第三章 奈良・鹿と仏のあいだで
職務停止が解かれた朝、得川康子は制服のボタンを留める手をしばらく止めていた。
同じ布地なのに、妙に重い。
AIがタグを読み取り、短く音を鳴らす。
《復職承認。勤務再開を祝福します──笑顔を忘れずに。》
冷たい機械音が、皮肉にも「おかえり」と聞こえた。
観光省の廊下は静かだった。
同僚たちは彼女を見ると一瞬だけ会釈し、すぐ視線を逸らした。
“AI誤判定事件”──そう呼ばれた事故の報告映像が内部研修教材になっていたからだ。
講義タイトルは《感情による判断遅延のリスク》。
主題は、彼女自身。
「おはようございます、先輩」
廊下の角で、佐武真市が立っていた。
背筋は相変わらず真っ直ぐだが、どこか顔つきが変わっていた。
硬さの奥に、迷いの影がある。
「おはよう。……懲りずにまだ残ってたのね」
「はい。僕は転んでも立ちますから」
「名言ね。人間らしくていいわ」
さぶは少し微笑んだ。
その笑顔に、康子はようやく自分の筋肉が緩むのを感じた。
京都で待機していたスペイン人の夫婦──エステバンとミゲル──は、観光省の“特例判断”で再び旅を許可された。
ただし同行保安士は“注意対象”。
つまり、監視付きの監視だ。
新幹線の車窓に、山が流れていく。
ミゲルが小声で言った。
「ヒロコサン、オカエリ」
言葉は拙いが、温度があった。
「ありがとう。待たせちゃったわね」
「チョットダケ。ホテル、タイクツ。AI、アラーム、ウルサイ」
エステバンが苦笑した。
「監視、優しい牢屋みたいなものです」
「ごめんなさい。私たちがその“鍵”なの」
「いいえ」
エステバンが首を振る。
「あなたたち、人間の顔、まだある。機械より、希望」
康子は返す言葉を失い、車窓の外を見た。
桜の枝に、鳥がとまっていた。
羽を動かしながら、ゆっくり風を切って飛び立っていく。
──羨ましい、と思った。
奈良公園の入り口。
鹿たちは今日も観光客を出迎えていた。
ただし、彼らの首には小さな金属タグがついている。
《安全生体管理・観光省認定 No.242〜269》
AIが群れの行動を分析し、“危険接触予測”を随時表示する。
「ほら、見て。あのモニター」
康子が指さすと、さぶが頷いた。
「接触確率34パーセント……鹿にまで評価があるんですね」
「そう。いまや“おとなしい鹿”は補助金対象よ」
ミゲルが煎餅を手に、目を輝かせる。
「ヒロコサン、シカ、タッチ、OK?」
「申請してからね。アプリの“接触行為登録”を開いて」
「エーッ! 五分? シカ、イナクナル!」
「速いわね、鹿」
「ボク、オソイ」
ミゲルの嘆きに、康子は思わず笑った。
AIのカメラがその笑顔を認識し、端末に通知が出た。
《笑顔評価:+0.5》
(……あぁ、まだ見てるのね)
ミゲルがそっと鹿に近づく。
鹿は警戒しながらも煎餅を取った。
その動作は、儀式のように丁寧だった。
風の中で、角がゆっくり光を弾いた。
煎餅の下に鹿が集まって来ていた。
「……さぶちゃん、警戒モードにして」
「相手、鹿ですよ」
「油断禁物。奈良の鹿はベテランだから」
案の定、次の瞬間、別の鹿がエステバンの背後から突いた。
「オウッ!」
「ミゲル! ヘルプ!」
「ヒロコサン! シカ、アタック!」
「自己責任でお願いしまーす」
「ヒロコサーン!!」
さぶが慌てて間に入り、煎餅を投げて距離を取った。
「ほら、あっち行け、あっち!」
その動きに反応して、AIが即座に通知を出す。
《接触行為判定:安全。対応評価+1》
ミゲルが笑いながら息を整える。
「サブ、ヒーロー!」
「もう、これじゃほんとに保育士ですよ……」
「ホイクスィ?」
「ノー、“保安士”。」
「アハハ! ニホン、オモシロ!」
そんな調子で始まった奈良観光は、いつもどおりの平和だった
──少なくとも、しばらくの間は。
エステバンが鹿煎餅を掲げた瞬間、背後で小さな爆音がした。
「ポンッ!」という乾いた破裂音。
観光客の一部がざわつく。
康子は反射的にエステバンの腕を引いた。
「しゃがんで!」
「ワッ、ワッ!? ナニ!?」
煙が立ちのぼる。
火薬の匂い。──手製の煙玉だ。
数メートル先、若い男が二人、拡声器を手にして叫んでいた。
「攘夷! 観光利権反対!」
「攘夷! 聖地を外人の手から守れ!」
口調は激しいが、どこか素人臭い。
康子は小さくため息をついた。
「……また出たか、“ゆる攘夷”」
さぶが低く言う。
「先輩、どうします?」
「現場処理で十分。武器はなし。笑顔で」
「笑顔で、ですか」
「そう。笑顔が国家の正装よ」
二人はゆっくりと男たちに近づいた。
康子は声を張る。
「観光省訪日観光局・外事課です。ここは許可区域ですよ」
「うるさい! おまえら役人が日本を売るんだ!」
「売ってないわよ。貸してるだけ」
「ふざけるな!」
「ふざけてないわよ。返却期限もあるし」
男の一人がポケットから何かを取り出す。
──ペットボトル。
中には色水。
康子は即座に十手を抜いて、男の手を払った。
水が地面に散り、鹿が驚いて逃げる。
「暴力はやめてください」
「暴力? これは水だ!」
「ええ、でも水でも暴力になる時代なの」
「なんだそれ!」
「この国、今そういう時代なの」
さぶが静かに補足する。
「現在、動画撮影されています。続けますか?」
男たちは一瞬ひるみ、顔を見合わせた。
その隙に康子が腰の通信機を操作する。
「こちら得川、現場鎮静中。鹿、散開。負傷者なし」
『了解」──上層の無機質な声。
煙の向こうで、鹿が群れを作り、まるで現場を観察していた。
康子はつぶやく。
「ほらね。あの子たちの方がよっぽど冷静」
「先輩、言ってる場合じゃ」
「だいじょうぶ。もう終わり」
案の定、男たちはそのまま逃げ出した。
残されたのは、立ちこめる白い煙と、
不安そうに草を噛む鹿だけだった。
「……何だったんですかね、今の」
「“護国攘夷青年団”とかそんなとこじゃない? 最近SNSで流行ってるのよ」
「物騒な流行ですね」
「物騒が流行るのは、平和の証よ」
「……先輩の論理が暴力的です」
「でも正しいでしょ?」
エステバンとミゲルは、まだ少し震えていたが、笑顔を見せた。
「ヒロコサン、アリガトウ! サムライ・ウーマン!」
「イエス、サムライ同心! 死してシカバネ拾うものナシ」
「スゴイ、ニホン、ドラマチック!」
「いや、アトラクションじゃないのよこれ」
さぶが言った。
「……それでも、誰も死なないのは日本らしいですね」
康子は頷いた。
「そう。騒ぐだけ騒いで、謝って、明日の朝には笑って納豆を混ぜる」
「それが、この国の“平和”ですか」
「ええ。ちょっと歪んでるけど、悪くないわ」
遠くで、また鹿の鈴が鳴った。
逃げた群れが戻ってくる。
まるで、鎮まった世界を確かめるように。
康子は笑った。
「ね、見た? あの子たち、ちゃんと戻ってくるのよ」
「動物の社会の方が、秩序がある気がします」
「人間の社会だって、きっとそうなるわ。時間はかかるけど、鹿くらいには賢いもの」
さぶは少しだけ笑った。
「先輩、今日の報告書、どう書くんです?」
「“異常なし。鹿、良好”でいいんじゃない?」
「……本省が怒りますよ」
「じゃ、“軽度の攘夷的気配あり、鹿により沈静”」
「それも怒られます」
「でも事実でしょ」
鹿の群れが再び穏やかに草を噛み始めた。
その音が、奈良の夕方に溶けていった。
午後。東大寺。
巨大な木の門をくぐると、空気が変わった。
音が沈み、光が濃くなる。
康子は思わず息を止めた。
ミゲルが低くつぶやく。
「ココ、オト、ナイ。シズカ、スゴイ」
「音が、祈りに吸われてるのね」康子が言った。
「オト、スワレテル……。キレイ、ニホンコトバ」
エステバンは天井を見上げ、しばらく動かなかった。
「ヒロコさん。ナゼ、この天井は“軽い”?」
「え?」
「構造は重い。木も多い。デモ、息ができる」
ミゲルが答える。
「ソレ、ヒトノ、ネガイ。オモクテモ、モテル」
エステバンが微笑んだ。
「祈りが構造を支えている……。いい言葉ネ」
康子は彼らのやり取りを聞きながら、心のどこかが溶けていくのを感じた。
──建築の話なのに、まるで人間のことを言っているようだ。
「でもね」と康子は言った。
「この寺も、今はAIが修繕計画を立ててるのよ。人間の職人より、予算が正確だから」
エステバンがゆっくり首を振る。
「合理的な祈り……。それは、まだ祈りですか?」
「……どうかしらね。たぶん、手を合わせる理由が違うだけ」
その瞬間、端末が震えた。
上代参事官からの通達。
《現場記録:感情発言検出。慎重な対応を要す》
康子は一瞬、画面を睨んだが、すぐ電源を切った。
「ねぇ、サブちゃん。感情って、職務違反かしら」
「……先輩、それ、録音されてませんよね」
「たぶん、されてるわね」
「じゃあ僕、聞かなかったことにします」
「えらい。こういう時は転ばないわね」
ミゲルが笑いながら二人を見た。
「ニホン、ムズカシ。でも、ヒロコサン、ホンネ、イウ。ウレシイ」
「危ないのよ、そういうの」
「アブナイ、スキ」
康子は吹き出した。
AIのカメラがその笑顔を再び記録した。
夕方、回廊の影で休憩を取る。
風が通り抜け、鹿の鈴がチリンと鳴る。
「ねぇさぶちゃん、あんた仏教とか興味ある?」
「中学で習いましたけど、論理的じゃないですよね」
「あんたバルカン星人?」
「え?」
「…………。まぁでも。だから人を動かすのよ」
「論理じゃなくても?」
「ええ。昔、教授が言ってた。“観光とは他人の祈りにおじゃまする行為”って」
「なるほど……僕ら、祈りを守る仕事なんですね」
「そう。でも守るって、時々“邪魔しないこと”でもあるの」
「……見てるだけでも、守れる」
「そう、それ」
康子はゆっくり頷いた。
「見て、笑って、聞く。──それが一番むずかしいのよ」
日が傾き、空が橙に染まっていく。
エステバンとミゲルは並んで歩いていた。
二人の間に、もう言い争いの影はない。
時折、母語で短く言葉を交わし、微笑み合っている。
「¿Sabes? Ahora entiendo a Japón.(日本を少しわかってきた)」
「Sí. No es silencio, es escucha.(沈黙じゃなくて、“聴く”なんだ)」
康子はあえてその言葉を翻訳せず、風に耳を澄ませた。
遠くで鹿の鈴が鳴った。
空気の中で、誰かの祈りがそっと息をしている。
彼女は思った。
──守るって、たぶんこういうことだ。
制度の下でも、人の心はまだ動いている。
それを壊さないように、笑って立っていればいい。
風が頬を撫でた。
小さな通知音が鳴る。
《オモテナシ適正:77(回復傾向)》
康子は画面を閉じ、そっと目を細めた。
「ねぇ、さぶちゃん」
「はい?」
「今、風の音、聞こえた?」
「ええ。……なんだか、“ありがとう”って言ってるみたいでした」
「……そう聞こえたなら、たぶん正解よ」
夕陽が回廊を照らす。
鹿の影が伸び、仏の顔が柔らかく光った。
観光保安士・得川康子。
まだ完全には立ち直っていない。
でも、ようやく“息をする場所”を見つけた気がした。




