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好きな人ができた彼に、私は最後まで気づかないふりをした

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/09/30

 直人に別れを告げる前に、私は一人で住む部屋を見に行った。


 帰り道、何度も鞄の中の間取り図を触った。


 六畳の部屋に、窓が一つ。洗濯機置き場は室内。案内してくれた人に頼んで、窓の幅まで測ってもらった。まだ申し込みもしていないのに、カーテンの長さを気にするのがおかしかった。


 今夜、直人に別れる話をするつもりだった。


 折り目のついた紙を見れば、帰ってから話すことまで決まってしまいそうで、鞄からは出せなかった。


 大学二年の春から付き合っている。二人とも社会人になって三年目。去年から同じ部屋で暮らしている。


 直人と出会ったのは、大学二年の春だった。学部は違ったけれど、共通の友達に誘われた集まりに二人とも来ていた。彼は遅刻してきて、空いた席が私の隣しかなかった。付き合い始めたあとで「助かった」と笑っていたけれど、あのとき私は隣に座られたことを覚えていなかった。


 五年以上も一緒にいると、覚えている場面が違うことにも慣れる。私が大事にしている旅行を直人は忘れ、直人は私が捨てたと思っていた映画の半券をまだ持っている。二人の記憶はいつも同じ形ではなかった。それでも話せば、だいたい同じ場所に戻れた。


 社会人になって帰宅時間が合わなくなったときも、直人は短い電話をくれた。同期に怒られた、会議で言葉が出なかった、駅でいつもの電車に乗り損ねた。そんな話を聞いているうちに私の方も今日の失敗を言えて、眠れた。去年一緒に暮らし始めたのは、もっと長く話していたかったからだ。


 彼が仕事帰りに初めて森さんの名前を口にしたのは、六月だった。


「新しい案件、森さんと一緒になってさ」


 その日は二人でコンビニの冷やし中華を食べた。森さんは資料を作るのが速いらしい。直人は自分の失敗談まで楽しそうに話して、私も笑った。


 それから森さんの名前が何度か出た。仕事の話だけだった。私も彼女のことを、直人の職場にいる頼れる人として覚えた。


 七月の終わりに、直人は私が聞く前に言った。


「今日、ちょっと遅くなる。森さんと資料詰めるから」


「分かった。ご飯、先に食べてるね」


「うん。ありがとう」


 あの日を境に何かが変わった、とは言えない。翌日にはいつもの時間に帰ってきたし、休日には一緒に洗濯をした。私が風邪をひけば、頼んでいないゼリーを買ってきた。


 ただ、夕飯の途中で「それでさ」と話し始めることが減った。仕事のことを聞けば答える。答えたあと、話が続かない。


 彼の笑い方を気にするようになったのは、金曜日の夜だった。


 最初のころは、彼が話さなくなった分、私がよくしゃべった。会社の先輩が同じマグカップを三つ持っていること。通勤路のパン屋が閉まっていたこと。直人はちゃんと聞いて、笑うところで笑った。私の話が終わると、食卓も静かになった。


 気まずさを埋めようとテレビをつけると、今度は彼が何か言い出しかけても聞こえない。音量を下げた日は、結局どちらも黙って食べた。話すことがないだけかもしれない。毎日一緒に暮らせば、こんな日もある。そう思うたびに、私たちにはこんな日が増えた。


 私が使い終えた皿を流しへ運ぶ間、直人はスマートフォンを見て笑っていた。私の方を向く前に画面を伏せた。隠した、と思ったけれど、テーブルを拭くためによけただけかもしれなかった。


「いいことあった?」


「ん? いや。仕事のやつ」


 直人は皿を受け取って、水を流した。


 私はそれ以上聞かなかった。聞けば済むことを聞かずに、一人で傷ついた。しばらくは、そう思っていた。


   ◇


 八月の第二土曜日、私たちは近くのホームセンターへ行った。


 洗剤と電球を買うだけの予定だったのに、直人が観葉植物の前で足を止めた。小さな鉢の葉を指でそっと持ち上げる。


「これ、置けるかな」


「窓際なら。直人、水やるの忘れるでしょ」


「そこは頼む」


「都合いいなあ」


 私たちは鉢を買った。その日の夕方、直人は古い雑誌を畳んで受け皿の下に敷いた。窓を開けると風で葉が揺れた。ほんの少し先の暮らしを、彼も考えているのだと思った。


 翌週、直人は同期の飲み会へ行った。日付が変わる前に帰ってきて、私を起こさないように着替えた。朝、テーブルには飲み会の会計を割ったらしいレシートが置いてあった。怪しいものは何もなかった。


 私が見つけようとしていたのは、たぶん証拠ではない。安心するための理由だった。


 九月の初め、仕事帰りの電車で温泉宿のサイトを開いた。


 大学を卒業するとき、直人と小さな旅行をした。社会人一年目は有休を合わせられず、二年目は引っ越しでお金が飛んだ。今年なら一泊くらいできる。


「十月、土日どこか空けられる?」


 帰宅した直人に聞くと、彼は冷蔵庫から麦茶を出し、予定を確認してからでもいい、と答えた。


「旅行?」


「うん。一泊だけ」


「そっか。来月ちょっと仕事が読めないから、また連絡する」


 彼はコップを洗って伏せた。


 以前なら、まず行き先を聞いた。海がいいとか、電車で行けるところがいいとか、行けないかもしれなくても何か言った。私は画面を閉じ、宿の名前を忘れた。


 直人の仕事が本当に忙しいことも知っている。旅行を断る自由だってある。その一言だけで別れを決めたわけじゃない。


 でも私は、彼が仕事の都合をつけられないことより、私と行きたい場所をもう思い浮かべないことが悲しかった。


 その夜、寝る前に聞けばよかった。


 森さんのこと、好きになったの。


 名前を出せば、ただの同僚だと笑われるかもしれない。そうしたら私は、笑われた自分を恥ずかしく思いながら、まだこの部屋で眠れる。


 もし違う答えが返ってきたら、明日の朝から何をすればいいのか分からない。


 私は目を閉じた。直人も隣で何も言わなかった。


 翌朝、直人が寝坊して、私が駅まで車で送った。助手席で彼は取引先へ電話をかけ、丁寧な声で到着が遅れると伝えた。電話を切ったあと、私に「悪い」と言った。


「間に合いそう?」


「たぶん。助かった」


 赤信号で止まると、直人がドリンクホルダーのコーヒーを私の方に寄せた。昨夜、私が買って冷やしておいたものだ。片手で受け取り、信号が変わるまで飲まずにいた。


 こういうことをする人だから、一つの疑いだけで別れ話を切り出せなかった。手を貸すことと、同じ相手を好きでい続けることは別なのだと、頭では分かっていたのに。


   ◇


 十月になる前の水曜日、会社の休憩時間に賃貸サイトを開いた。


 まだ別れ話もしていない人間が引っ越し先を探すのは、卑怯な気がした。画面を閉じて、午後の仕事をした。翌日の昼にまた開いた。


 職場から電車で二駅。築年数は古いけれど、洗濯機を室内に置ける部屋。家賃を見て、私の給料なら暮らせると分かった。思っていたより安心して、そのことがまたつらかった。


 週末に内見を予約した。


 予約したあと、友人の美咲に会った。大学からの友人で、直人のことも知っている。カフェに座ってしばらく仕事の愚痴を言い合い、私はスマートフォンの内見予約を見せた。


「別れたの?」


「まだ」


「一人で住みたいとか?」


「そういうわけじゃない」


 美咲はストローから口を離した。相手に好きな人ができたかもしれない、と私が言うと、彼女はすぐに怒らなかった。


「本人には聞いた?」


「聞いてない」


「じゃあ、違うかもしれないよ」


「うん」


 美咲の言う通りだった。違う可能性はある。私はその可能性に毎晩すがっていた。


「部屋を見に行って、それでも直人と暮らしたいと思ったら、帰って話す」


「話すなら、先に話してもいいんじゃない?」


「今、聞いて『何でもない』って言われたら、それ以上聞けない気がする」


 美咲は少し考えてから、自分のケーキを半分に切った。食べきれないから、と私の皿へ一切れ移す。


「内見が終わったら連絡して。帰り、電話くらいならできるから」


 彼女が答えを決めてくれなくて、ありがたかった。


 金曜日の夜、予約確認のメールが届いた。直人は久しぶりに早く帰ってきた。


「今日、俺が作るよ」


 冷蔵庫に残っていた野菜と豚肉で焼きそばを作った。二人で食べ、彼が少し焦がしたところを私がもらった。大学生のころ、学食で彼が苦手なピーマンを私の皿に寄せたことを思い出した。


 楽しかった時間は、消えない。


 だからこそ、今の彼に一つずつ確かめるのが怖かった。


「旅行のこと、ごめん。まだ予定分からなくて」


 直人が箸を置いて言った。


「うん。もういいよ」


「よくないよな」


「行き先も決めてなかったし」


 決めていた。宿を三つまで絞って、朝食の写真まで見ていた。


 直人は何か言いかけ、やめた。私も嘘を訂正しなかった。


 翌日の土曜日、彼が休日出勤している間に、私は部屋を見に行った。


 玄関のたたきが狭い。台所には二人で立てない。窓から見えるのは向かいの建物の壁で、駅までは思ったより歩く。案内してくれた人は、人気の物件だと言った。


 私はその言葉を半分しか聞いていなかった。六畳の真ん中に立ち、ここに自分の布団を敷くところを想像した。


 一人で眠るのが怖いと思った。


 一人で眠れる部屋を選べることにも、少しほっとした。


 申込用紙をもらって、返事は月曜までにすると伝えた。契約はまだしていない。


 建物を出て美咲へ連絡した。「見てきた。まだ決めてない」と送ると、「寒くない? 夜なら電話できるよ」と返ってきた。九月の日差しは強く、私は薄い上着を腕にかけていた。それでもその質問を読んだとき、急に歩く速度が落ちた。


 帰りの電車では直人との写真を見た。引っ越した日に床へ座って食べたピザ。お互いの誕生日に撮った、背景がほとんど同じ写真。職場の人たちと行った花見。削除する気にはならなかった。今まで嬉しかったことを、今日のために嘘にしたくなかった。


 間取り図を鞄の一番内側にしまい、家へ帰った。


   ◇


「ただいま」


 直人は先に帰っていた。洗濯物を取り込み、ソファの背にかけている。


「おかえり。どこ行ってたの?」


「部屋を見てきた」


 鞄を肩に掛けたまま答えると、直人の手が止まった。


「部屋って」


「一人で住む部屋」


 窓際の植物が少し傾いていた。直人が水をやってくれたのだろう。私はまずそれを見て、洗濯物がしわになるから畳もう、と考えた。


 話さなければ。


「私、ここを出ようと思う」


 直人はソファに座らなかった。私も立ったままだった。


「急に、どうして」


 急ではなかった。彼にとっては急なのだと分かって、少しだけ腹が立った。


「最近、二人でいるのに、一人で待ってるみたいだから」


「そんなつもりは」


「うん。分かってる。わざとじゃないのも」


 分かっていると言い切れるほど、私は何も聞いていない。


 直人は洗濯物を畳み始めた。Tシャツの袖を折り、折り目を押さえた。大学のころは丸めて鞄に詰めていた人が、今は私よりきれいに畳む。


「森さんのこと?」と私は聞いた。


 彼が顔を上げた。


 その顔を見て、私は初めて、自分がずっと答えを知っていたのだと思った。


「何も聞いてないよ。直人から」


「……ごめん」


 その謝り方で十分だった。私は彼のスマートフォンを見たことも、二人でいるところを見たこともない。彼が何をしたかは、まだ分からない。でも、何に謝っているのかは分かった。


「いつから?」


「はっきりしたのは、最近。森さんと何かあったわけじゃない。俺も、どうしたらいいか分からなくて」


「そっか」


「言わなきゃと思ってた」


 言ってほしかった。言ってほしくなかった。その両方を、私は何週間も抱えていた。


「私が気づかなかったら、まだ一緒にいた?」


「分からない」


 直人はそこで目をそらさなかった。私がずっと避けていた答えを、彼はようやく口にした。


「いつから気づいてた?」と直人が聞いた。


 私は鞄の中の間取り図を思い出した。窓の幅を測ってもらいながら、申し込まずに帰ることもできる、と何度も考えた。彼の心が離れていると感じた日も、そのたびに思い直していた。


「今日、部屋を見てから」


 嘘だった。


 直人を楽にしたかったのか、自分が何週間も黙っていたことを知られたくなかったのか、言ってからも分からない。


「ごめん」


「うん」


 許したわけではない。許さないと決めたわけでもない。今は、彼の返事を待ってここに住み続けないと決めただけだった。


「今日は、友達のところに行く?」


 直人が言った。私が出ていく話をしたのに、彼がそう聞くのがおかしくて、少し笑った。


「今日はここにいるよ。まだ荷物もそのままだし」


「そうだよな」


「明日、部屋の申し込みをする。引っ越すまでは、ちゃんと相談させて」


「分かった」


 急に他人のような話し方になった二人で、冷蔵庫にあるものを確認した。直人が炊飯器のスイッチを入れ、私は鞄をいつもの棚に置いた。


 夕飯はほとんど話さずに食べた。彼の分の皿も、いつもと同じ場所に置いた。


   ◇


 引っ越しまで三週間かかった。


 その間、私たちは家具を分け、家賃と光熱費を精算し、段ボールを買った。直人は森さんの話をしなかった。私も聞かなかった。


 新しい部屋の審査が通った日に、私はようやく美咲に電話した。彼女は「手伝いに行こうか」と聞き、私が断ると、「じゃあ終わったらご飯行こう」と言った。予定の日を決めるだけの電話がうれしかった。


 会社には住所変更の書類を出した。書類の同居人欄は最初から空白だったのに、書き終えるまで時間がかかった。昼休みには引っ越し業者から確認の電話が来た。社会人になって三年、仕事の手続きはだいぶ早くなったつもりでいた。自分の生活を動かす手続きは、どれも遅かった。


 ただ一度、直人が「もう一回、話せないかな」と言った。


「話ならしてるよ」


「そうじゃなくて。俺、ちゃんと考えるから」


 私は段ボールに貼るテープを切った。


「ずっと考えてたの、私も」


 直人は頷いた。引き止めてほしくなかったはずなのに、それきり何も言われないと寂しかった。


 引っ越しの日、窓際の植物をどちらが持っていくかで迷った。店で選んだのは直人で、水をやっていたのはほとんど私だった。


「直人が持ってて」


「いいの?」


「水やり、忘れないでね」


「忘れない」


 玄関で靴を履いた。私の後ろには、まだ何度も帰ってきた部屋がある。直人がドアを開け、私が箱を持って先に出た。


「奈緒」


 振り向くと、彼は箱の底が抜けないよう手を添えた。


「重いから、下まで運ぶ」


「ありがとう」


 エレベーターでは二人とも階数表示を見ていた。別れの言葉を用意していた気がする。でも建物を出ると引っ越しの車が待っていて、運転手さんが荷台を開けた。箱を渡すと、直人は手を離した。


「じゃあ、行くね」


「うん。気をつけて」


 荷物を積んだ車を見送り、私は自分の車に乗った。走り出してから泣いた。バックミラーに直人の姿が見えなくなっても、すぐには止まらなかった。


   ◇


 新しい部屋の窓には、まだカーテンがついていない。向かいの建物の明かりが見えるので、今夜中に取り付けるつもりだった。


 引っ越し初日の夜、疲れて夕飯を作る気になれず、駅前でおにぎりを買った。テーブルはまだ届いていないから、段ボールの上に袋を置く。


 直人に写真を送ろうとして、やめた。この部屋に着いたことを、最初に知らせる相手が彼でなくてもいい。


 母に「無事に着いた」とだけ送ると、すぐに「ご飯食べた?」と返ってきた。私はおにぎりの写真を撮って送った。


 明日の朝は足りない洗剤を買う。昼には近所を歩いてみたい。どんな店があるのか、まだ知らない。


 母から「カーテンはつけた?」と返事が来た。引っ越しのたびに、最初にそれを聞く人だ。


「今つける」


 そう送って、段ボールから包みを出した。内見の日に測ってもらった窓の幅を見て、自分で選んだカーテンだった。


 踏み台がないので椅子を窓際へ運ぶ。フックを一つ掛けるたびに、布の向こうの明かりが少しずつ見えなくなった。


 最後の一つがうまく掛からず、椅子の上でやり直した。下りて部屋の中から見ると、窓の向こうはもう見えない。私は段ボールの前に座り、おにぎりの袋を開けた。


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