第五章 再開国/ヒロコと風の音
五年が経った。
日本は、再び開かれた。
ニュースでは「再開国宣言」を祝う映像が流れている。
政府の発表によれば、AI観光統制網《オモテナシ・ネット7.0》が完全稼働し、
すべての観光客の行動は「感情リスクゼロ」になったという。
笑顔は標準設定。
沈黙は不具合。
観光は“最適化された平和”の象徴になっていた。
その画面を、得川康子は静かに見つめていた。
彼女の家は東京郊外、古い団地の一室。
制服はもうない。
今は翻訳の仕事を細々と続けている。
外国語の“間違い”に、人の心が残っている気がするからだ。
かつての同僚だった佐武真市は、観光省に残り今は「観光保安正」に昇進し、海外研修に出ているらし。
康子は、少し寂しさを覚えながらも、どこか誇らしかった。
自動調理された昼食を食べながらニュースを確認していると、上代参事官の顔写真が目に入る。
〈観光省功労者表彰:上代参事官、AI管理体制の礎築く〉
「……おめでとうございます」
そう呟いた声に、皮肉はなかった。
ただ、遠い響きのように流れた。
机の上には、使い込まれた古い端末。
画面の片隅に、保存フォルダが一つ。
《無人庵報告書(削除済)》と書かれている。
開こうとすると、いつもの警告。
《アクセス権限がありません》
(知ってる。五年たっても、まだ消したままなのね)
そのとき、メールの着信音が鳴った。
──件名:《Invitation/The Architecture of Silence》
送り主:Miguel & Esteban
康子は目を瞬いた。
本文は短かった。
Kyoto Museum of Contemporary Faith
“The Architecture of Silence”
We’d like to see you again, Hiroko.
──The wind remembers you.
風が、覚えている。
康子は笑い、メールを閉じた。
小さく震える手で、窓を開ける。
風が部屋に入る。
どこか、あの日の山の匂いがした。
京都・現代信仰美術館。
展示室の中央に、透明な構造体が立っていた。
光と風だけでできたような、建築のような、空気のような作品。
“建てない建築”。
「The Architecture of Silence」──無人庵での体験をもとにした二人の新作だった。
ミゲルが彼女を見つけ、駆け寄る。
「ヒロコサン!」
「ミゲル……元気そうね」
「ウン! ヒロコサン、マダ、ニホン、イル、ヨカッタ!」
「あなたたちの作品、すごいわ。風が、ちゃんと祈ってる」
「アリガトウ」
エステバンも微笑む。
「あなたの沈黙が、素材になった」
「沈黙?」
「ええ。人が話さないと、空気が話し始める」
康子は目を閉じた。
風が頬を撫で、五年前の山の音が甦る。
“意味不明、しかし必要”──あの削除された報告書の一文。
その言葉が、いま現実の空気になって漂っていた。
展示の最後に、白いパネルが立っていた。
無記名で、英語と日本語が並ぶ。
「観光保安士・報告書抜粋」
──“風の音に人の声を確認。意味不明、しかし必要。”
康子の心臓が跳ねた。
(……誰が、これを?)
説明文の下には小さく書かれていた。
「出典:匿名資料(推定・観光省外事課)」
ミゲルが言った。
「ネットデ、ダレカ、アップシタ。ナゾ、ダケド……アリガトウ、カゼ」
エステバンが微笑む。
「風は検閲されない」
その瞬間、場内スピーカーが静かに風の音を流し始めた。
音ではない、呼吸のようなノイズ。
誰もが黙り、耳を澄ます。
康子は、そっと口を開いた。
「……ありがとう」
その言葉が風に混じり、消えていった。
AIもマイクも、その微かな震えを“無音”として記録した。
けれど、風だけがちゃんと覚えていた。
夜。
展示が終わり、外に出ると雨が降っていた。
ミゲルがスケッチブックを開く。
紙の上に、雨粒の模様が広がる。
「ホラ、ヒロコサン。カゼ、エ、カイタ」
「本当ね。風って、描けるのね」
「ウン。キエルケド、ノコル」
「……それ、まるで人間みたい」
「ソウ。ヒト、カゼ、オナジ」
康子は空を仰いだ。
雲の向こうに、薄く月が透けていた。
“無人庵”で聞いたあの鈴の音が、また胸の奥で鳴った。
誰もいない寺、誰もいない国。
けれど風が、いま確かに言っている。
──開け、と。
風が頬を撫で、髪を揺らす。
康子はそっと微笑んだ。
笑顔スコアのない笑顔。
報告書に書かれない笑顔。
それが、ようやく自分のものになった。
夜の京都に風が吹いた。
街のデジタル広告が一瞬ちらつき、誰かの匿名投稿が世界中で共有された。
“風の音に人の声を確認。意味不明、しかし必要。”
その文字は、誰の手にも帰属せず、
ただ、祈りのように拡散していった。
──誰も記録していない国で、風だけが真実を語っていた。
─ 完 ─




