第一章 二等観光保安士・得川康子
2025/11/08
大幅に改稿しました。
得川康子は、朝から三回ため息をついた。
一回目は鏡の前で。
制服のネクタイが、どうしても左右非対称になる。
AIが“服装整頓スコア”を出してくれるが、今日も79点だった。
二回目は出勤途中の電車で。
隣の席の男がやたらと香水をつけていたせいで、アラートが鳴った。
《空気質指数:不快度45/推奨:位置移動》
まるで自分の嗅覚まで他人に管理されている気分だ。
三回目は、観光省の自動ドアをくぐった瞬間。
ドアのチャイム音が鳴った──「ようこそ観光省へ」
だが、その旋律が康子には、まるで葬式の鐘のように聞こえた。
──今日も、平和だ。
康子はそう呟き、自分のデスクに座った。
机の上には「訪日観光局・外事課・二等観光保安士」と書かれた名札。
下にはタブレット端末が一枚。朝の“笑顔スコア”が表示されている。
【オモテナシ適正:74/前日比+1】
小さく「合格」と出た。朝の三回のため息は、どうやら減点対象ではないらしい。
五年前までは、“笑顔”は国家指標ではなかった。
むしろ、観光庁のパンフレットには「自由と多様性」が並んでいた。
外国人観光客が街を歩き、神社で写真を撮り、食べ歩きを楽しむ。
それが“日常”だった。
だが、不祥事が続いた。
神社の柱への落書き。民家や立入禁止場所での無断撮影。文化財の破損。ゴミのポイ捨て……等々。
そして何より、“観光客による炎上”がSNSを埋め尽くした。
国民は疲れた。
「もう笑わなくていい国になろう」と誰かが言った。
その言葉が流行語になり、一年後、日本は本当に笑顔を規制する方向へ舵を切った。
観光庁は“観光省”に昇格し、
新たに“観光保安士制度”が創設された。
目的は、外国人観光客の同行監視。
つまり──「おもてなし」から「監視」への転換。
笑顔の角度、声のトーン、視線の動き。
AIが逐一記録し、“国民の印象値”として算出する。
その制度の中で、康子は生きていた。
制服は美しい。
濃紺のジャケットに銀の徽章、そして白い手袋。
十手と刀(刃引き)を携えるその姿は、どこか儀礼的で、どこか演劇的でもあった。
彼女は、それを「笑顔の武装」と呼んでいる。
端末の通知が光る。
《新規案件/関西圏・七泊八日ツアー》
康子は眉を上げた。
「……七泊? 長いわね」
出発は三日後。
客はスペインからの新婚夫婦。同性婚。
旅のテーマは「古建築と現代建築の融合」。
添乗は二名体制。
相棒の名が表示される。
「……佐武真市・観光保安士補」
康子は思わず笑った。
あの新人だ。
真面目で、融通が利かず、そしてなぜかよく転ぶ。
廊下で、会議室で、階段で。
上司が「転倒は国家イメージに関わる」と注意したほどだった。
その上司──観光省外事課参事官・上代だ。
康子の席の背後に立ち、声をかけてきた。
「得川。新しい案件、見たか?」
「はい。スペインの建築家のご夫婦です」
「気を抜くな。最近、欧州圏からの申請者は“文化批評目的”のケースが多い。彼らは観光客であると同時に、記録者だ。君の笑顔は、この国の治安を代表する」
淡々とした声。
だがその一言に、観光省という装置の冷ややかさが詰まっていた。
「了解しました。適正距離を保ちます」
「……情は遅延だ、得川。判断を狂わせる」
「はい。心得ています」
上代は小さく頷くと去った。
その背中を見ながら、康子は息を吐いた。
(情は遅延、ね……)
たしかに、そう教えられてきた。
だが、笑顔もまた“演算された感情”だと思うと、ふいに滑稽だった。
翌朝、研修ルーム。
壁には「外国人対応マニュアル・第十二版(修正版)」のホログラム。
“威圧せず、威厳を持て”というスローガンが光っている。
「おはようございます、得川先輩!」
佐武真市。
短髪、真面目な目。ネクタイは完璧、でも靴紐がほどけている。
康子は苦笑した。
「おはよ、さぶちゃん」
「だから“さぶ”って呼ばないでください!」
「うん、ごめんね、さぶちゃん」
「……」
困ったように笑うその顔を見て、康子は思う。
こういう“人間くささ”が、いまの省ではいちばん危ういのかもしれない。
康子は端末を投影した。
七泊八日のツアー行程。
大阪、京都、奈良、和歌山。
「スペインの建築家ご夫婦。名前はエステバンさんとミゲルさん。同性婚ね」
「同性婚……初めての対応です」
「珍しくないわ。今の入国基準は“日本を嫌いにならない人”だけ。愛し合ってる人たちは、だいたい合格するのよ」
「……そんな基準、あるんですか」
「ええ。AI心理審査。“敵意指数30以下”。」
さぶが端末を見ながら苦笑した。
「なんか、人を歓迎してるようで拒んでますね」
「それが今の日本式おもてなしよ。“笑顔で境界線を引く”ってやつ」
康子はそう言って、微笑んだ。
その笑顔を見て、さぶはなぜか背筋を伸ばした。
三日後。関西国際空港。
空港の入国ゲートは、以前より静かだった。
AI監視カメラが人波を追い、通訳ロボットが挨拶を繰り返す。
かつてここで花束を渡していた時代を、康子はぼんやり思い出していた。
その時。
「オハヨー! ニッポン!」
朗らかな声が、到着ロビーに響いた。
エステバンとミゲル。
エステバンは背が高く、スーツの襟に赤い糸を縫い込んでいる。
声は低く滑らかだが、ところどころに微妙な違和感が残る。
ミゲルは小柄で、肩からスケッチブックをぶら下げ、目がよく笑う。
「こんにちはー。観光保安士の得川です。ようこそ日本へ」
「アリガトウ、ヒロコさん!」
エステバンが胸に手を当て、深々とお辞儀する。
「五年、マチマシタ。やっと来れマシタ」
「五年?」
「イエス」と、ミゲルが笑いながら口を挟む。
「ビザ、ムズカシ。最初、“建築巡礼”書いた。危険、言われた」
「“巡礼”は宗教ワードですからね」と康子。
「ソウ、“宗教疑い”デ、アウト!」
二人は顔を見合わせ、声を立てて笑った。
康子もつられて笑う。
「五年分の情熱、重たい荷物ね」
「建築、待たないから」
エステバンの声に、冗談のようでいて切実な響きがあった。
「佐武真市、観光保安士補です。どうぞよろしくお願いします」
さぶが深々と頭を下げる。
「マイチ!」
「シンイチです」
「オー、サブ!」
「……」
康子は吹き出した。
「ね、やっぱり世界はあなたを“さぶ”と呼ぶのよ」
「やめてください、先輩……」
初日の大阪は、完璧だった。
串カツを食べ、通天閣で写真を撮り、ネオンを見上げる。
ミゲルはスケッチブックに人の流れを描き、
エステバンは静かに街の構造を観察していた。
「この混沌、イイ。理屈じゃないバランス」
エステバンの日本語は不思議な滑らかさを持つ。
「整ってナイ、でも壊れナイ。……生きてる建築」
「ヒトの流れ、建物ミタイ!」とミゲル。
康子は微笑んだ。
“陽気な観光客”の奥に、確かな知性があった。
夜。ホテルのロビー。
報告端末を開く康子の隣で、さぶが尋ねた。
「先輩。どうして日本は、こんなに“閉じた”んですか?」
康子は少し考えてから言った。
「壊される前に、閉じたのよ。自分たちの形を守るために」
「でも、閉じたら、何も見えなくなるんじゃ……」
「そうね。でも静けさって、ある意味で贅沢なの。
うるさい時代に疲れた人たちには、ちょうどよかったのよ」
「贅沢……」
「ただ、静けさに飽きた人もいる。──だから今、“外国人観光”は高級産業になってるの。富裕層だけが体験できる、完璧な日本。トラブルなし、ミスなし。──絵葉書の中の国よ」
「それって……本当の日本ですか?」
「さあ。あたしも、ときどきわからなくなるの」
窓の外で、街の明かりが滲む。
観光保安士・得川康子。
笑顔の国を守る保安官。
けれど、その笑顔の意味を知る者は、もう少なかった。
報告端末が小さく震えた。
画面に表示された通知:
《オモテナシ適正スコア:76 / 本日評価:良好》
康子は思わず、乾いた笑いを漏らした。
──AIが、今日の彼女の笑顔を「良い」と言った。
でも、胸の奥で誰かが囁いていた。
「それ、本当に“あなたの笑顔”ですか?」
返事をする代わりに、康子は小さくため息をついた。
今日、四回目のため息だった。




