宮じゃない」
「そうでした」
曲が終わる。
リディアは笑っていた。
髪は乱れ、頬は赤い。
王宮なら決して見せなかった顔だった。
カイは彼女を見つめている。
「何ですか」
「いや」
「言いたいことがあるなら、はっきりおっしゃってください」
「きれいだと思った」
リディアは言葉を失った。
王都でも、美しいとは何度も言われた。
だがそれは、銀色の髪や整った顔、完璧な衣装を褒める言葉だった。
今の自分は、汗をかいて髪も乱れている。
「そういうことを、簡単におっしゃるものではありません」
「思ったから言っただけだ」
「女性を口説き慣れているのですか」
「まさか」
カイは苦笑した。
そのとき、祭りの入り口から兵士たちが入ってきた。
見慣れない紋章をつけている。
青い海を渡る白鷹。
南方の海洋国家、セレスタ王国の紋章だった。
兵士たちはカイの前へ進み、そろって膝をついた。
「カイゼル殿下。お迎えに上がりました」
広場の音が止まった。
リディアは隣の男を見る。
「殿下?」
カイは気まずそうに視線をそらした。
「説明する」
「ぜひ、お願いいたします」
町役場へ戻った二人は、向かい合って座った。
「私の本名は、カイゼル・セレスタ」
「セレスタ王国の第二王子でいらっしゃいますね」
「ああ」
「船乗りでは?」
「船には乗る」
「嘘ではないと?」
「全部本当だ。ただ、王子だと言わなかっただけだ」
リディアはこめかみを押さえた。
「なぜ身分を隠していたのですか」
「視察の途中だった。王族だと知られると、誰も本当の姿を見せない」
その気持ちは、少し理解できた。
公爵令嬢であるリディアの前でも、人は態度を変える。
さらに王族であれば、なおさらだろう。
「あなたの船に乗っていた船大工たちは?」
「セレスタ海軍の技術者だ」
「港の構造に詳しかった理由は?」
「我が国で港湾整備を担当している」
「優先入港権を求めたのは?」
「正式に交易港として使うつもりだったからだ」
リディアは目を閉じた。
カイの申し出によって、ルセリアは短期間で港を再建できた。
結果だけを見れば、感謝すべきだ。
しかし、身分を隠されていたことに腹が立つ。
それ以上に、彼をただのカイとして信頼し始めていた自分に腹が立った。
「お帰りになるのですか」
「兄が王位を継ぐことになった。戴冠式に出席しなければならない」
「そうですか」
「リディア」
いつもどおり名を呼ばれ、胸が痛む。
「話し方をお改めください、カイゼル殿下」
「変えるつもりはない」
「わたくしは他国の公爵令嬢です」
「私はあなたの友人だと思っている」
「友人に身分を隠すのですか」
カイは黙った。
リディアは立ち上がる。
「お見送りの準備をいたします」
「待ってくれ」
「失礼いたします、殿下」
その夜、リディアは眠れなかった。
翌朝、カイの船が港を出た。
町の人々が大勢、見送りに集まった。
リディアも責任者として桟橋に立った。
「世話になった」
カイはそう言った。
「こちらこそ、ご支援に感謝いたします」
「また来る」
「外交上のご用がございましたら、正式な書状をお送りください」
「まだ怒っているのか」
「怒っておりません」
「嘘だな」
「殿下に嘘つきとは言われたくありません」
カイは困ったように笑った。
そして船へ乗る前に、リディアの手を取った。
「必ず戻る」
手の甲へ口づける。
儀礼的な挨拶のはずなのに、その唇が触れた場所が熱を持った。
「次は最初から、本当の私として会いに来る」
リディアは返事をしなかった。
白い帆が海の向こうへ消えるまで、桟橋に立っていた。
七 王都からの召喚
婚約破棄から三か月。
王都の状況は悪化していた。
王家は公爵家への借金を返済できなかった。
税の引き上げを検討したが、干ばつから立ち直ったばかりの地方貴族が強く反発した。
公爵家の商会が取引を縮小したことで、王都の小麦価格は一・五倍に上昇した。
軍馬の不足により、騎士団の演習も中止された。
外交文書の翻訳が遅れ、二つの国との交渉が停滞している。
さらに、ミレイユの虚偽告発が明らかになった。
カイル、ジェラルド、ルークは罪を認めた。
三人とも学園を退学処分となり、家からも廃嫡された。
残るはミレイユ本人と、彼女をかばい続けるアルフォンスの処分だけだった。
国王は決断を迫られていた。
そんな中、セレスタ王国から使節団が到着した。
彼らが求めたのは、ルセリア港を用いた正式な交易条約。
王国にとって、喉から手が出るほど欲しい案件だった。
新たな交易路が開かれれば、関税収入が増える。
公爵家への借金も返済できるかもしれない。
しかし、セレスタ側は条件を提示した。
交渉責任者をリディア・フォン・エルヴァルトとすること。
国王はすぐに召喚状を送った。
だがリディアは、一度目の召喚を断った。
理由は、港の工事が忙しいため。
二度目も断った。
三度目の書状には、国王自らの謝罪文が添えられていた。
リディアは王都へ戻ることを決めた。
ただし、王家のためではない。
ルセリアの将来に関わる交渉のためだった。
五か月ぶりに見る王都は、以前と変わらず華やかだった。
しかし、よく見れば通りの店は値上げを知らせ、荷馬車の数も減っている。
公爵邸へ戻ったリディアを、父と兄が迎えた。
「日に焼けたな」
父の第一声だった。
「おかしいでしょうか」
「いや。健康そうだ」
兄は妹の服装を見て笑った。
以前のリディアなら、旅の後であっても豪華なドレスを着ていただろう。
今は濃紺の簡素な服に、歩きやすい靴。
髪も飾り立てず、後ろでまとめている。
「ルセリアの海藻加工品は、王都でも人気だそうだ」
「生産が追いついていません。次は加工所を増設する予定です」
「楽しそうだな」
「はい」
リディアは迷わず答えた。
父はその言葉を聞き、安心したように目を細めた。
翌日。
リディアは王宮へ向かった。
謁見の間には、国王夫妻、宰相、アルフォンス、ミレイユがそろっていた。
ミレイユは以前より痩せている。
愛らしい顔には疲れが浮かび、豪華なドレスも似合っていなかった。
一方、アルフォンスはリディアの姿を見た瞬間、立ち上がった。
「リディア」
「お久しぶりでございます、殿下」
リディアは臣下として礼をする。
かつての婚約者に対する親しさは、どこにもなかった。
「元気そうだな」
「おかげさまで」
「ルセリアで苦労していると聞いた。もう十分だろう。王都へ戻ってこい」
リディアは瞬いた。
「何のお話でしょうか」
アルフォンスは国王を見る。
国王は疲れた顔でうなずいた。
「リディア嬢。まず、息子の行いについて、国王として謝罪する。虚偽の告発により、そなたの名誉を傷つけた」
「謝罪をお受けいたします」
「そして、可能であれば、アルフォンスとの婚約を再び検討してもらいたい」
ミレイユが顔を上げる。
「陛下、そんな!」
「そなたは黙っていなさい」
「でも、殿下の婚約者はわたしです!」
「正式な婚約は結ばれていない。そなたには現在、虚偽告発への関与について調査が行われている」
「何もしていません!」
ミレイユはアルフォンスへすがった。
「殿下、わたしを信じてくださいますよね」
アルフォンスは答えなかった。
以前なら、迷わず彼女をかばったはずだった。
その沈黙に、ミレイユの顔がゆがむ。
アルフォンスはリディアへ向き直った。
「私は間違っていた」
広間が静まり返る。
「君の努力を理解していなかった。君がいなくなり、初めて気づいた。私は君を必要としている」
リディアは静かに聞いていた。
「これまでのことは謝る。だから、もう一度私の婚約者になってほしい」
「お断りいたします」
その答えは、あまりに早かった。
アルフォンスは愕然とする。
「なぜだ」
「理由が必要でしょうか」
「私は謝った!」
「はい」
「自分の過ちも認めた!」
「そのようですね」
「ならば、なぜ許さない!」
リディアは、かつて愛した男を見つめた。
彼は何も変わっていない。
自分が謝れば、相手は許すべきだと思っている。
自分が必要とすれば、リディアは戻ってくると思っている。
彼が欲しているのはリディアではない。
自分の失敗を片づけ、国を整え、王子としての自分を守ってくれる便利な婚約者だ。
「殿下は、わたくしを愛していらっしゃいません」
「そんなことはない!」
「では、わたくしの何がお好きですか」
アルフォンスは口を開いた。
しかし、言葉が出ない。
「わたくしの好きな色をご存じですか」
「青だろう。いつも青いドレスを着ていた」
「王家の色だから着ていたのです。わたくしが好きなのは緑です」
「それは……」
「好きな花は?」
「薔薇ではないのか」
「野に咲く白いリナリアです。好きな食べ物は? 趣味は? 幼い頃の夢は?」
アルフォンスは一つも答えられない。
「殿下が必要としているのは、王子の婚約者として働くリディア・フォン・エルヴァルトです。わたくし自身ではございません」
「結婚してから知ればいい」
「十年の時間がございました」
アルフォンスの顔から血の気が引く。
リディアは国王へ向き直った。
「陛下。わたくしは王家との婚姻を望みません」
「そうか」
国王は目を閉じた。
「無理を言った。許してほしい」
「交渉は、交渉として進めさせていただきます」
「感謝する」
そのとき、ずっと黙っていたミレイユが笑い出した。
「何よ、それ」
アルフォンスが振り返る。
「ミレイユ?」
「勝手すぎるわ。殿下の婚約者はいらない。でも、国の仕事はしてあげる。立派な人間のふりをして、皆に褒めてもらいたいだけでしょう?」
「ミレイユ様」
「あなたなんて、最初から全部持っていたくせに!」
ミレイユの声が広間に響く。
「公爵令嬢に生まれて、お金も才能も美しさもあって、王子の婚約者にも選ばれて! わたしがどれだけ頑張っても手に入らないものを、あなたは最初から持っていた!」
「だから、わたくしを陥れたのですか」
「あなたさえいなければ、わたしが選ばれると思った!」
アルフォンスが息をのむ。
「ミレイユ、何を言っている」
「殿下も同じでしょう? リディア様が嫌いだって言っていたじゃない。いつも自分を馬鹿にしているって。だから、少しくらい悪い噂を流してもいいと思った」
「毒の件も、お前が?」
「本当に毒を飲むつもりなんてなかったわ。お腹が痛いと言っただけよ。ルークが勝手に話を大きくしたの」
「教科書と温室は?」
「殿下が、かわいそうなわたしを守ってくれたから……」
ミレイユは泣いていた。
しかし以前のような美しい涙ではない。
顔をゆがめ、化粧を崩し、子どものように泣いている。
「誰かに愛されたかっただけなの。誰もわたしを見てくれなかった。お父様は息子しか可愛がらないし、お母様はわたしを高く売ることしか考えていない。だから、王子様に愛されたかった!」
リディアは彼女を見つめた。
哀れだと思った。
だが、同情だけで罪を消すことはできない。
「ミレイユ様。あなたが寂しかったことと、他人を傷つけたことは別の問題です」
「あなたに何が分かるの!」
「分かりません」
リディアは答えた。
「わたくしはあなたではありません。だから、あなたの苦しみをすべて理解できるとは申しません」
「だったら……」
「しかし、苦しいから誰かを罪人にしてよいということにはなりません」
ミレイユはその場に崩れ落ちた。
国王が騎士へ命じる。
「ミレイユ・ローナを拘束せよ。調査終了まで、北塔へ収容する」
「嫌! 殿下、助けてください!」
アルフォンスは動かなかった。
「殿下!」
ミレイユの声が遠ざかっていった。
扉が閉じる。
アルフォンスは呆然と立っていた。
リディアは何も言わなかった。
彼が選んだ結果だ。
そして、その結果を受け止めるのは彼自身でなければならない。
八 公開裁判
ミレイユたちの罪を裁くため、公開裁判が開かれた。
貴族を偽証によって陥れた罪。
王族を欺いた罪。
学園内での器物損壊。
毒草の不正持ち出し。
ただし、実際にリディアへ危害を加えた事実はなく、計画された犯罪も殺人を目的としたものではなかった。
判決は慎重に下された。
ミレイユは爵位を剥奪され、五年間、修道院で奉仕活動に従事。
カイルとジェラルドは廃嫡のうえ、三年間の鉱山労働。
毒草を持ち出し、虚偽の鑑定をしたルークには、魔術師資格の永久剥奪と七年間の労役。
彼らの家にも監督責任が問われ、罰金が科された。
そしてアルフォンス。
彼は虚偽の証言を確認せず、公の場でリディアを断罪した。
王族としての判断力を欠き、婚約契約を独断で破棄し、国政にも損害を与えた。
反対派は廃太子を求めた。
最終的に国王は、アルフォンスから王位継承権を剥奪した。
彼は北部の荒れた領地を与えられ、男爵として生涯その地の復興に当たることとなった。
「これが、私への罰か」
王都を去る日、アルフォンスはリディアへ面会を求めた。
公爵邸の庭。
かつて二人が幼い頃に遊んだ場所だった。
「罰と見るか、機会と見るかは殿下次第です」
「もう殿下ではない」
「失礼いたしました」
「君は昔から、そうだった」
アルフォンスは苦笑する。
「どんなときでも完璧で、正しくて、私より先を見ていた。私はそれが怖かった」
リディアは黙って聞いた。
「君の隣に立つと、自分が無能に思えた。だから、君を冷たい女だと思うことにした。ミレイユは私を否定しなかった。私が何をしても立派だと言ってくれた」
「心地よかったのでしょうね」
「ああ。だが、それは愛ではなかった。少なくとも、国を捨てても守りたいと思うほどの愛ではなかった」
アルフォンスは唇をかんだ。
「彼女が罪を認めたとき、私は何もできなかった。愛していると言ったくせに」
「人は、いつでも強くいられるわけではありません」
「君なら、彼女を守ったか」
「罪から逃がすことが守ることだとは思いません」
アルフォンスはうつむいた。
「君の言うとおりだ」
しばらく、風の音だけが流れた。
「北部へ行ったら、何をすればいいと思う」
「まず、住民の話をお聞きください」
「住民の?」
「領地について最もよく知っているのは、そこで暮らす人々です。そのうえで、水路と道路の状態を確認なさるとよいでしょう」
「君は、私を憎んでいないのか」
「憎んでおりません」
「許したのか」
リディアは少し考えた。
「許すことと、元に戻ることは違います」
アルフォンスは痛みをこらえるように笑った。
「そうか」
「いつか、ご自身の領地を誇れる日が来ることを願っています」
「君にそう言われると、本当にできるような気がする」
彼は背を向けた。
数歩進んでから振り返る。
「リディア」
「はい」
「すまなかった」
今度の謝罪には、以前のような見返りを求める響きがなかった。
リディアは静かに頭を下げた。
「どうか、お元気で」
二人が会ったのは、それが最後だった。
九 本当の求婚
セレスタ王国との交易交渉は順調に進んだ。
ルセリア港を共同交易拠点とし、両国の商船に対して税制面で優遇措置を設ける。
港の拡張費用は両国とエルヴァルト公爵家が分担する。
さらにセレスタの造船技術を導入し、ルセリアに造船所を建設することも決まった。
署名式の日。
セレスタ王国から、第二王子カイゼルが正式な使節として再びルセリアへやってきた。
今度の彼は、王族らしい白い礼装を身につけていた。
黒髪には銀の冠。
後ろには護衛兵と官僚が並んでいる。
港に集まった町の人々は、緊張して頭を下げた。
ただ一人、リディアだけは腕を組んで彼を見ていた。
「正式な書状を送った」
挨拶を終えたカイゼルが言う。
「ええ。確かに受け取りました」
「本当の名前も書いた」
「当然です」
「まだ怒っているのか」
「少しだけ」
「半年もたったのに?」
「半年で許されると、誰がお決めになったのですか」
カイゼルは笑った。
「ずっと会いたかった」
突然の言葉に、リディアは周囲を見る。
町の人々も官僚たちも、聞こえないふりをしている。
エマだけが満面の笑みを浮かべていた。
「外交の場で、そのような私的な話はお控えください」
「では、私的な場ならいいのか」
「そういう意味ではございません」
「夕方、時間をくれ」
「予定を確認します」
「空いています」
エマが即座に答えた。
「エマ」
「交渉責任者にも休息は必要です」
夕暮れ時。
リディアはカイゼルとともに、再建された桟橋を歩いた。
港には大小の船が並んでいる。
倉庫では荷下ろしが続き、商人たちの声が響いていた。
半年前には想像もできなかった光景だ。
「見違えたな」
カイゼルが言う。
「皆が努力してくれました」
「あなたが始めた」
「あなたの助けもございました」
「ようやく認めたか」
「感謝と怒りは両立いたします」
桟橋の先まで歩く。
目の前には、夕日を映した海が広がっていた。
カイゼルは懐から小さな箱を取り出した。
リディアは警戒する。
「何ですか」
「求婚に来た」
「聞いておりません」
「今、言った」
「国同士の話は?」
「兄王には許可を得た。あなたの父上にも話してある」
「わたくしには?」
「これから聞く」
彼は箱を開いた。
中に入っていたのは、豪華な宝石ではなかった。
銀色の台座に緑色の小さな石がはめ込まれた、簡素な指輪。
「緑がお好きだと、どなたから?」
「あなたの兄上から聞いた。最初は青い宝石を用意していたんだが、選び直した」
リディアは指輪を見つめた。
アルフォンスが知らなかった彼女の好きな色。
カイゼルは、それを知ろうとした。
「私は王位を継がない。自由に使える船団と、いくつかの港の管理権を持っている。結婚後、あなたがルセリアに残りたいなら残ればいい。セレスタへ来たいなら歓迎する。二つの国を行き来してもいい」
「王子妃としての仕事は?」
「もちろんある。だが、あなた一人に押しつけるつもりはない。私の仕事は私がする」
「わたくしが間違っていると思ったときは?」
「指摘する」
「あなたが間違っているとき、わたくしが指摘しても?」
「腹は立つかもしれない」
リディアは眉を上げた。
「そこは快く聞くとおっしゃるところでは?」
「嘘をつかないと約束した」
カイゼルは笑う。
「腹は立つかもしれない。だが、聞く努力はする。あなたにも、そうしてほしい」
完璧な誓いではなかった。
物語の王子なら、一生幸せにすると言うのかもしれない。
けれど、未来のすべてを保証することなど、誰にもできない。
カイゼルの言葉は不器用で、現実的だった。
だからこそ、信じられる気がした。
「一つ、条件がございます」
「何だ」
「この港の事業を続けること」
「分かった」
「わたくしの財産と権利を、結婚後も保持すること」
「当然だ」
「意見が対立した際は、身分ではなく根拠をもって話し合うこと」
「約束する」
「それから」
リディアは少し迷った。
「二度と、大切なことを隠さないでください」
カイゼルの表情が真剣になる。
「約束する」
彼は指輪を差し出した。
「私と結婚してくれるか」
リディアは海を見た。
幼い頃、絵の中に描いた景色。
一度は諦めた夢。
今、その海は目の前にあり、どこまでも続いている。
結婚をすれば、また誰かの人生に組み込まれてしまうのではないか。
そんな不安がないわけではない。
しかし、以前とは違う。
命じられた婚約ではない。
家や国のためだけに選ばれた道でもない。
自分で決められる。
断ることも、受け入れることもできる。
「はい」
リディアは答えた。
「あなたとともに歩いてみたいと思います」
カイゼルが彼女の指へ指輪をはめる。
少しだけ大きかった。
「サイズが合っていません」
「兄上から聞いた寸法どおりのはずだ」
「お兄様は、わたくしの指輪の寸法をご存じないと思います」
「失敗したな」
「最初から完璧にはいかないものですね」
「ああ」
二人は顔を見合わせ、笑った。
今度の笑顔は、不格好で、心からのものだった。
十 悪役令嬢のその後
一年後。
ルセリア港では、盛大な結婚式が行われた。
王都の大聖堂ではなく、海を見渡す丘の上。
参列したのは両国の王族、貴族、商人、漁師、職人、そして町の子どもたち。
リディアは真珠を縫いつけた純白のドレスを身につけていた。
けれど、長い裾も重い冠もない。
自分で選んだ衣装だった。
父レオナードは、娘の姿を見るなり泣いた。
兄ヴィンセントは笑いながら、その背中をたたいた。
エマは朝から何度も目元をぬぐっている。
「泣きすぎよ」
「お嬢様がお美しいので」
「化粧が落ちているわ」
「今日はわたしが主役ではありませんから、構いません」
「あなたも式に出るのよ」
「でしたら、お直しをお願いいたします」
リディアは笑い、エマの頬を布でぬぐった。
式の直前。
セレスタから一通の手紙が届いた。
差出人は、北部男爵アルフォンス。
彼は領地で水路を整備し、新しい麦の栽培に取り組んでいるという。
最初の収穫は失敗した。
二年目も半分が枯れた。
それでも住民たちと話し合い、来年も挑戦するつもりだと書かれていた。
最後には、結婚を祝う短い言葉が添えられていた。
リディアは返事を書いた。
収穫量を増やすため、公爵領で使われている農法の資料も同封した。
過去が消えることはない。
傷つけられた記憶も、失われた十年も戻らない。
それでも、人は過去だけでできているわけではない。
これから何を選ぶかによって、未来は変えられる。
ミレイユは修道院で暮らしていた。
最初の一年は、何度も逃げ出そうとしたらしい。
しかし今では、孤児たちに文字を教えているという。
刑期を終えた後、どのような人生を選ぶのか。
それは彼女自身が決めることだった。
鐘が鳴る。
式が始まる時刻だ。
リディアは丘の上へ続く道を歩いた。
その先にカイゼルが立っている。
緊張しているのか、いつもより表情が硬い。
「ずいぶん遅かったな」
「花嫁に対する最初の言葉が、それですか」
「待ちすぎて、他の言葉を忘れた」
「先が思いやられます」
「今ならまだ逃げられる」
リディアは海を見た。
港には色とりどりの船が並んでいる。
市場からは人々の声が聞こえ、遠くの造船所では、新しい船の骨組みが朝日を浴びていた。
かつて廃れた町。
彼女が自分の人生を始めた場所。
王子の婚約者でも、完璧な公爵令嬢でも、物語の悪役でもない。
ただのリディアとして、生きることを選んだ場所。
「逃げません」
彼女は答えた。
「これは、わたくしが自分で選んだ道ですから」
カイゼルが手を差し出す。
リディアはその手を取った。
二人は祭壇の前へ進む。
青い空。
白い雲。
祝福の鐘。
海から吹く風が、花びらを舞い上げた。
司祭が誓いの言葉を読み上げる。
リディアは隣に立つ男を見た。
完璧な王子ではない。
身分を隠し、指輪の寸法を間違え、ときどき窓から部屋へ入ってくる。
彼女も完璧な令嬢ではない。
働きすぎて周囲を心配させ、素直に気持ちを伝えることが苦手で、ときどき過去の失敗を思い出して眠れなくなる。
それでもいいのだ。
完璧でなければ愛されないわけではない。
役に立たなければ、そばにいてはいけないわけでもない。
リディアは、ようやくそのことを知った。
「あなたを、生涯の伴侶とすることを誓いますか」
司祭が尋ねる。
「誓います」
カイゼルが答えた。
リディアも微笑む。
「誓います」
参列者たちから歓声が上がる。
エマが泣き、父も泣き、兄は二人分のハンカチを用意していた。
祝福の花びらが降り注ぐ。
その日、悪役令嬢と呼ばれた女性は、王子に選ばれたからでも、妃の座を手に入れたからでもなく、自分で選んだ人生の中で幸せになった。
彼女を陥れた者たちは、それぞれの罪を背負った。
彼女を捨てた王子は、自分の愚かさと向き合った。
けれど、リディアの勝利は彼らの不幸ではなかった。
誰かを打ち負かすことでも、奪われた地位を取り戻すことでもなかった。
他人に決められた役から降り、自分の人生を自分自身の手へ取り戻したこと。
それこそが、彼女にとって何よりの勝利だった。
数年後。
ルセリアは大陸でも有数の交易港となった。
リディアはセレスタとの間を行き来しながら港を運営し、女性や平民も学べる商業学校を設立した。
王妃教育で得た知識は、今度こそ彼女自身が望む形で使われた。
カイゼルとの間には二人の子どもが生まれた。
長女は母に似て聡明で、父に似て恐れ知らずだった。
ある日、七歳になった娘が尋ねた。
「お母様は、昔、悪役令嬢だったの?」
どこで聞いたのかとリディアが尋ねると、娘は港の船乗りから聞いたと答えた。
悪い王子をやっつけ、国を救い、海の王子を捕まえた伝説の悪役令嬢。
話はずいぶん変わっている。
「王子をやっつけてはいないわ」
「じゃあ、悪役令嬢じゃないの?」
リディアは少し考えた。
「そうね。ある人たちにとっては、悪役に見えたのかもしれないわ」
「どうして?」
「自分たちの望むとおりに動かなかったから」
娘は首をかしげる。
「言うことを聞かないと、悪い人なの?」
「いいえ」
リディアは娘の髪をなでた。
「誰かの言うことを何でも聞く必要はないの。たとえ王子様でも、お父様やお母様でも、間違っていると思ったら話し合いなさい」
「話しても聞いてくれなかったら?」
「そのときは、自分で別の道を選んでいいのよ」
「お母様みたいに?」
「ええ。お母様みたいに」
窓の外には海が広がっている。
船が帆を上げ、水平線の彼方へ進んでいく。
どこへ向かうのか。
どの港へたどり着くのか。
出航したばかりの船には分からない。
けれど、進む方角は自分で選べる。
リディアは娘の手を引き、港へ向かった。
「今日は新しい船が完成する日よ」
「お父様も来る?」
「ええ。ただし、また窓から入ってきたら叱ってちょうだい」
「どうしてお父様は扉を使わないの?」
「お母様にも分からないわ」
廊下の先で、カイゼルが窓から顔を出した。
「二人とも、何を話しているんだ」
娘が駆け出す。
「お父様、扉を使って!」
カイゼルは困ったように笑った。
リディアも笑う。
もう、作り方を考えなくても自然に笑えた。
かつての彼女は、婚約を破棄された夜にすべてを失ったと思った。
だが、違った。
あの夜に手放したのは、他人から与えられた役目だけ。
その先には、失ったものよりも広い世界が待っていた。
海のように果てしなく。
どこまでも自由な未来が。
そして今日も、港から一隻の船が旅立つ。
誰かが決めた物語ではない。
彼女自身の物語を乗せて。
完




