赤い押し花
深夜。
今日と明日の境がわからなくなる。
床に倒れて、思慮にふける
健全な人としての輪郭は削れてしまった。
自分の中身は子供の姿かと思っていたが、中身は液体だった。
輪郭が削れると同時に中身が漏れ出た。
拾い集めるにも、手から零れ落ちる。
あぁ、小学校の着衣泳だ
あの感覚がまとわりつく
中身もないのにその感覚は確かだ
猿のままで良かった。
知識は人を海に連れて行った。
泳ぎ方も知らないまま。
私は未だ溺れ続けている。
人が泳ぎを覚える中
私は沈む。
深海生物。
あぁ、いいな
私のような見た目だ。
光などいらない。
ただ、目をくれ。
闇を見る目を。
耳をくれ。
闇の中澄ます耳を。
足はいらない。
手もいらない。
顔のみ残してくれ。
闇の中から声が聞こえる。
「おい、だったらやめちまえよ。
結局、意気地なしだな」
あぁ、頭がいらない。
この脳を取り出してやりたい。
手や足なら切れたが
脳は別だ。
顔は必要だ。
なるべく傷はつけたくない。
何かこいつを壊す方法は…
そういえば、奇書なんてものがあったか。
一つ手段として見るか。
朝の様子は一段と気持ちが悪い。
私の顔は崩れ、気分までにも崩壊が及ぶ。
私は顔に潤いを与え、洗い落とす。
素晴らしい。
この時が一番心地がよい。
鏡の中には、男とも女ともつかぬ、ただ美しいだけの生き物がいる。
このまま性別などという檻から抜け出し、永遠の乙女のように在りたい。
男性としての骨格、髭の剃り跡、そういった「雄」の気配が私は何より恐ろしい。
母よ、父よ。
よくぞ私をこのように曖昧につくったな。
鏡の中の私は、今日も完璧な造作を保っていた。だが、まばたきをするたびに、あるいは口角がわずかに動くたびに、
その完璧さが「ゆらぎ」に晒されるのが耐え難い。生身の肉体は、いつだって崩壊の予感を孕んで蠢いている。
私は、この美しさが永遠に保たれる方法を、まだ知らない。
さて、奇書とやらを手にするか。
私は書店というものの場所を知らない。
よって、まずは歩くのみか。
人に貰った整った服と
この容貌で私は外に出る。
外の景色はなんともつまらない様だ。
夢の方が遥かに面白い。
少し遠くへ行こうか。
知らない街並みに飛び込むというのはやはり、面白い。
歩いている内に、一つの喫茶店が見えた。
店の中を覗くと、どうやら客は多いらしい。
まだ何も食べていなかったか。
一つ入ってみよう。
店の中はいかにもな様子だ。
喫茶というのはつまらないものだ。
モダンだとでも言うのか?
貴族のフリのようで大層なものだ。
カウンターに座り、メニューを眺める。
すると、若いウェイターが目の前を通った。
彼女は、私が喉から手が出るほど欲している「それ」を持っていた。
白く陶器のような肌、長い睫毛、女性的な喉仏。
なんて滑らかで、美しい線なのだろう。
私が毎朝、厚く塗り固めてようやく作り出す「美」を、彼は天然のままで持っている。
妬ましい。憎らしい。
その顔を剥ぎ取りたい衝動を抑えるため、私は彼を別の生き物に貶めることにした。
人間のままでは直視していられない。
「ようし、君は犬だ」
私の言葉で、彼の美しい人間としての尊厳は消え失せ、従順な犬へと変わる。
これなら直視できる。
「注文をいいかい?
ナポリタンを一つ。」
こうして見ると、やはり美しい。
私は犬の顔にそっと手を触れる。
「なんとも可愛らしい」
その若さが憎い。
すると、犬は目を丸くし、さらに尻尾を激しく振る。
「一つ、うちまで持って帰りたい。」
犬はしばらく動きを止めた後、何も言わずに急いで厨房の方へと戻る。
私はテーブルに届けられたナポリタンを平らげ、席を立つ。
すると犬が近づいてきた。
「これ、私の番号です。」
そういって小さな紙を差し出された。
そうではないんだ。
「どうも」
私は軽く笑顔を浮かべて答える。
余分な演技をさせないでくれ。
「一つ、伺いたい。書店はどこに?」
犬はメモの裏に地図を書いた。
私はそれを受け取り、店を出た。
あまり、こういうのも良くないな。
今までの彼女たちに面目ない。
長く一緒にいた女達もいたんだが、
どうにもつまらなくなってしまったな。
金を出してもらってばっかりだった。
地図に従い歩くと、駅が見えてきた。
駅に来るのは久しぶりだ。
どうにも空気が悪いし、人も多い。
駅前の百貨店は良く人と行くことがあったが、
やはり、1人で来るものではない。
百貨店のエレベーターに乗り込み、書店へと向かう。
さて、奇書というのはどこにあるか。
そう思っていたが、案外書店は面白い。
色々な本を見ている内に、時間は足早に過ぎていった。
本屋にいる間、私はずっと何か視線を感じていた。
だが、珍しいことではない。
私の容貌の為だろう。
少し道がそれ過ぎたか。
奇書というのを覗いていこう。
書店員に案内されて、ついに奇書に触れた。
だが、これが?本当に?
私は他の本も読んだ。
あらゆる狂気や奇行が記された書物。
そんなものですら、私のこのドロドロとした
液体を言い当ててはくれなかった
なんだか、興が冷めてしまった。
私はエレベーターに乗り込み、百貨店から外に出た。
すると、女がこちらへ近づいて来た。
見覚えがある。
そういえばこの服は…
この服を買わせたのは、去年の冬だったか。
彼女の泣き顔は、ひどく造作が崩れていて見苦しかった。
私が彼女から奪ったのは、金だけではなかったらしい。
女は書店の紙袋の中に手をいれる。
そして、カッターナイフを取り出した。
「普通の人」なら逃げるか、叫ぶかしただろう。
だが私は、その冷たい光を見た瞬間、心臓が跳ねるほどの安堵を覚えた。
私が「奇書」の中に求めていた答えが、今、彼女の震える手の中に握られている。
真の崩壊が。
瞬時に私の頬に鈍い痛みが走る。
私は生まれて初めて、自分の顔が確定したのを感じた。
あぁ、これだ。
皺が増えるよりも早く、重力に負けるよりも早く、私の時間はここで止まる。
ずっと皮膚の内側で濁っていた液体が、「赤い血」というドレスになって私を包み込む。
血のついた手を自身の顔へと伸ばし、
指をそっと引く。
あなたが私の最後を壊してくれた。
私は彼女の背中にそっと手を回す。
まるで踊りのように、そっと。
血はすぐに乾き、赤黒く浮かんだ。
あまりに美しい押し花だった。




