最終章 今度の人生では、我慢しません
その夜、燈火商会の二階で、三人は遅くまで仕事をしていた。
数字が合わなかったのは、荷札の書き間違いだった。半刻で片づいた。片づいてからも、三人はなんとなく机の前に座っていた。
「ねえ」
デボラが、口を開いた。
「あなたたち、さっきのやりとり、変だと思わなかった?」
「どのあたりが」
「あの人、私たちが何をしてるか、一回も聞かなかったわよ」
セレナは、うなずいた。
「はい。気づきました」
「三年半よ。三年半会ってなかった相手に、まず聞くことがあるでしょう。元気だったかとか、何してたのかとか」
デボラは、ペンを回した。
「戻ってこい、しか言わなかったわ」
「あの人にとって、わたくしたちは、屋敷にいるかいないか、だけなのだと思います」
「屋敷の外にいる私たちは、存在してないってことね」
「はい」
デボラは、少し笑った。
「じゃあ、私たち今、あの人にとって死んでるのと同じね」
「そうかもしれません」
「せいせいするわ」
ハロルドが、帳面から顔を上げた。
「二人とも、ようやるわ。わし、あの場でよう黙っとったと思うで」
「何か言いたかったのですか」
「言いたかった」
彼は、ペンを置いた。
「せやけど、わしが言うたら台無しやろ。あれは、あんたら二人の場面や」
セレナは、彼の顔を見た。
「ありがとうございます」
「礼はええ」
ハロルドは、また帳面に目を戻した。
「それにな、あの人、わしのこと最後まで見てへんかったで」
「そうでしたか」
「うん。店の人間やと思たんやろな」
彼は、笑った。
「まあ、店の人間やけど」
◇
窓を閉めに立ったとき、セレナは通りを見下ろした。
夜の鍛冶通り。街灯が並んでいる。まだ何軒か、灯りのついた工房がある。荷車を引く音が遠くで聞こえた。
三年半前、この坂を鞄ふたつで降りてきた日のことを思い出した。
あのとき、この街はもっと暗かった。火の熾し方も知らなかった。宿代を三倍取られて、硬いパンを買って、それでも「自分で決めた」ということだけが嬉しかった。
前世で、自分は四十三年生きた。そのうち二十年を、我慢することに使った。
いつか何とかしようと思っているうちに、いつかは来なかった。
今世で、自分は公爵夫人を二年やった。同じことを繰り返しかけた。
馬車が横転して、頭を打って、三日眠って、目が覚めて。それでようやく、気づいた。
――人生は、こちらが決断するまで待ってはくれない。
「セレナ」
ハロルドの声で、我に返った。
「はい」
「なに見とるん」
「街灯です」
「ああ」
彼も窓のそばに来た。デボラも、帳簿を置いて立ち上がった。
三人で、しばらく通りを見ていた。
「ねえ」
デボラが言った。
「この灯り、私たちのおかげってことにしていいのかしら」
「よくないと思います」
「なんでよ」
「作ったのは職人さんたちですし、灯りをつけているのは市ですし」
「かたいわねえ」
「せやけど、ちょっとは関係あるやろ」
ハロルドが、あっさり言った。
「三本に一本が、今は全部点いとる。関係ないことはない」
「そうよ。少しくらい威張っていいのよ」
セレナは、二人を見た。それから、もう一度通りを見た。
「……はい。少しだけ」
そう言うと、二人が笑った。
◇
その夜、家に帰る道で、ハロルドが言った。
「セレナ。ひとつ聞いてええか」
「はい」
「もし、あの人が三年半前に離婚を断り続けとったら、あんたどうしとった」
セレナは、少し考えた。
「出ていったと思います」
「離婚せんまま?」
「はい。書類がなくても、出ていくことはできますから」
「そら、無茶やな」
「無茶ですね」
セレナは、笑った。
「でも、待っていたら、また同じでしたので」
ハロルドは、うなずいた。
「あんた、ほんまに待たん人やな」
「待ちました。前は、ずっと」
セレナは、夜の道を歩きながら言った。
「待って、待って、何も来ませんでした。だからもう、待たないことにしたのです」
ハロルドは、それを屋敷での二年のことだと受け取ったはずだ。半分は合っている。
残りの半分は、たぶん一生言わない。
ハロルドは、しばらく黙って歩いていた。それから、こう言った。
「わし、あんたのそういうとこ、ええと思うで」
「ありがとうございます」
「照れへんのか」
「照れています」
「顔に出てへんで」
「出ています」
実際、耳が熱かった。夜だから見えないだけだ。
◇
家に帰ると、机の上に手紙が置いてあった。
差出人はリタだった。あの娘は、あれから公爵邸を辞めて、故郷の村に戻り、そこで結婚したという。年に二度ほど手紙が来る。
今回の手紙には、村に燈火商会の魔道具が入った、と書いてあった。
――村の集会所に、セレナ様の作った照明がつきました。
――村のみんなは、これが誰の作ったものか知りません。
――でも、わたしは知っています。
――火も熾せなかった人が作ったんですよ、と言いたくてたまりませんが、我慢しています。
セレナは、その一行を読んで、声を出して笑った。
「なんや」
「リタからです。我慢していると書いてあります」
「なんの話や」
「わたくしが火を熾せなかった話です」
セレナは、手紙を畳んだ。
「今度、返事に書きます。我慢しなくていいですよ、と」
◇
寝る前に、セレナは棚の一番上に置いてある箱を開けた。
中には、二つのものが入っている。
ひとつは、角が丸くなった火打石。リタがくれたものだ。三年半前の朝、玄関先で握らされた。今はもう使わないが、捨てる気にはならなかった。
もうひとつは、魔石一個で十九日もつ湯沸かしの試作品。売れなかったほうだ。ハロルドが「時期が来る、取っとけ」と言ったもの。
あれからずいぶん経つが、まだその時期は来ていない。
セレナは、それをしばらく眺めてから、箱を閉じた。
いつか、来るだろう。来なくてもいい。
どちらでも、自分で決められる。
燭台の火を消して、寝台に入った。
隣で、ハロルドがもう寝息を立てている。この人は横になって十を数える前に眠る。うらやましいと思ったこともあるが、最近は、そういうものだと思うことにした。
セレナは、その背中に額を寄せた。上着を脱いでも、この人はまだ少し埃と油の匂いがする。工房の匂いだ。
前世で、四十三年かけて一度も自分で決めなかった人生があった。
今世で、二年間何も言わずに過ごした日々があった。
今は、明日やることを自分で決めて眠る。隣に、自分で決めた人がいる。
それだけのことが、こんなにいいものだとは思わなかった。
目を閉じる前に、セレナは小さく口の中で言った。
――今度の人生では、我慢しません。
言い終わって、少し笑った。
「……なんや」
寝ていると思っていた声が、背中越しに返ってきた。
「起きていらしたのですか」
「今起きた。笑う声で」
「すみません」
「ええけど。なに笑うとったん」
「内緒です」
「なんやそれ」
ハロルドは、それ以上聞かなかった。かわりに、寝返りを打って、セレナの頭に手を置いた。そのまま、また寝息が聞こえてきた。
もう、我慢していなかった。
〈了〉




