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「70時間以内に高嶺の花のお嬢様と恋に落ちないと世界が滅びます」と脅されたので、女装して学園に潜入し、なぜか恋愛RTAする。

作者: 柏原夏鉈


:: [ 00:00:00 ] :: セットアップ



いつものように、重たいまぶたをこじ開けて始まった一日。


ボクの人生は、放送の終わった後の砂嵐テレビみたい。意味もなく、ただザアザアと時間が流れていくだけ。

からっぽのカップ麺の器や、飲みかけのペットボトルや、終末論に関する専門書などが散らかったままの部屋をぼんやり照らしているみたい。

無気力で、自堕落。世界がもうすぐ終わるって知ってしまったら、誰だって真面目に生きるのが馬鹿らしくなるよね?


うっかり零した一滴が純白を音もなく取り返しのつかない染みへと変えていく。だから、蒼い瞳はもう開かない。


布団から抜け出して、カーテンをザッっと音を立てて開ける。

部屋に朝日が差し込むように、ボクの灰色の日常にも、唯一、極彩色の光が差し込む瞬間がある。

もうボクは美しい"あの人"だけを見て過ごすと決めたんだ。


簡単に身支度を整えて、中身なんかもう二度と確認しないだろう学生カバンをひっかけて、家を出た。


ボクが通っている高校への通学路を少し逸れて、大きな環状道路に架けられた横断歩道橋へと向かう。

そこから欄干から身を乗り出して見える風景こそ、ボクの特等席。


視線の先には、選ばれし者のみが通うことを許された超名門女学園の生徒たちがいる。


聖アストライア女学園。

その名を冠するこの学び舎は、まさしく現代に残された聖域だ。

ギリシャ神話における正義と純潔を司る女神に由来する。"星のごとく輝く者"という意味らしい。

ボクの通う平凡な公立高校とは世界が違う。選ばれし令嬢たちだけが通うことを許された超名門校。

レンガ造りの荘厳な校門の向こうは、女神の名にふさわしく、気高く完璧な淑女を育むための、美しくも格式高い世界が広がっている。


その中でも、ひときわ眩いオーラを放つ存在。


一条院菖蒲いちじょういん あやめ

聖アストライア女学園に君臨する、日本有数の財閥である一条院家の令嬢。

艶やかな黒髪、陶器のように白い肌、そして理知的で強い意志を宿した瞳。そのどれもが、神が作りたもうた芸術品のよう。

現当主である彼女の父親は病気で伏せっているため、当主の弟(彼女にとって叔父)が当主代行を務めている。

しかし、彼女があまりにも優秀なため、次期当主に指名されてるのはアヤメ様だと噂で聞いたことがある。


そんな彼女の朝は、いつも漆黒の高級車での送迎から始まる。

学園内には送迎専用の駐車場があるにも関わらず、彼女は必ず校門の前で車を降りる。

そこで待ち受ける学友たち一人ひとりに完璧な微笑みで挨拶を交わし、一切の隙もない優雅な足取りで校内へと消えていく。

ボクはその一連の儀式を、毎朝、日課のように校門を見下ろす歩道橋の上から眺めている。


風に優雅になびく艶やかな黒髪。背筋がピンと伸び、一切の無駄がない歩き方。

すれ違う生徒たちに軽く会釈するその姿は、まるで王族のようだった。彼女が世界の中心で、それ以外はすべて背景。

ボクは、その完璧な芸術品を遠くから拝めるだけで、今日一日を生きる理由としては十分すぎた。


「まあ、どうせこの世界も、ボクの淡い恋心も、もうすぐ終わるんだけど」


誰に言うでもなく呟き、彼女の姿が校門の向こうに消えるのを見送った。

ボクの今日という一日の目的は、早くも終わった。さて、退屈な現実に戻るか――と、踵を返そうとした、その時だった。


「やっと見つけましたよ、パパ!」


鈴の鳴るような、しかし妙に自信に満ちた声が、すぐ背後からした。

振り返ると、横断歩道橋の上に一人の見知らぬ少年が立っていた。幼く見えるので、年はボクより下だろうか。

色素の薄いサラサラの髪に、大きな瞳。華奢な体つきは、一瞬、少女と見紛うほどだった。

天使のような顔立ちとは裏腹に、獲物を見つけた狩人のように、ギラギラとした強い光でボクを射抜いていた。


……パパって言った? 誰の事を言ってるのだろう? ボクは自分の事とは思えずに、思わず後ろを振り返る。

でも、歩道橋の上に人を探すんだけど、横断歩道橋の上にはボクとその少年しかいない。少年も真直ぐにボクを見ている。

ボクが声も出せずに固まっていると、少年はツカツカと歩いて近づいて来る。そして、にやりと口の端を吊り上げた。


「アサギパパ!あなたのことです!」

「なんでボクの名前知ってるの?!」


びっくりした。その少年は、明確にボクのことを知っていて、ボクを探しに来たらしい。


夏飛瀬浅黄なつとびせ あさぎ。公立高校に通う二年生で、偏差値は至って平凡! 両親は長期の海外出張中で現在一人暮らし。趣味や特技と呼べるものはなく、部活動にも所属していない……もちろん、恋人なんて夢のまた夢!」

「なに勝手にボクのパーソナルデータを大きな声で発表してんの!そして、最後の一言は余計だよ!」

「安心してよ、パパ!それも今日までの話だから!」

「どういうこと?」


何、この子、怖い。ボクが戸惑っていると、少年はボクの腕をガシッと掴んだ。

その手は見た目通りに女性っぽい柔らかく冷たい手だった。意に反して、女性の苦手なボクはドキドキしてしまう。

しかし、そんな印象とは裏腹に、とんでもない握力で、ぎゅっとボクの手を掴んで引っ張りだした。


「時間がないんです! 説明は車の中で!」

「ええ!? 車!? 何を言って――うわっ!」


有無を言わさず、少年はボクを引っ張り始めた。歩道橋を駆け下りて、連れていかれた先。

そこに停まっていたのは、およそ善良な目的で使われるとは思えない、黒塗りのハイエースだった。会社名もロゴもなく、ただひたすらに黒い。

窓は中が一切見えないほど濃いフィルムで覆われ、その匿名性は、白昼堂々と行われる非合法な活動のために誂えられたかのようだった。

ボクが抵抗する間もなく、後部座席のスライドドアが開き、先に飛び込んだ少年に、車内へと引きずり込まれた。


バタン、と重い音を立ててドアが閉まる。そして車勝手に走り出した。どこに連れていかれるの?

ボクは左右向かい合わせに配置された豪華な革張りのシートに押し込まれ、向かいに少年が勝ち誇ったように座っている。


「さて、パパ。自己紹介が遅れました。僕はカケル。あなたの未来の息子です」

「未来の息子!?ってか、本当に男の子なの? 肌とかツルツルで髪もさらさらだよ?」

「……ありがとうございます。そして本題ですが、なんと! 驚かずに聞いてくださいね? この世界が今にも滅びそうなんです!」

「知ってる。でも、頼る相手を間違えてる。ボクは無力な男子高校生で――」


さっきまで自信満々な表情だった少年が、急に表情を曇らせて「知ってる、ってどういう意味?」と小さく呟く。

その表情は、まるで仮面を取り外したかのように別人に見えて、少年っぽさが抜け、年上の女性に見えた気がした。


でも、それも一瞬の事。


「そ、そう。知ってるなら話が早い! 僕は未来からその原因を探るためにこの時間軸にタイムスリップしてきたんです!」

「原因? それは真の――」

「未来から原因を探って、ようやく特異点を見つけました。それはパパとママです!」

「この子、人の話を聞いてくれない!ってか、さっきから、なんでボクがパパなの? ボクからこんな美少女ちっくな美少年は生まれないよ!」

「パパとママが、あと三日以内、時間にしておよそ70時間以内に恋に落ちて婚約しないと、世界が滅びます!」

「因果関係が意味不明!」


なんだそれ! ボクの恋愛が、地球の存亡を左右するトリガーになってるって言いたいの?

このカケルと名乗る少年が本当に未来から来たのかは置いておいて、人類の命運を、しがない男子高校生一人の恋バナに委ねるなと言いたい!


「世界の仕様バグみたいなものですよ。でも、安心してください。ボクはパパとママが結婚した世界線から来たんです!」

「待って! いろいろ言いたいことあるけど! そもそものはなし、その"ママ"ってのは誰?」

「決まってるじゃないですか。アヤメママです」

「アヤメ様?!」

「パパがさっきストーカー予備軍みたいな目で見てた人です」

「言い方が悪い! そうじゃない、ボクはストーカーじゃなくて、ただ見てただけだよ」

「毎朝見てますよね? その供述で裁判に勝てます?」

「怖いこと言わないで。それより大事なことは、ボクとアヤメ様が結婚して、キミが生まれた?」

「ええ!」

「確かに、アヤメ様に似てるかも……。そっか、それならこんなに美少女な美少年でも不思議じゃないか。ボクの子とは思えないほど美少女だけど、アヤメ様だもんなあ。在りえない未来ではないのかな」

「……未来の息子とか世界の破滅とかより、僕の容姿が、そんなにひっかかるの?」

「ん?」

「おっと。と、とにかく、世界が滅んじゃったらそれどころじゃないです! だから、パパには今からママと恋に落ちて婚約してもらいます!」


「……無理。冗談はやめてよ。車から降ろして」


ボクの思考は、完全に停止した。

世界の崩壊が始まらない未来よりもずっと起こりえないことを言われても困る。

天地がひっくり返っても、太陽が西から昇っても、砕けた星が自ら元の姿に戻っても、事象の地平面が内から綻んでも、因果律の鎖が断ち切れても。


絶対にありえない。


「無茶なのはわかってます。本来ならきちんと好感度上げてイベントこなして数カ月かけてようやく手をつなぐくらいでしょう」

「いやいや、そもそもボクとアヤメ様には、接点がないからね? 世界が違うって言ってもいい! 異世界転生でもしなきゃ無理!」

「ですが!今回は緊急なので未来を知っている僕が、強制イベントを発生させてフラグを立てるしかありません。いわゆる恋愛RTAリアルタイムアタックです」

「恋愛RTA!?」


また意味不明な単語が出てきた。いや、意味はボクにだってわかる。

初見ではなく十分に練習して何もかも調べて知った上で、クリアするまでの実時間を競い合うことを言うんだけど、あくまでゲームの話だ。

もしかして、ボクっていつの間にか恋愛シミュレーションの主人公に転生してたのかな? いや、そんなわけがない。


「未来を知ってる僕の指示に従えば、これは確定した未来であり、最適解ルートなんです! だから、今から開始します!」


カケルはボクの絶望などお構いなしに、目をキラキラと輝かせる。


「まず、ママが通う聖アストライア女学園に潜入します」

「さっそく無理があるよ! ボクは男! あそこは超お嬢様学校なんだから、編入なんて不可能だよ!」

「任せてください!すでに乱数は最適に整えてきました。――ママに擬態して学園に行けば、編入イベントが始まります!」

「ぎたい?」

「はい。"同キャラバグ"を利用するんです。本来は在りえない存在が二人現れると、対応チャートが用意されていないので、勝手に世界システムが判断して、イベントを発生させてしまうんです。それに、ママにしても、人は自分と似たものに親近感を覚える。他人への警戒心という名のファイアウォールを突破して、初期好感度を大幅にスキップできます!」

「何を言ってるのか、一文字も理解できないよ!」


パワーワードが多すぎる! 同キャラバグってなに! 世界システムってどういうこと? 親近感とかそういうレベルの話じゃないよ!


「できるわけない! ボクは平凡な男子高校生! アヤメ様とはダイヤモンドとそこらへんの小石くらい違う!」

「大丈夫です。未来の技術と僕の情熱があれば、性別なんてただのデータに過ぎません!」


言うが早いか、カケルは足元の床に隠されていた収納を開け、巨大なアタッシュケースを取り出した。

パカリと開くと、中にはプロのメイクアップアーティストが使うような、無数の化粧品が整然と並んでいた。

なんでハイエースにこんなものが!? 準備が良すぎる。この子、本気だ。


「さあ、パパ! 世界で一番美しいママになりましょう!」

「いや、だから意味が分からない! パパはママにはなれないよ!?」


ボクは抵抗しようとしたが、この美少女みたいに見える美少年から甘く良い匂いがして、今まで女性と接点のなかったボクには免疫がない!

強く抵抗できず、気が付けば、揺れる車内で、カケルは驚くべき手際の良さでボクの顔に化粧を施していく。


「RTAはチャート通りに進めるのが基本です。ここでの抵抗はタイムロスにしかなりませんよ」


有無を言わさず、冷たい化粧水が顔に吹き付けられる。

スポンジで何かが叩き込まれていく。下地? ファンデーション? ボクには分からないが、自分の肌が塗り替えられていく。

屈辱的な感覚だけははっきりと分かった。アイラインを引かれるときは、恐怖で生きた心地がしなかった。


「もう……どうにでもなれ……」


抵抗を諦めたボクの耳元で、カケルが満足そうに呟く。


「いい子です、パパ。これで5000フレーム短縮できました」

「ややこしい。一分半くらい、でいいよ」


髪にウィッグを被せられ、最後に渡されたのは、見覚えのある制服だった。

聖アストライア女学園の、上品な紺色のブレザーとチェックのスカート。恐ろしいことに、これも車内に用意されていた。

着替えを終えたボクは、幽霊のような心地で、カケルから渡された手鏡を覗き込んだ。

そして、そこに映る人物を見て、息を呑んだ。


「……うそ」


そこにいたのは、ボクではなかった。

骨格も、輪郭も、すべてが完璧に補正され、艶やかな黒髪のウィッグを被ったその姿は……。

ボクが毎日、焦がれるように見つめていたアヤメ様、その人だった。


鏡の中の“彼女”が、信じられない、というように目を見開く。

その表情すら、ボクが知るアヤメ様の気品を帯びているように見えた。

やがて車は静かに速度を落とし、路肩に停車した。


「完璧です! さあパパ、タイマースタートです!」


カケルはボクの耳に小型のインカムを装着させた。


「待って! そもそも編入イベントってなに?! 突然行っても文字通り門前払いされるだけ!」


ボクが最後の抵抗を試みると、インカムからカケルの自信に満ちた声が聞こえてきた。


『大丈夫です! とにかく行ってください!』


スライドドアが静かに開く。カケルがボクに降りるよう無言で促した。


背中を押され、車から降りる。


降りた瞬間、目の前に、あの荘厳なレンガ造りの校門がそびえ立っていた。

通学時間から少し時間が経ったからだろう、校門前にはもう生徒の姿はないが、門はまだ開いていた。

黒いハイエースは音もなく走り去っていく。後に残されたのは、女子生徒の制服を着た、ただの男子高校生一人。


本当に、こんなことになってしまったのか。


ボクの残り70時間を切った世界を救うための無茶苦茶な恋愛RTAが、今、強制的に始まろうとしていた。



:: [ 01:02:14 ] :: 主要フラグの強制発動



黒いハイエースが走り去り、ボクは聖アストライア女学園の荘厳な校門の前に一人、ぽつんと取り残された。

ひらひらと風に揺れるスカートの裾が、どうにも落ち着かない。

道行く人たちが、ボクの姿をじっと見ている気がする。たぶん気にしすぎなんだけど。


やめて。そんな好奇の目で見ないで。ボクは好きでこんな格好をしているわけじゃない!

羞恥心で全身が燃え上がりそう。今すぐ逃げ出したい。いや、逃げ出すべき。


『大丈夫です、パパ! そのまま事務局へ! すべてチャート通りです!』


耳元のインカムから、カケルの能天気な声が響く。

チャート通り? 拉致同然に連れてこられ、無理やり女装させられたこの状況のどこにチャートが存在するの!

変質者発見の通報から、女装して女学園に侵入しようとした男子高校生!ってヤフーニュースにのる最速チャートの間違いじゃないの?


でも、もう後戻りはできない。ボクはヤケクソ気味に、震える足で一歩を踏み出した。


荘厳なレンガ造りの正門をくぐる。ボクの世界とは違う、選ばれし者たちの世界への境界線を、今まさに越えてしまった。

門の脇には、執事のようなクラシカルな制服を着こなした初老の警備員が、鋭い視線でこちらを見ていた。


まずい、呼び止められる……!


ボクは身構えたが、警備員はボクの着ている聖アストライア女学園の制服に気づくと、その厳しい表情をわずかに和らげ、無言のまま、恭しく一礼した。


え、スルー!?


あまりにあっさりと通されたことに、逆に心臓が跳ね上がる。

この制服は、まるでこの聖域へのオールアクセスパスみたい。もし偽物だとバレたら、一体どうなるんだろ……。


エントランスへと続くアプローチは、美しい石畳で舗装されていた。

道の両脇には、まるで緑の絨毯のように完璧に刈り揃えられた芝生が広がり、その先には手入れの行き届いた薔薇のアーチが見える。

蔦の絡まる赤レンガの校舎は、まるでヨーロッパの古城のようだ。

ボクがいつも見ている、公立校の機能性だけを追求したコンクリートの校舎とは、何もかもが違っていた。


あまりに浮世離れした光景に、ボクはまちがって舞台に上がってしまった場違いな客になったような気分だった。

目に見えない第四の壁の向こうから失笑が聞こえてくるようだ。女装した男子高校生がお嬢様学校に潜入って、現実味がないな!って。


やがてたどり着いたエントランスは、重厚な樫の木の扉が観音開きになっていた。

ボクは一瞬戸惑ったが、意を決してその真鍮製の取っ手に手をかける。扉は、見た目よりずっと軽く開いた。


中に入ると、そこはもう学校というより高級ホテルのロビーだった。

吹き抜けの高い天井からは巨大なシャンデリアが下がり、磨き上げられた大理石の床にその光が反射してキラキラと輝いている。

自分の靴音が、この神聖な空間に不協和音を響かせているようで、ボクは忍び足になりそうだった。


ホールをきょろきょろと見回すと、目的の事務局は、そのエントランスのすぐ脇にあった。

壁にはめ込まれた、控えめながらも品の良い真鍮のプレートに「事務局」と刻まれているのを見つけた。

ボクは一度、大きく深呼吸をして、カウンターまで静かに歩く様に気をつけながら近づいていく。ここからが、本当の戦いだ。


ボクが声をかけるよりも先に、優雅な笑みを浮かべた受付の女性が、ボクの姿を認め、すっと立ち上がる。


「お待ちしておりました、アサギ様」

「……へ?」


アサギ様!? ボクのことか!?

あまりに恭しい対応に、ボクの脳は完全にフリーズした。


「驚かれたご様子。失礼をお詫びします。学園内では家柄に関係なく、一人の生徒として、皆様が対等に過ごせるようにとの理念から、創立以来、お名前のみでお呼びする慣例です」


下の名前を呼ばれたことに驚いたわけではないけど、事務局の女性に気を使わせてしまったらしい。

慌ててボクは手を振りながら、否定した。


「い、いえ、大丈夫です。ちょっと緊張してて!」

「お気持ち、お察しいたします。わたくしどもがご案内いたしますので、何もご心配には及びませんよ。……それでは、試験会場の準備が整っておりますので、ご案内いたします。こちらへ」


案内されるままに、大理石の廊下を歩く。

壁には有名な画家のものらしい絵画が飾られ、窓の外には手入れの行き届いた美しい庭園が広がっていた。

何もかもが、ボクの日常とはかけ離れた世界だ。


やがて通されたのは、試験会場というより、どこかの社長室みたいな豪華な部屋だった。

ふかふかの絨毯に、アンティークの調度品。ボクは促されるまま、革張りのソファに恐る恐る腰を下ろす。


「お待ちしておりましたわ、アサギさん」


そこに現れたのは、銀髪を上品に結い上げた、見るからに品の良い老婦人だった。胸元のブローチには、この学園の校章が輝いている。


「わたくしは、この聖アストライア女学園の学園長を務めております、サユリと申します。本日の編入試験は、わたくしが担当させていただきますね」


まさかの学園長だった。びっくりして、ソファから飛び上がるように立ち上がって、頭を下げる。


「は、はじめましえ!……まして!ボクは夏飛瀬なつとびせアサギと言います!」

『アハハ、女装して潜入してるのに、名乗っちゃうパパ、素敵です!』


インカムからカケルの声が聞こえてきて、ハッとなった。そうだ、今、ボクは女装して、潜入中だったじゃないか!

で、でも、イイワケじゃないが、事務局の女性も、学園長も、ボクを「アサギ」と呼んでるのなら、別に今更じゃない?


「ええ、アサギさん。事情は承知しておりますわ。ご存知かもしれませんが、本校では家の立場を離れ、皆様が一人の生徒として過ごすのが伝統ですの。ここでは、どうぞご自身の名前でお過ごしくださいね。……緊張なさるお気持ちも分かりますが、すぐに終わりますから。さ、始めましょうか」


そう言って学園長が手渡してきたのは、十数枚の用紙がまとめられたペーパーテストだった。

インカムから、カケルの声が意気揚々と響く。


『パパ、問題はこちらで全て把握しています! 回答を言いますから、そのまま書いてく――』


ボクは問題用紙をペラペラとめくってみたが、どれも簡単な問題ばかりだった。間違えようがない。

インカムに向かって小声で、しかしはっきりと告げた。


「いらない」

「え?」

『え?』


内心、呆れていた。なにこれ、簡単すぎ……。


学園長とカケルの声がきれいに重なってたけど、気にならない。

カケルから渡されてたバッグから取り出した筆記用具(優雅な装飾が施された万年筆みたいなシャープペン)で、サラサラと書いていく。

心地よい筆記音だけが静かな部屋に響いた。その様子を、学園長が驚きと興味が入り混じったような表情でじっと見つめている。


『……え? パパ? まさか自力で……?』


カケルの戸惑う声を無視して、ボクは最後の問題まで一気に解ききった。開始から二十分も経っていただろうか。

静かにペンを置くと、学園長はにこやかに問題用紙を受け取り、その場でパラパラと中身に目を通した。


「まあ……」


彼女は小さく感嘆の息を漏らすと、慈愛に満ちた笑みをボクに向けた。


「採点は不要でしょうね。すべて正解していますわ。素晴らしい頭脳です」

「……どうも」

「あなたの編入を、心より歓迎いたします。 聖アストライア女学園へようこそ」


あまりの展開の速さに、ボクは呆然とするしかなかった。

即日試験で、即日編入ってどうなってるだろう。これがカケルのいう"同キャラバグ"のおかげなのかな。

あるいは、何らかのチカラが働いているか。さっき学園長は「事情は承知してる」と言ってたのも気になった。

なんだか、壮大なドッキリ企画に参加させられている気分。でも、アヤメ様に会うことが出来るのなら、些細なことは気にしない。


なんでもいい。どうなってもいい。守るものなんて、失って困るものなんて、何もない。


「さあ、アサギさん。あなたの教室へご案内しますわ」


なんと、学園長自らが案内役を買って出てくれた。断る隙も与えられず、ボクは学園長の後について、再び長い廊下を歩き始めた。


(都合よくアヤメ様とクラスまで同じになるのは難しいよね。そうなったら、この潜入作戦の意味も半減してしまう……)


ボクがそんな考えに沈み、知らず知らずのうちに不安な表情を浮かべていたのだろう。

隣を歩く学園長が、ふと足を止め、慈愛に満ちた笑みでボクの顔を覗き込んできた。


「アサギさん、ご心配なさらないで」

「え?」

「新しい環境に、ご不安なお気持ちはよく分かりますわ。ですが、少しでも早く学園に慣れるよう、こちらで特別な配慮をさせていただきましたの」


学園長は、安心させるように優しく続ける。


「アサギさんは、アヤメさんと同じクラスに配属となっております。親しい方がご学友となれば、心強いでしょう?」


その言葉に、ボクは息を呑んだ。


(アヤメ様とボクが親しい……?一方的にボクが見つめていただけで、会ったこともないんだけど!)

『良かったですね、パパ! もちろん、クラス分けの乱数は事前に調整しておきましたから! 同じクラスじゃないと時間のロスが大きいですから、RTAとしては当然ですが!』


カケルがインカムでそんなことを言ってるけど、乱数どうこうで、同じクラスにはなれないだろう。さらに、学園長は続けて爆弾投下する。


「すでにご要望として伺っておりましたから」

「……ご要望、ですか?」


心当たりが、全くない。


『僕が要望を出したわけでもないですからね? 言ったようにこれは『バグ』を利用してるので、NPCが自分の行動に不合理が生じないように理由を自動生成してるだけですよ』


訳の分からないカケルの説明に、ボクはますます混乱した。意味が分からない!

今は学園長と一緒にいるからカケルに問うのも難しいから、むしろ、学園長に素直に聞いてみるのも良いかもしれない。

この場にいないカケルには、邪魔することも出来ないだろう。


「あの、学園長。その"ご要望"というのは一体、誰から……」


しかし、学園長は少し驚いた顔をして、じっとボクの顔を見つめた。

しばし見つめた後、人差し指をそっと自分の唇に当てると、悪戯っぽく微笑んだ。


「あら。わたくし、何かお伝えしてはいけないことを……。うふふ、今の話は、どうかお聞きにならなかったことにしてください」


そう言い残して、再び学園長は歩き始める。

どういうこと! 学園長を呼び止めて、強く迫り、しっかり確かめる!ということも出来るんだろうけど、いいや、とも思った。

なんというか、カケル的には上手くいってるみたいだし、このまま流れに逆らずに行こう。


やがて、とある教室の前で学園長は立ち止まった。ドアの隙間から、授業中らしい静かな気配が伝わってくる。

ボクの心臓が、破裂しそうなほど大きく脈打った。

この先に、彼女がいる。アヤメ様が。


学園長が静かにドアをノックし、中へ入る。

授業をしていた担任教師が驚いた顔で駆け寄ってきた。授業が中断し、教室にいた生徒全員の視線が、ナイフのようにボクに突き刺さる。


そして、ボクは見てしまった。

教室の真ん中。教科書を開き、こちらを静かに見つめている、憧れの人の姿を。本物だ。アヤメ様が、すぐそこにいる。

その事実に、頭がクラクラして、立っているのがやっとだった。


学園長は去り、ボクは教室に入るように促されるまま、教師の横に立つ。


「皆さん、ご紹介します。今日から皆さんのクラスに編入してきた、アサギさんです」


担任教師がそう紹介した瞬間、教室中が大きな、しかし抑えられたどよめきに包まれた。


「アヤメ様と、そっくり……」

「双子……ですの?」

「すごくお美しい……」


そのざわめきの中から、一人の生徒が勇気を出して尋ねた。


「あ、あの……アヤメ様のご親戚の方ですか?」


すべての視線がアヤメ様に集まる。彼女は静かに首を振って、凛とした声で答えた。


「いいえ。わたくしも、初めてお会いする方ですわ」


最大の難関である"編入する"を突破した安堵も束の間、ボクの耳に、インカムからの非情な指令が突き刺さる。


『パパ、今です! すぐにママに告白してください! ここでは断られますが、これが重要なイベントフラグになります!』


え!?

今!? この状況で!?


馬鹿言わないで! 全員が見ている前で、告白しろっていうの!? それなんて言う名の拷問なの?!

無理無理! アヤメ様のことは大好きだけど、でも、それは遠くから見つめて憧れてただけで!

こんな状況で告白出来るほどに気持ちが高まってないっていうか!


ボクの内心の絶叫など知る由もなく、カケルの指示は続く。


『早く! タイムロスです! 世界が滅びますよ!』


それを言われちゃったら、ボクはカケルの言うことを聞くしかないじゃないか!

ボクは世界が静かに滅びるとき、何も出来ずに、伸ばした手が何も掴まない未来が恐ろしくてしょうがない。

何もできないくらいなら、何かやったうえで失敗した方がいい!


ああ、もう、知らない! どうなってもいい! このまま嫌われて追い出されてもやるしかない!

ヤケクソになったボクは、震える足で一歩前に出ると、アヤメ様だけを真っ直ぐに見つめて、腹の底から叫んだ。


「アヤメ様! あ、あなたのことが好きで! 好きすぎて、あなたと一緒にいたくて、この学園に編入してきたんです! ど、どうか、ボクと付き合ってください!」


教室が、水を打ったように静まり返った。


時間の流れが止まったかのような沈黙の中、全員の視線がボクとアヤメ様の間を何度も往復している。

当のアヤメ様は、驚いたように少しだけ目を見開いていたが、すぐにいつもの冷静な微笑みをその美しい唇に浮かべた。


「そう。ありがとう、嬉しいわ。でも、まずは……お友達から始めましょう?」


その完璧すぎる対応に、ボクはもはや意識が遠のくのを感じるのだった。



:: [ 02:28:49 ] :: 強制イベントスキップ



「――まずは……お友達から始めましょう?」


アヤメ様の完璧すぎる返答が、静まり返った教室に響き渡る。

その直後、まるでこの茶番劇の幕を引くかのように、クラスメイトのお嬢様たちがなぜか拍手してくれた。


「今までの最速じゃないかしら?」

「アヤメ様に告白してお友達になるのは、皆が通る道です。あなたはもう同胞です」

「あとでいっぱいお話を聞かなきゃね!」


え、なんか、クラスメイトのお嬢様たちは、呆れたり馬鹿にしたりじゃなくて、頷きながら祝福してくれてる?

もしかして、アヤメ様に告白するのって、なんか恒例行事だったりする?


「アサギさんの席は、そちらの空いている席に」


通常運転の担任教師に指されたのは、なんとアヤメ様のすぐ後ろの席だった。

偶然か、それともこれもカケルのいう"乱数調整"の仕業か。万能すぎないか。

ボクはお嬢様たちの好奇の視線に背中を焼かれながら、ギクシャクとした足取りで席についた。


授業が再開されても、その内容などまったく頭に入ってこない。


すぐ目の前にある、アヤメ様の美しい黒髪。ふわりと香る、上品なフローラルの香り。

憧れの人がこんなに近くにいるという事実に、ボクの心臓は意味もなく暴れ続けていた。

当のアヤメ様は、何事もなかったかのように涼しい顔でノートを取っている。


そして、待ちに待っていない休憩時間がやってきた。

チャイムが鳴り終わるのと、ボクの席がクラスメイトたちに包囲されるのは、ほぼ同時だった。


「ねえ、アサギさん! 本当にどこから転校してきたの?」

「アヤメ様とは本当に初対面ですの? 信じられないわ!」

「そのお髪、地毛ですの? あまりにもお美しくて……」


質問の嵐だ。しかも全員、キラキラした瞳でボクを見つめてくる。

まずい! 何も考えてなかった! カケルからは潜入方法と告白の指示しか受けていない!


「え、えっと、その……と、遠いところから……」

「ど、どうしてアヤメ様をって……あ、憧れてて……」

「こ、これは……う、生まれつき……?」


ボクの内心はパニックの頂点に達していた。

どこって言えばいいんだ!? 日本か!? 海外か!? ていうかボクは男だぞ! 地毛なわけあるか! カツラだよ!

しどろもどろで、我ながら意味不明な回答を繰り返すボクに、しかし、クラスメイトたちはうっとりとした表情を浮かべた。


「まあ、ミステリアスですわ……」

「一途なのね……素敵!」


どうやら、この学園のお嬢様たちは、純粋培養なお嬢様なので、人を疑うことを知らないらしい。

そのピュアすぎる眼差しに、ボクの罪悪感はマッハで積み上がっていく。

ごめん、みんな。ボクは君たちが思っているような謎の美少女じゃない。ただのしがない男子高校生なんだ……。


そんな罪悪感に苛まれていると、一人の生徒がパン、と手を叩いた。


「皆様! お喋りもそこまでにしておかないと。次の授業に遅れてしまいますわよ」

「そうですわね。次の授業は体育でしたわ」

「アサギさん、一緒に更衣室へ行きましょう!」


たいいく……?


その単語を脳が理解した瞬間、ボクの全身の血の気が、サーッと引いていくのを感じた。

体育!? ちょっと待て、着替えがある! 着替えたら、ボクが男だって即バレ!


終わった……。


始まったばかりのボクの学園生活も、残り67時間を切った世界の運命も、すべてここでゲームオーバー!


「ど、どうかしましたの、アサギさん? 顔色が真っ青ですわよ?ご気分が悪いのかしら?」

「あ、そ、そうなんです、ちょっと――」

「ああ。でも、着替えはしなくてはならないのです」

「そうですわね。アサギさんは、ご存じないでしょけど、この学校では見学者も指定体操服に着替えることになっているのです」

「え、え? あ、でも、ボク、体操服――」

「ご安心ください。アサギさんの体操服はすでに更衣室に用意されているはずですわ」


一瞬だけ「そうだ、体調不良を装えば?」と思った瞬間に否定され――。

次に「じゃあ、編入してきたばかりで指定体操服は無いって!」と思った瞬間に着替えまで用意されてる?!

まるでボスから逃げようとしたら回り込まれたみたい! 逃げられない! 強制参加タイプのイベントじゃないか!


心配そうに顔を覗き込まれても、ボクはもはや「あ……う……」と意味のない音を発することしかできない。

冷や汗が背中を伝っていく。お嬢様たちに促されて席を立ち、更衣室へと移動する集団の後ろに着いていきながら。


集団から不自然ではないように気をつけながら、少し距離をおいて、カケルに小声で話しかける。


「カケル! 聞こえてる? どうすればいい!? 何かバグ技はないの!?」

『落ち着いてください、パパ。これも想定内です。RTAではこういう強制イベントのスキップが重要ですから』

「どうやってスキップするの?」

『パパ、更衣室に入ったら、窓際に置いてある高価そうな壺を割ってください!』

「はあああ!? 壺を割れ!? なんで?」


あまりの指示に、思わず大きな声が出てしまった。先を歩くクラスメイトたちが「え?」という顔でこちらを見ている。


「あ、い、いえ! なんでもないです!」

『"重要アイテム破棄によるキャンセル"技です! これで着替えイベントを確実にスキップできます!』

「いえ、気分が悪いとかではないので、はい、大丈夫ですから」

『いいですね、コツは一気に叩き割ることです!もし不審な行動を周りに悟られたら、間違いなく止められてしまい、スキップ失敗ですよ?』


できるかぁ! と叫びたいのをぐっとこらえた。


耳元でずっと指示を飛ばすカケルのセリフを聞き流しながら。

ボクは何食わぬ顔で心配そうに見つめてくるクラスメイトたちに合流して、死刑台へ向かう罪人のような足取りで更衣室へと向かった。


更衣室のドアを開けると、確かに窓際に、いかにも高そうな青磁の壺が飾られていた。しっかりとした台の上に、鎮座している。

なんで更衣室に壺だけが置いてあるの! まだ花でも生けてるのなら花瓶かな?って思えるけど、明らかに壺を自慢するために飾ってあるみたい。

きっと高額の品物なんだろうけど、いくらなんだろう?


『値段は言いませんよ? 割り難くなるでしょう?』


言ったも同然だよ! まるでボクの心を読んでいるのかと思うほど的確なコメントに思わず突っ込みそうになる。


ああ、もう、ヤケクソだ。世界が滅びるよりは、壺の一つや二つ……! 割ってやる!

昔からゲームの主人公たちは"壷を見つけたら叩き割るのは伝統"みたいな顔で割ってるし!

ボクは覚悟を決めると、何でもないふりをしながら壺に近づき、お嬢様らしく(?)優雅に足を滑らせるフリをした。


「きゃっ!」


自分でも驚くほど可愛らしい悲鳴を上げながら、ボクは腕で壺を派手に薙ぎ払う。


ガッシャーン!!


けたたましい破壊音が響き渡り、生徒たちの甲高い悲鳴が更衣室にこだました。

ボクは床に散らばった青い陶器の破片を呆然と見つめるフリをしながら、その中に明らかな異物があるのに気が付いた。


なにこれ? なんで壷の中にこんなものが? だって、これって――。


「こ、これ……隠しカメラ? 赤いランプが点滅してるってことは、録画中ってことだよね。……あ。まさか、盗撮ってこと?」

『へ? 盗撮カメラ? 何を言ってるんです、パパ?』


更衣室は大混乱に陥り、すぐに教師たちが駆けつけてきて、事態は学園全体を巻き込む大騒ぎへと発展した。


名門お嬢様学園の秘奥に位置する更衣室にしかけられた盗撮用隠しカメラ。厳しい警備が自慢の学園にしてみたら、大問題の大醜聞だ。

外部の人間が仕掛けたとは考えにくい(女装しただけここまでやってきたボクは例外としても)わけで、絶対に手引きした者が内部にいるってことに。

結果、学園内のすべての授業は中止。全更衣室の一斉調査が開始されることが決定し、ボクたちは自習の名目で教室に戻ることができた。


「本当に、イベントスキップ出来たけど、さ」

『も、もちろん、想定内ですよ! これで調査が終わるまで数日は更衣室は使用禁止、男バレの可能性はなくなりましたから!』

「ふーん」


カケルが白々しくすべては想定内だと言い張るのを聞きながら、さて、どこまで本当やらと疑いを持っていた。

どさくさに紛れて、ボクが割ってしまった壷を弁償しろ!とも言われなかったけれど、もし監視カメラが入ってなければ、いったいどうなっていたことやら。

カケルが本当に未来から来て、全ての出来事を見通しているのなら、もちろん今の結果は想定していたのだろうけれど。


しかし、今のボクは、カケルの指示に従うしかない。世界の破滅はもう間近なのだから。



:: [ 04:51:38 ] :: 意図せざるシークエンスブレイク



盗撮カメラ騒ぎによる自習時間が終わり、昼休みを告げる優雅なチャイムが鳴り響いた。

ようやく悪夢のような午前中が終わった……とボクが胸をなでおろしたのも束の間、クラスメイトたちがわっとボクの席に集まってきた。


「アサギさん、さあ、お昼にしましょう!」

「食堂をご案内しますわ!」

「アヤメ様もご一緒に!」


断る隙など、一ミクロンも与えてもらえなかった。

気がつけばボクは、アヤメ様を囲むグループの一員として、赤い絨毯が敷かれた豪華な廊下を歩いていた。

すぐ近くにいるアヤメ様、先ほどの告白騒ぎなどまるでなかったかのように平静を保っている。

気まずさで死にそうなのはボクだけか!


アヤメ様にとって、ボクは眼中には無いみたい。

編入してきたクラスメイトという関係性以上ではない。

いきなりの告白も、どうやらアヤメ様にとってもお嬢様たちにとっても通過儀礼みたいだし。


本当にこんな調子でボクとアヤメ様は恋に落ちるんだろうか。


やがて一行がたどり着いたのは、重厚な彫刻が施された観音開きの扉の前だった。

そばに控えていた制服姿の男性が、恭しくその扉を開けてくれる。


そして、案内された場所に、ボクは再び言葉を失った。

食堂? これが?


ボクが知っている"食堂"とは、発音こそ同じだが、意味は天と地ほども違う別次元の何かだった。


目もくらむほど巨大なシャンデリアが、高い天井からいくつも吊り下げられている。

足元にはふかふかの赤い絨毯がどこまでも続き、歩いても足音ひとつしない。

等間隔に並べられた円卓には真っ白なテーブルクロスがかかり、その上には寸分の狂いもなく銀食器がセッティングされていた。

窓の外には手入れの行き届いた庭園が広がり、蝶ネクタイを締めたウェイターたちが、優雅な所作で生徒たちの間を行き来している。


どこかの国の迎賓館か、超高級ホテルのメインダイニングにでも迷い込んでしまったのか?

ボクがいつも昼食にしているスーパーの特売パン(98円)とは、あまりにも次元が違いすぎる……。


ボクがその光景に圧倒されていると、すぐに一人の給仕係の男性が、完璧な笑顔でボクたちの元へやってきた。


「アヤメ様、皆様、お待ちしておりました。こちらのお席へどうぞ」


案内されたのは、庭園が一番美しく見える窓際の特等席だった。

席料とか取られるんじゃないだろうな、とボクがくだらない心配をしていると、給仕係は全員が着席したのを確認し、優雅に一礼した。


「皆様、本日のお食事はいかがいたしましょうか?」


その言葉に、ボクははっと我に返った。そうだ、注文しなければ。

しかし、メニューはどこにあるんだ? テーブルの上にも、壁にも、それらしいものは一切見当たらない。


「わたくしは……、そうね。 Blanquette de veau au riz safrané をいただくわ。……それと、ご存知でしょうけれど、わたくしは酸味が苦手ですの。お料理にレモンやビネガーは一切使わないよう、シェフに念を押してくださる?」


日本語でお願いします?!なんでフランス語で言うの?!執事さんも見るからに日本人っぽいよ?仔牛のブランケットで通じるんじゃない?!

アヤメ様に限って、決して格好つけてフランス語で言ったのではないと思うけど、メニューがわかんないから同じのにしようと思ったボクは大混乱だ!


ボクがパニックに陥っていると、アヤメ様の隣に座っていた生徒が、さも当然のように口を開いた。


「わたくしは、帆立のポワレとアスパラガスのソテーにするわ。ソースは爽やかなレモンバターでお願いね」

「かしこまりました」


今度は別の生徒が続いた。


「では、わたくしはキッシュ・ロレーヌにするわ。たっぷりのグリーンサラダを添えてくださる?」

「承知いたしました」


待ってくれ。なんでみんな、メニューもないのに呪文みたいに料理名をスラスラと言えるの!?

もしかして、この学園では日替わりランチの献立をすべて暗記してくるのが常識だったりする!?


ボクの頭の中を、知っている料理名が駆け巡る。

カレーライス? ハンバーグ? オムライス? ダメ、そんな庶民的な単語、この神聖な空間で口にしていいはずがない!

次々と注文が決まっていく中、ボクの焦りは限界に達していた。


そして、ついに給仕係の柔らかな視線が、ボクへと向けられた。


「お客様は、何になさいますか?」


クラスメイト全員の、期待に満ちた視線がボクに突き刺さる。


どうする。何を頼めばいいんだ。

ボクは必死に何かを言おうと口を開いたが、出てきたのは声にならない、か細い空気の音だけだった。

見かねたのか、給仕係がにこやかに助け舟を出す。


「本日、お魚料理でしたら、真鯛のヴァプールをご用意しております。ソースはハーブの香る白ワインのソースでございますが、いかがでしょうか?」


ボクは救われた思いで、首がもげるほど縦に振った。


「は、はい! それでお願いします!」


インカムから『ククク』とカケルの笑い声が聞こえてくるが、こっちは必死なんだよ!と叫びたくなる。


注文すると、やがて銀食器と共に、信じられないほど美しく盛り付けられた料理が運ばれてきた。

ボクの目の前には、絵画のように彩り豊かな魚料理が置かれている。

そして、同じテーブルに座るアヤメ様の前には、ひときわ手の込んだメインディッシュ、高級フレンチの肉料理が鎮座していた。


あまりの場の雰囲気に、フォークとナイフを持つ手が子鹿のように震える。マナーなんて知らないぞ。どうやって食べるの、これ……。

ボクが緊張の極みに達していた、その時だった。


耳元のインカムから、あの悪魔の声が囁いた。


『パパ、絶好のチャンスです!』


何のチャンスだよ! ボクは今、処刑前の最後の晩餐みたいな気分で、味なんて分かりっこない高級料理と格闘してるんだよ!


『パパ、ママのランチに醤油を丸々一本かけてください!』


思わず吹き出しそうになるのを、必死でこらえた。はああああ!? どういうこと!?

ただでさえ告白して気まずいのに、これ以上嫌がらせみたいなことできないよ!

アヤメ様に軽蔑されるどころか、この場で警備の人を呼ばれて追い出されるよ!?


『"塩分過多バグ"です! 味覚と感情をバグらせ、強制会話イベントを発生させます! これは必須チャートです!』


なんでも"バグ"とか"チャート"とか言ったら許されるわけじゃないからね!聞いたことないよ?"塩分過多バグ"って何?

そりゃ、会話イベントは発生するだろうね!でもそれは好意なんか欠片もない、尋問っていう棘を一本ずつ刺されるような会話だよ!

ボクがさすがに、その指示には従わないことを察したのだろう、カケルは決め台詞を言う。


『……やらないと、世界が滅びますよ?』


くそっ、それが一番の脅し文句だって分かってて言ってるな! ああ、もう、知らない! どうにでもなれ!

世界が滅びるくらいなら、嫌われたほうが、まだマシ……! どうせダメで元々だもの!


ボクは覚悟を決めると、震える手でテーブルの上にある調味料のセットに手を伸ばした。


――っていうか醤油はどれ!? こんな異世界みたいなテーブルに醤油とかあんの!?


どうして全部、中身が見えないおしゃれな陶磁器の容器に入ってるの? せめてテプラで「しょうゆ」とか「そーす」とかデカデカ書いておいてよ!

せめてフタを開けて、中を見て色を確認するか、香りを嗅げたら醤油がどれかわかりそうなもんだけど!そんなことしてたら、不審がられちゃう!

ボクはもう勘に頼るしかなかった。一番それっぽそうな容器を手に取ると、すっと席を立つ。


「アサギさん?」


クラスメイトが不思議そうな顔でボクを見る。

その視線を振り切り、ボクはアヤメ様の背後に立つ。アヤメ様は隣の席の生徒と何か話をしてて、まだフォークもナイフも手を付けてない。

後ろに立ったボクにも気づいていないようだ。でも、対面のクラスメイトがじっとこちらを見つめているので、気づくのもすぐか。


躊躇ってる時間は無いな。容器のフタを音もなく取り除く。

彼女の美しい高級フレンチめがけて、容器の中身を躊躇なくぶちまけた。


ドバドバドバッ!


「「「きゃああああああっ!!」」」


食堂中に、生徒たちの悲鳴が響き渡る。

アヤメ様は驚いて、目の前の凶行を見つめていたが、自分の後ろから伸ばされた腕を辿って、振り返る。

そして、静かに、絶対零度の視線でボクを見据えた。


「……どういうつもり、かしら?」


当然の反応だ。"塩分過多バグ"とやらは完全に不発に終わった。

どう言い訳しようか、とボクの頭が高速回転した、その時だった。

料理に、異変が起きた。


ボクがかけた液体――どうやら醤油ではなく、酢だったらしい――と、肉料理のソースが接触した部分から、シュワワワワ!と音を立てて、激しく白い泡が湧き上がり始めたのだ。

シャンパンのように湧き上がる泡は、あっという間に皿全体に広がり、美味しそうだった料理を不気味な泡の塊へと変えていく。

その異常な化学反応を見て、ボクはyoutubeでみたことのあるその様子から、ある毒物の名前をとっさに口走っていた。


「こ、これ……炭酸タリウムでも仕込まれてるんじゃない?」

「炭酸タリウム……?」

「ええ。つまり、毒ってことです。アヤメ様、毒物で暗殺されるところだったみたい、ですよ?」


頭に浮かんだのは、ボクがよく見ている化学系「霧々真衣チャンネル」でやっていた毒物の特集だ。

確か"炭酸タリウム"は無味無臭で水に溶けやすい猛毒。そして重要なのは、その名の通り、あれが"炭酸塩"の一種だということ。

一方で、ボクが醤油と間違えてかけたのは"酢"。つまり酸性の液体だ。


ごく基本的な化学反応。炭酸塩に酸を加えると、中和反応が起きて二酸化炭素が発生する。

そう。今目の前でシャンパンみたいにシュワシュワと不気味に泡立っているこれの正体。

まさにその二酸化炭素……。料理に猛毒が仕込まれていたことを示す、決定的な証拠だったんだ。


その一言で、場の空気が凍りつく。


「まさか!」「毒ですって!?」


近くのテーブルにいた教師が慌てて駆け寄り、盗撮騒ぎでまだ学園内にいた警察(都合が良すぎる!)が呼ばれ、料理は緊急調査に回された。


お嬢様学校での毒殺未遂。しかも、被害者は日本有数の財閥である一条院家の令嬢。どのようなチカラが働いたか知らないが。

結果は、すぐに出た。


アヤメ様の皿にだけ、致死量の無味無臭の毒物"炭酸タリウム"が混入されていたことが判明したのだ。

教室にて待機を命じられていたクラスメイト達がパニックに陥る中、アヤメ様は青ざめた顔で、ボクを見つめていた。

その瞳には、先ほどの怒りはなく、信じられないものを見るような色が浮かんでいた。


「……お礼を、言わなければならないようね。ありがとう。あなたは、毒を見抜いて、私を救ってくれたのね」


いや、違うんです! ボクはただ、"塩分過多バグ"によって強制会話イベントなるものを発生させたかったんです!

――なんて、こちらの一方的な事情を言えるはずもなく、ボクは必死にそれらしい言葉を探した。


「ええ……。なんだか、嫌な予感がして、ご相談もなく、ついやってしまったのです。申し訳ありません」

「いえ。もし相談されていたとしても、間に合わずに一口目は食べてしまっていたかもしれません。あの場では最適な行動だったかと」

「――どうであれ、アヤメ様の身を守れたことを誇りに思います」

「本当に、感謝の言葉もございませんわ。このご恩は決して忘れません。日を改めて、わたくしの気持ちを受け取っていただけます?」


アヤメ様の瞳が、驚きから尊敬と感謝、そして絶大な信頼の色へと変わっていく。

カケルの言う"塩分過多バグ"のこうかはバツグンだ!


『――おかしいわね。あいつに用意したのは――。何か別の――』


ふと、インカムからノイズに混じって、カケルのものらしき囁き声が漏れた。

マイクをミュートし忘れたかのように、それはいつもの少年らしい明るさは欠片もなく、まるで別人……。怜悧な女性の声?


あいつ?とは、ボクやアヤメ様ではないのは確かだろう、そんな言い方はしない。いったいカケルは何を背負っているのだろうか。

けれど、ボクとアヤメ様の恋愛RTAは間違いなく大きく前進した。カケル流に言うなら"大幅な短縮です!上振れましたね!”だろうか。

世界の破滅は近く、ボクはまだ蒼い瞳を開く勇気もなく、今はただ、カケルの指示に従うまでだ。


こうしてボクは、アヤメ様の命を救った救世主として、一躍、学園中の注目を集める存在となってしまったのだった。



:: [ 24:05:21 ] :: ケツワープと隠しスキル解放



二日目の朝。


ボクが聖アストライア女学園の校門をくぐると、昨日とは明らかに違う空気が流れているのを感じた。

すれ違う生徒たちが、ボクの顔を見ては「まあ……」「あの方が……」と息を呑み、遠巻きにひそひそと噂を交わしている。

向けられるのは、好奇心だけではない。畏怖と、尊敬のような眼差しだった。


やめてほしい。そんな目で見ないでほしい。ボクはただのしがない男子高校生なのに!


居心地の悪さに身を縮こませながら教室に入ると、すでに席についていたアヤメ様が、ボクの姿を認めてふわりと微笑んだ。


「おはようございます、アサギさん」


昨日までの、他者を寄せ付けない完璧な微笑みとは違う。どこか親密さを感じさせる柔らかなそれに、ボクの心臓がトクンと大きく跳ねた。


「お、おはようございます……」

「昨日は、本当にありがとうございました。あなたがいなければ、わたくしは今頃……」


真剣な瞳で改めて感謝され、ボクはしどろもどろになるしかなかった。

違うんです、あれは恋愛RTAチャートらしいんです! と叫びたい気持ちを必死に押し殺す。

本日も、登校前にカケルに拉致されて、女装されて、耳にはしっかりインカムがセットされている。


--妙に意味深なことをカケルは言ってたな。


「パパ、気をつけてください。どうやら違う世界線からの妨害があるみたいです」

「どういう意味?」

「まだ詳しい事はわからないんです。でも、今は続けるしかありません」


心配そうにしてるカケルに背中を押されて車を降り登校してきたが、いったいなんだっていうのだろう。


しかし、そんなボクたちの不安とは裏腹に、アヤメ様の態度は明らかに変わった。

休み時間になるとボクの席へやってきて親しげに話しかけ、「授業でわからないことはありませんか?」と質問してくる。

その度に、クラス中から嫉妬と羨望の視線が突き刺さって、ボクの胃はキリキリと痛んだ。


昼休み前の授業が終わった直後だった。

アヤメ様が担任教師に呼ばれ、少しだけ席を外す。教室を出る前に、アヤメ様から待っているように言われた。


「すぐに戻りますので、お待ちいただけます? 昨日の事もありますから、お弁当を持参しております。アサギさんの分も、ご用意しました。わたくしの拙い手料理で恐縮ですけれど、ご迷惑でなければ、ご一緒させていただけないかしら?」

「は、はい!お待ちします!」


もちろん、断ることはない。

アヤメ様が作った手作りお弁当! 令嬢でもお弁当を自分でつくるの?! さすがアヤメ様!

ボクが日頃に食べてる料理なんかとは違って豪華に違いない! これを食べずに世界を滅ぼしてなるものか!

結局、昨日はあの食堂での豪華な料理は食べられなかったし。今日こそ美味しい料理を食べるんだ!


教室から出ていくアヤメ様の背を見送って、静かに待っていようとしたが。

その瞬間を、まるでハイエナのように待っていた連中がいた。


髪を縦ロールにした女子生徒を筆頭とする三人組が、ぬるり、とボクの席を取り囲んだ。

実在したんだ! 縦ロールって! ちょっと感動かも。こんな立派なのは、コスプレイヤーさんでしか見たことない!


「ごきげんよう、アサギさん。"ご忠告"さしあげますわ」


リーダー格の縦ロールが、ねっとりとした笑顔で話しかけてくる。

その目は全く笑っていない。うわー、テンプレだ……。ボクは内心でうんざりした。


「急に現れて、アヤメ様のお気に入りになるなんて、一体どんな手を使ったのかしら?」

「わたくしたち、アヤメ様とは幼い頃からのお付き合いですのに、昨日今日来た方に先を越されるなんて、心外ですわ」


ボクは何も答えず、ただ黙っていた。この恋愛RTA作戦は、短期決戦。こんな陰湿なやりとりに、心をすり減らすだけ時間の無駄。

ボクの態度が気に食わなかったのか、一人が机の上に置いてあった直前の授業の教科書を、わざとらしく腕で払いのけた。


バサリ、と音を立てて教科書が床に落ちる。


「あら、ごめんなさい。手が滑ってしまいましたわ」


そう言いながら、ボクをにやりと笑う。そして、別の一人が、ミシリと教科書を踏みつけた。


「あらあら、何か落ちていますわ。気が付きませんで」


陰湿すぎる!こわっ!これが女社会の恐ろしさなの?

ボクがそれでも無言を貫いていると、リーダー格の縦ロールが、心底楽しそうに口元を歪めた。


「……まだ、黙っていらっしゃるのね。その澄ましたお顔、わたくし、嫌いではなくてよ。いつまでその余裕が続くのか、見てみたくなりましたわ」


彼女は一歩近づき、ボクの耳元で囁くように続けた。


「アヤメ様に近づきすぎる方には、いつだってよろしくない"事故"が起きるものですから。あなたは、ご自分の立場を理解なさった方がよろしくてよ?」


別の一人が、クスクスと笑いながら言葉を継ぐ。


「ええ、本当に。例えば……大切な教科書が、ある日突然なくなったり」

「上履きが、なぜか焼却炉の中で見つかったりもしますわね」

「あら、怖い。それに、根も葉もない悪い噂が、いつの間にか学園中に広まっている、なんてこともありますわよ?」

「夜な夜な繁華街でよろしくないお相手と遊んでいる、かしら?」


縦ロールが、ボクの髪を指先で弄びながら、うっとりとした声で言う。


「階段で、うっかり足を滑らせてしまう、なんてこともありますわ」

「まあ! たいへんですわ! 打ち所が悪ければ、せっかくのお顔に傷がついてしまうかもしれませんわね!」

「わたくしたちは、あなたがここにいること自体を、耐えられない苦痛にして差し上げることができますのよ。お分かり?」


犯行予告かな?

今のしっかり録音しておけば、警察に被害届出せるレベルじゃないか?

インカム越しにカケルが録音してくれてたりしないだろうか。

その時だった。教室のドアが静かに開き、アヤメ様が教室に戻ってきた。


「お待たせしましたわ、アサギさん。――あら? どうかなさいましたか?」


三人組はさっと表情を変えると「では、ごきげんよう、アサギさん」と優雅に一礼し、何事もなかったかのように自分の席に戻っていく。

その変わり身の速さに、ボクはもはや呆れるしかなかった。


「い、いえ。なんでもありません。少しお話してただけです。行きましょうか?」

「ええ……」


少し心配そうに見つめるアヤメ様に声をかけてから、ボクは床に落ちた教科書を拾おうと、ボクが身を屈めた。

その瞬間、耳元のインカムからカケルの声が響いた。


『パパ、チャンスです!』


チャンス? 何の? この胸糞悪い嫌がらせのどこにチャンスの要素があるっていうの?


『パパ、今すぐ後ろにお尻を突き出すように吹き飛んでください! 出来る限り派手に! 大げさに! 叫びながら!』

「なんで?!」


あまりの指示に、またしても声が漏れてしまった。

アヤメ様が「アサギさん?」と気遣わし気な声をかけてくれるが、教科書を拾おうとして身を屈めたままにして、その顔は見ない。見れない。

すごい表情になってる自覚があるから。カケル!いい加減にして!この状況でいったい何を!?


「い、いえ! なんでもないです!」


ボクは必死にごまかし、教科書を拾うふりをしながら、カケルの説明を待つ。


『"Backwardsバックワード LongJumpロングジャンプ"です! RTAにおいて最もポピュラーな技ですよ! いわゆる"ケツワープ"ですね! 壁の向こうに隠された イベント発生フラグが設定されたフロアパネルを踏み、さっきの敵対NPCたちのヘイトを初期化! さらに、ママの親密度がバグってMAXになります!』


意味が、まったく、わかんないよ!


しかし、もうカケルの無茶な指示に従うことは、昨日の件で、覚悟は決めている。

きっと未来を知っているカケルが言うのだから、世界の破滅を回避するために、絶対に必要な事なんだろうと、疑う気持ちにフタをした。

これが世界の命運を左右するというのなら、やるしかない。


カケルの指示は『後ろにお尻を突き出すように吹き飛んで』だったかな。しかも派手に!っていう注文付きで。

思い描いたのは、ボクに古武術の神髄を叩き込んだ師匠とのやり取り。


『聞け、アサギ。人は前を見て歩むもの。故に、前こそが力の向かう先と信じて疑わぬ。だがな、それは身体の摂理を解しておらぬ者の浅知恵よ。人の体はな、退くことでこそ、最大の力を生むように造られておるのだ』

『え、そんなわけないじゃないですか、前に走ることはあっても、後ろに走る人はいないでしょう?』

『人を人として見るな。その形を、その構造を、一つの"物"として捉えよ。万物を動かす理は、芯と芯とを結ぶ線上にある。力の発露は、常にその線上を辿るものよ。人たる所以か、その踵は大地に着いておる。踵を浮かせた獣の如き爆発的な前進には向いておらぬ。しかし、だ。後ろへ退く理は異なる。膝を折り、屈めば、そこが即ち"獣の踵"が如く。蓄えた力を一気に解き放つに、これ以上の形はあるまい』

『でも、敵に向かってお尻から向かって行っては危険では?』

『よいか。前へ進み、敵を討つ。そのようなものは、術の初歩に過ぎぬ。出来て当然の理よ。真の勝機とは、常に正面にあるとは限らぬ。ことに、衆敵に囲まれたる折、前のみを見つめるは愚者の所業ぞ。心に刻め、アサギ。敵が"背後を取った"と勝ち誇り、その心に油断という隙が生まれた瞬間、そやつこそが、最初に屠るべき贄となるのじゃ』


「アサギさん、どうかなさいまして?」


心配そうに声をかけてくるアヤメ様の声に、現実へと戻された。あの辛い修行の日々は、今、この時のためにあったのか!

あのときはよくわかってなかったけど、今になって、ようやくわかったよ、師匠! 今こそ師匠の教えの通りに、後ろへと!


ボクは深く、低く、身をかがめた。

師の言葉が脳裏に蘇る。『膝を折り、屈めば、そこが即ち"獣の踵"となる』。

その教えに従い、ボクは自らの膝を、大地を蹴るための新たな踵として意識する。


まるで強弓を引き絞るように、ぐぐっと膝を起点に力を溜め込んでいく。

大腿四頭筋だいたいしとうきんを始めとする脚の前面の筋肉群が、ギチギチと音を立てるかのように張り詰める。

凄まじいエネルギーを蓄えていくのが分かった。


さらに、身をぐぐっと沈み込ませ、意識的にお尻を後ろへ突き出す。

これでいい。重心の核と、力の起点である"獣の踵"、そして後方へと進むべきベクトルが、完全に一直線上に結ばれた。


やわら、ボクはヤケクソ気味に叫んだ。


「いやっふうぅ!」


――そして、解放。


蓄えられた全ての力が、一気に解き放たれる。大地を蹴った、という感覚はなかった。

むしろ、足元で起きた爆発によって、ボクの体が後ろへ向かって真っすぐ「吹き飛ばされた」という方が正しい。

視界が、一瞬でブレる。それは跳躍というより、水平に射出された砲弾だった。


「アサギさん!?」


アヤメ様の悲鳴と、クラスメイトたちの「きゃあ!」という叫びが背中に突き刺さる。

このままでは、壁に激突する! 痛いだろうな! でも、もうどうにでもなれ!

ボクが固く目をつぶった、その瞬間。


壁の手前で、ボクの突き出したお尻は、目には見えない“何か”に、ゴッ! という鈍い音と共に激突した。


ぶつかった空間が、まるでテレビの砂嵐のようにバチバチと音を立ててノイズを走らせる。

すると、そこには誰もいなかったはずの空間から、全身黒ずくめの特殊部隊員のような男が、呻き声を上げながら姿を現した。


(誰!?)


ボクは黒ずくめの男にぶつかった反動をうまく生かして、地面に着地しながら身をぐるりと回して、黒ずめの男に飛び掛かれるように身構える。

姿を偽って潜入してるボクが言うのもなんだけど、姿を隠して令嬢だけが存在を許された花園に潜入するなんて、きっと悪い奴だ!


(っていうか、光学迷彩……! スパイ映画みたい!)


内心で舌を巻いた。

前にミリタリー系のYouTubeチャンネルで見た、実用化されたばかりのスパイ映画さながらの最新式装備だ。

こんなもの、そこらの犯罪者が手に入れられる代物じゃない。この不審者は、本職の暗殺者か!


黒ずくめの男はボクの突然の攻撃に驚きつつも、即座に体勢を立て直し、状況を冷静に分析している。

その冷徹な双眸が捉えているのは、ボクじゃない。――アヤメ様だ。

男の意識が一瞬だけ、任務の障害であるボクを確認。そして、本来の標的であるアヤメ様へと移るのがわかった。


その一瞬の隙を見逃さなかった。ボクから目を放したな!

男の右手が懐のホルスターに動き始めるのとまったく同時に、ボクの体は思考より先に動いていた。


腰、背骨、肩甲骨などを連動させた全身の"うねり"や"たたみ"といったチカラを上手く連動させて、爆発的な推進力を一瞬で得る。

その様子は、まるで仙術の縮地のように。師匠が言うように『前へ進み、敵を討つ。それは術の初歩』だ。


ボクは一気に間合いを詰めると、銃が抜き放たれるよりもコンマ数秒早く、男の懐に滑り込む。

狙うは、銃を握る右腕。ボクは体重を乗せた手刀を、男の小手、つまり手首の急所に正確に打ち込んだ。


「ぐっ……!?」


衝撃で男の指から力が抜け、銃のグリップが緩む。


さらに深く身を沈め、男の懐下ふところしたにもぐり込む。

男が眼下のこちらの姿を見失い、戸惑う一瞬の間隙を突き、全身のバネを使って地面を蹴り、真上へ弾けるようにして伸び上がる。

その勢いのまま、指を揃えた貫手ぬきてを敵の喉仏のどぼとけめがけて突き上げるようにして強烈な当身を放つ。


「ぉごっ……!?」


男が喉を圧迫され押し出された空気が妙な声を押し出す。


それと同時に、指を開いて鷲掴わしづかみの形に切り替え、敵の喉をがっしりと掴む。

そこから一切の力を緩めることなく、突き上げた勢いを殺さず、さらに膝を伸ばし切ることで敵の体を喉一点を起点として吊り上げる。


――この技の名を、騰喉とうこうという。


敵は喉への激痛と圧迫による呼吸困難に加え、足が宙に浮き、あるいは爪先立ちの状態にさせられる。

完全に体勢を失い、抵抗する術なく無力化される。小柄な者が大柄な敵を制するために編み出された、一撃必殺の奇襲技である。


男は意識を失い、その身体から力が抜けたのを感じ、ボクが力を抜くと、そのまま横倒しに崩れ落ちた。

すぐさま、床に倒れ込んだ男の上に乗りかかると、関節を極めたまま体重をかけ、完全に制圧した。


あっという間の出来事に、教室は水を打ったように静まり返っていた。

アヤメ様は、目の前で起こった信じられない光景と、自分を守るように敵の前に立ちはだかるボクの姿を、ただ呆然と見つめるだけだった。


『パパ! うまく行きましたか? 怪我をして敵対NPCからも同情を誘い、保健室でママと2人っきりになれるはずです! ……パパ?』



:: [ 31:33:06 ] :: フラグ回収と強制ルート分岐



けたたましいサイレンの音が止み、犯人が連行された。


聖アストライア女学園を包む興奮と混乱の余韻は、まるで熱病のように燻り続けていた。

けたたましく飛び交う警察官たちの声、生徒たちの不安げな囁きが混じり合い、学び舎は瞬く間に喧騒の渦に飲み込まれていく。


当然、午後の授業はすべて中止。

生徒たちは、非日常的な出来事に高揚した者、恐怖に青ざめた者、それぞれの表情で家路へと散っていく。


(アヤメ様は……? この状況で、まさか何も言わずに帰られては困る……!)


焦燥に駆られ、ボクは人波をかき分けるようにして彼女の姿を探す。

ボクと彼女の間に横たわる、見えない壁を取り払うための時間は、もう幾ばくも残されていない。


しかし、ざわめき立つ人混みの中、蝶のように優雅な彼女の立ち姿はどこにも見つけられない。

まるで、この喧騒そのものがボクたちの間を隔てる障壁であるかのようだった。


アヤメ様との絆を深め、信頼を勝ち取るために用意されていたはずの貴重な午後の時間が、音を立てて崩れ去っていく。

掌から零れ落ちる砂のように、もう二度と取り戻せない時間が。


頼みの綱であるはずのカケルは、ボクが状況を報告してから、沈黙ミュートしたまま。きっとあわてて恋愛RTAチャートを見直しているのだろう。

八方塞がりの状況に、思わず天を仰ぎかけた、その時だった。


「アサギさん」


雑踏のざわめきを切り裂くように、凛とした声が鼓膜を震わせた。決して聞き間違えるはずのない、澄んだ声。

弾かれたように振り返ると、人混みの切れ間に、探していたアヤメ様が静かに佇んでいた。


その美しい瞳が、まっすぐにボクを射抜いている。だが、そこに宿る光は、今までボクが知るものとは全く異質だった。

今朝、ボクに注がれた敬意と信頼に満ちた柔らかな眼差しは消え失せて。

今はただ、氷のように冷たく、研ぎ澄まされた切っ先のような鋭い光がこちらに向けられている。


「少し、お話ができませんこと? ……学園の喫茶室にて、お待ちしておりますわ」


それは疑問の形を借りた、抗うことのできない命令だった。有無を言わさぬ響きが、ボクの心臓を鷲掴みにする。

アヤメ様はそれだけを告げると、スカートの裾一つ乱さず優雅に一礼し、まるでボクの返答など不要とでも言うように踵を返した。


残されたボクは、彼女が消えた空間を呆然と見つめ、立ち尽くすしかない。

何が起きた? どうして、こんなことに? 状況は昨日と寸分違わぬはずだ。

またしてもボクは、彼女の命を救った。ならば、昨日以上の感謝と信頼で迎えられるはずではなかったのか。

胸を支配するのは、安堵ではなく、理解不能な現実を突きつけられた者の、冷たい困惑だけだった。


『パパ、これは重要イベントです! 必ず行ってください! ママの親密度がさらに上がりますよ!』


耳元のインカムから、カケルの声が聞こえてくる。

言われるまでもなく、ここは応じるしかない。ボクは帰り支度を済ませて、喫茶室に向かう。


しかし、気になるのはカケルのことだ。


さっき暗殺者のことを報告したら、慌てふためき、地声で『話が違う!』と漏らすのが聞こえてきた。すぐに誤魔化してたが、ボクの耳は聞き逃さなかった。


『話が違う』……?


カケルは確かにそう言った。まるで、誰かと交わした約束や、渡されていた脚本と、未来の展開が違うとでも言うように。


だとしたら……?


昨日の毒殺未遂も、さっきの最新装備を身につけた暗殺者も、カケルの言う「恋愛RTAチャート」にはなかった、想定外の出来事だったということか?

未来から来た息子はいったい何を抱えてる?


いや、今はそれを考える時じゃない。


確かなことが一つだけある。アヤメ様を狙う、本物の殺意が存在するということだ。

アヤメ様を、この底知れない悪意から守るために。ボクが、そばにいなければ。いざとなれば、二度と開かないと誓った蒼い瞳を……。


ボクは重たい足取りで、溜息とともに、豪華絢爛な喫茶室へと向かうしかなかった。


喫茶室は、これまた高級ホテルのラウンジのような、現実離れした空間だった。窓の外には手入れの行き届いた薔薇園が広がっている。


他の生徒は、アヤメ様に遠慮しているのか、あるいはあの騒ぎのせいで、怖がって帰ってしまったのか、誰一人いない。

まるで貸し切り状態の窓際の席で、アヤメ様はすでに席につき、優雅に紅茶を飲んで待っていた。

その姿は一枚の絵画のように完璧で、ボクは緊張で喉がカラカラになった。


「お待たせしました……」

「いいえ。わたくしの方こそ、突然お呼び立てして申し訳ありません。どうぞ、お茶をご用意しておきましたわ」


アヤメ様はそう言うと、ボクの目の前のカップを指し示した。ボクの分の紅茶も、すでに用意されているらしい。

ボクが恐る恐る席につくと、彼女は改めて感謝を口にした。


「また、あなたに救われましたわ。まずは心より御礼を申し上げます。……この身なれば、殺意を向けられることも一度や二度ではございません。けれど、あれほど肌寒い思いをいたしましたのは初めてのこと。あなたのおかげですわ、本当に、ありがとうございます」


そう前置きのように伝え、一呼吸置いたのちに、アヤメ様は本題に入る。


「……失礼を承知でお尋ねしますわ。わたくしの危機を察知し、そしてあの常人離れした体術。アサギさん、あなたは一体、何者ですか?」


うん。まあ、当然の疑問だと思う。ボクも聞きたいくらいだ。

あなたとボクの息子からの指示で、あなたを三日以内に恋に落とそうとしてます、なんて言えない!


「毒を見抜き、そして見えない敵の気配まで察知するなんて……。とても、普通の方ではございませんわよね?」

「いえ、あれはたまたまでして……」

「学園長から聞きましたわ。難しいことで知られている我が学園の編入試験を、たった十数分で解いて、しかも当然のように全問正解と」


いえ!たぶん、カケルが何か手をまわして試験内容をすり替えてたんだと思います!だって簡単だったし。


「――ほんとうに不思議な方だわ」


じっとボクを見つめるアヤメ様。ボクの背中を冷たい汗が伝った。

普通じゃないのはカケルのせいだ! ボクは、しがない男子高校生で、至って普通なんだ!


「い、いえ、ボクは……その、たまたま"勘"が鋭いだけで……本当に、ただの偶然で……」


しどろもどろにごまかすボクを、アヤメ様はじっと見つめている。

その瞳は、すべてを見透かしているかのようだ。

しかし、彼女はそれ以上は追及せず、意味深に微笑んだ。その微笑みが、逆にめちゃくちゃ怖い!


「ふふ、そうですの。あなたの"勘"に、助けられたのですね。以前も申し上げましたが、きちんとお礼を考えますので」

「いえ!そんな!お礼なんてもう十分に――」

「――それから、警察の方から少しだけ情報が入ってまいりましたので、お伝えしておきますわ。まず、わたくしのランチに毒を盛ろうとした犯人ですが、今も学園内の関係者を中心に調べてくださっているようですが、まだ誰の仕業か、皆目見当もついていないとのことです」


おっと、意図的に話をすり替えられてしまったが、しかし、気になってたことではある。

毒という証拠を残してしまっているのだから、内部関係者の中に限れば、その入手経路からすぐに犯人はわかりそうなものだ。


「そして、あの…不可視の暗殺者に至っては、深刻ですわ。身柄は確保されたものの、身元も国籍も不明。そして、今は完全な黙秘を続けていて、動機や背後関係など、一切の事情がわからない、と…。捕らえたというのに、まるで手掛かりがないのです。とても、気味が悪い状況ですわ」


確かに気味が悪い。もしこのタイミングでボクというイレギュラーが介在してなかったら、きっとアヤメ様はすでに殺されていただろう。


カケルに導かれ、ボクという存在がアヤメ様の前に座っているこの状況はは偶然か?


それとも、カケルのいう"世界の滅び"とはアヤメ様の死がトリガーになって始まり、カケルはアヤメ様を助ける事で世界を救おうとしてるのか?


ありえない話じゃない。この世界は、目に見えないほど小さな"弦"が奏でる音色、そのたった一つの響きがズレるだけで、次の瞬間にはすべてが無かったことになる……そんな奇跡みたいな均衡の上で、かろうじて成り立っているんだから。


「そう、ですか」


なんと言ってよいかわからず、気まずい沈黙が流れる。ボクはそれを紛らわすように、目の前の紅茶を一口飲んだ。

その瞬間、芳醇な香りが鼻腔を抜け、上品な甘みが口の中に広がった。


「この紅茶、すごく美味しいですね」


それは、ごまかしではなく、心の底から漏れた本音だった。その言葉に、アヤメ様の目がキラリと輝いた。


「まあ! お分かりになりますのね! さすがですわ、アサギさん」

「え?」

「ちょうどよいですわ。わたくし、おすすめの紅茶専門店がございますの。よろしければ、お礼に、そこのお茶の葉をプレゼントさせていただけませんか?」


え? プレゼント?


ボクが思考停止していると、彼女はとどめを刺すように、完璧な笑顔で言った。


「一緒に行きましょう。わたくしがご案内しますわ」


これは、もう、完全に、デートのお誘いじゃないか!?


『やりましたねパパ! デートフラグ回収です! もちろんOKしてください! RTAチャートが大幅に短縮できます!』


インカムから聞こえるカケルの興奮した声。お前、まだいたんか!やけに遠くに聞こえるがなんでだ?

ただ、はっきりしているのは、この状況で、ボクに「NO」という選択肢は存在しなかった。


「は、はい……ありがとうございます……」


頷くのが精一杯だった。

アヤメ様は満足そうに微笑むと、「では、参りましょうか」と立ち上がり、ごく自然な動作で、ボクの手を取った。


「!?」


触れた手の、信じられないくらいの柔らかさと温かさに、ボクの心臓は爆発寸前まで跳ね上がった。


うわああああ! 手を! アヤメ様に手を繋がれてる!


ボクはもうされるがまま、アヤメ様に手を引かれて、学園の地下にある送迎用の駐車場へと向かった。

そこには、ため息が出るような高級車がずらりと並んでいる。生徒の帰りを待つために、運転手用の控室まで備えているとか。


すでに連絡してあったのだろう。アヤメ様とボクが駐車場にやってくると、一台の高級そうなリムジンが車寄せに滑り込むように入って来た。

そして、運転席から男性が降りて――、しかしアヤメ様の様子がおかしい。「あら、村上はどうしたのかしら?」と呟くのが聞こえた。


その瞬間だった。リムジンのドアが次々に開き、複数の黒服の男たちが、獣のような速さで飛び出してきたのだ。


「なっ!?」


あっという間に、ボクたちは取り囲まれていた。ボクは咄嗟に、黒服の男たちを迎撃しようと身構えようとしたが、ボクの手を握っていたアヤメ様がボクに身を寄せて、腕にしっかり抱きついてきたので、動けない!


ふあぁぁ!何とは言わないけど!すごい!

振り払って、男たちを迎撃したいけど、これを振り払うなんてとんでもない!


男たちは、ボクとアヤメ様の顔を見比べて、困惑したように呟く。


「どっちだ? どっちがターゲットなんだ?」

「ちっ」


リーダー格らしい男が、苛立ったように舌打ちした。


「二人とも連れて行け! 目撃者は消す予定だった、好都合だ!」


その叫び声と同時に、ボクとアヤメ様は屈強な腕に捕らえられ、口に布を押し当てられる。抵抗する間もなく、意識が急速に遠のいていく。

薄れゆく視界の中、ボクは(これもカケルの恋愛RTAチャートの内なのか……?)と、もはやどうでもいいことを考えるのだった。



:: [ 33:12:54 ] :: スキップ不能なムービーシーン



意識の淵からボクを現実に引きずり戻したのは、骨の芯まで響くような不快な振動だった。

こめかみの奥がズキズキと痛み、ざらついた布の感触が視界を完全に奪っている。目隠しだ。


ボクたちを乗せた車は、舗装もされていない悪路を猛スピードで疾走しているのか、暴力的な振動を絶え間なく繰り返していた。

その中で、すぐ隣から聞こえる、か細く、しかし懸命に平静を保とうとしている呼吸の音だけが、ボクの意識を繋ぎとめている。


やがて、急ブレーキと共に車は停止した。

荒々しい腕がボクたちの体を掴み、まるで荷物のように車外へと引きずり出した。


目隠しで何も見えない闇の中、足元で砂利が砕ける感触と、鼻をつく濃いカビと埃の臭いが、ここがまともな場所ではないことを告げていた。

ギイィィ、と耳障りな音を立てて重い鉄の扉が軋み、ボクたちは冷たく硬いコンクリートの床に容赦なく転がされる。

衝撃に呻く間もなく、誰かがボクの顔に近づき、目隠しを乱暴に剥ぎ取った。


チカチカと瞬く、弱々しい裸電球の光が目に飛び込んでくる。

慣れない光に細めた目の先に広がっていたのは、窓一つない、殺風景なコンクリート打ちっぱなしの倉庫だった。


隣では、同じように目隠しを外されたアヤメ様が、驚きと恐怖にその美しい瞳を大きく見開いていた。

いつも完璧に結い上げられている髪はわずかに乱れ、白いブラウスには土埃が付いている。

手足は、その華奢な体にはあまりに不釣り合いな荒縄で、固く縛られたままだった。


バタン、と扉が閉まり、ガチャリ、と絶望的な響きを伴って鍵がかかる。

男たちの足音が遠ざかり、鉛のように重い、完全な静寂が訪れた。


喉の奥から、乾いた声を絞り出す。


「アヤメ様! 大丈夫ですか!?」

「アサギ……さん……?」


彼女の声はかろうじて平静を保っていたが、その顔は青ざめていた。

ボクたちは視線を交わし、自分たちが置かれた絶望的な状況を改めて確認する。

彼女は一度唇をきつく結び、恐怖を理性で押し殺すかのように、ゆっくりと息を吐いた。

さすがというべきか、その瞳には、すでに冷静な分析の色が戻り始めていた。


「どうやら……誘拐されてしまったようですわね」

「ええ。そうみたいです。ごめんなさい、ボク、アヤメ様を守れなくて――」

「いいえ。狙いは、おそらくわたくしです。アサギさん、あなたを巻き込んでしまって……本当に申し訳ありません」


ボクは、彼女のその気丈さに胸を突かれながら、「いえ……」と力なく首を振ることしかできなかった。


正直に言おう。

これもカケルの言う"恋愛RTAチャート"で仕組まれたイベントか何かじゃないかと疑っている。


そうでなければ、あまりに非現実的じゃないか。

アヤメ様が日本有数の財閥お嬢様とは言え、これほど短い期間に、毒や暗殺で命を狙われ、ついには誘拐までされるわけがない。

それが当たり前な日常なんだったら、アヤメ様が今まで生きてたのも不思議なくらいだ!


ボクは必死に耳元のインカムに意識を集中させるが、返ってくるのは虚しいノイズだけ。

遠くまで運ばれてしまったので、カケルとの通信可能な範囲から出てしまったのだろうか。

あるいは、ボクたちが誘拐されていくのを把握した上で、次の作戦でも考えているのだろうか。


重苦しい沈黙が、狭い部屋に満ちる。


その時、ボクは隣のアヤメ様の異変に気づいた。

気丈に振る舞ってはいるが、その美しい肩が、ブルブルと小刻みに震えている。


「アヤメ様……? 震えています。どこか怪我などされましたか?」


ボクがそっと声をかけると、彼女の完璧な仮面が、音を立てて崩れ落ちた。


「ごめんなさい……っ」


その声は、ボクが知っているアヤメ様のものではなかった。まるで、暗闇に怯える幼い少女のような、弱々しく、か細い声だった。


「わたくし……本当は……こわくて、しようがないのです……!」


絞り出すような声と共に、彼女の大きな瞳から涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。

その痛々しい姿に、ボクは胸が締め付けられるようだった。


「お願い……です……」


彼女は涙に濡れた瞳で、懇願するようにボクを見つめた。


「もっと、近くに……来てくださいませんか……?」


その一言は、ボクの心を強く揺さぶった。

ボクは縛られた体のまま、床を這うようにして、彼女の隣へとにじり寄った。


「……っ」


アヤメ様は、震える体をボクに預けるように、そっと身を寄せた。肩と肩が触れ合う。

彼女の体の震えと、冷たい部屋の中での確かな温もりが、ダイレクトに伝わってきた。

アヤメ様が、ぽつり、と呟いた。


「わたくし、本当は……強くなんてないのです」


その声に含まれた悲痛な響きに、ボクは息を呑んだ。


「いつも、周りの目が怖かった。わたくしを『一条院家の跡取り』としてしか見ない人たち。利用しようとする人たち。陥れようとする人たち……。だから、完璧でいなければならなかった。誰にも隙を見せてはいけないと、淑女であろうと、必死に自分を演じてきました」


それは、ボクが今まで知らなかった、彼女の悲痛な告白だった。

あの完璧な立ち居振る舞いは、彼女が自分を守るために身につけた、重い鎧だったのか。


「でも、本当はずっと怯えていたのですわ。誰かに……誰かに守ってほしくて、たまらなかった……」


嗚咽が、静かな倉庫に響く。


ボクは、胸が締め付けられるような思いだった。

ボクが遠くから憧れて見ていた彼女は、巨大な孤独と恐怖の中で、たった一人で戦っていたんだ。

毒を盛られても、暗殺者に狙われても気丈に振る舞っていた彼女が、今、ボクの隣で、子供のように震えている。


――ああ、そうか。ボクはずっと、勘違いしていたんだ。自分自身の気持ちを、読み違えていた。


ボクには、未来を見るチカラが備わっていた。幼いボクに見えたのは自分を蹂躙する暴力だった。

だから、自分に訪れる暴力に抗うために、師匠に師事して、古武術を身に着け、暴力を退けることが出来た。

ある日、ボクの瞳が蒼く輝くときが来て。きっと未来を見るチカラが成熟したんだろう、あの日の事は忘れない。

今まで見えなかったずっと先のことまで見えるようになって、この世界がどのように滅んでいくのかを見た。見てしまった。


あの日からずっと。ボクは恐怖に縛られて生きてきた。灰色の世界で、無気力に、ただ終わりの日を待つだけだった。


カケルの無茶苦茶な指示に従ってきたのも、憧れの君を守ろうと必死だったのも、すべてはその絶対的な恐怖から逃れるため。

利己的な行動に過ぎなかった。世界の終わりが、ただ怖かったんだ。


でも、違う。

今、ボクに身を寄せて震えるこの温もりは、遠い未来の破滅への恐怖よりも、ずっと、ずっと確かなものとしてボクの心を揺さぶる。


ボクは世界の終わりが怖いんじゃない。

この人が、大切な人が、たった一人で泣いているという、この瞬間が、耐えられないんだ。


守りたい。


その、腹の底から湧き上がってきたたった一言の願いが、今までボクを縛り付けていた恐怖の鎖を、いとも容易く砕いていく。


恋愛RTAとか、世界の滅亡とか、そんなことはもうどうでもいい。理屈じゃない。

ただ、目の前で怯えているこの人を、ボクが守らなければ。


「アヤメ様」


ボクは、できるだけ優しい声で、彼女の名前を呼んだ。


「ボクが、守ります」


何の力もない、しがない男子高校生だ。

ボクには見通せない存在しない未来から来た息子に、今は女装までさせられている、情けない男だ。

それでも、ボクは固く、心に誓った。


「絶対に、あなたをここから助け出します。だから、もう泣かないでください」


ボクの言葉に、彼女の嗚咽が少しだけ、小さくなった気がした。

暗く、冷たい倉庫の中、ボクたちは縛られたまま、静かに寄り添い、まだ来ない助けを待っていた。



:: [ 39:28:11 ] :: ボス戦はダメージ無効化で



どれほどの時が経ったのか。


冷たいコンクリートが容赦なく体温を奪っていく中、ボクたちは互いの温もりだけを頼りに、先の見えない長い時間をやり過ごしていた。

疲労と緊張で朦朧とする意識の淵を漂いながらも、腕の中でか細い寝息を立てるアヤメ様の体を守るように、ボクはずっとそばに寄り添っていた。


その鉛色の静寂を切り裂いたのは、錆びついた鉄が軋む、不快な音だった。


ギイィィ……と、重い扉がゆっくりと開き、逆光の中に立つ数人の男たちのシルエットを映し出す。

埃っぽい倉庫の中に、刃物のように鋭い光が差し込んできた。


ドカドカと、無遠慮な足音が近づいてくる。

その中心にいたのは、高価そうなスーツを着こなし、葉巻を燻らせた初老の男だった。

埃っぽい床には不釣り合いなほど磨かれた革靴。そして、その顔には、追い詰めた獲物を前にした狩人のような、下劣な笑みが浮かんでいた。


「久しぶりだな、アヤメ」


そのねっとりとした声を聞いた瞬間、隣で身じろいだアヤメ様の体が、ビクリと氷のように強張ったのが分かった。

ボクにしか聞こえない、か細い震え声が漏れる。


「叔父様……?」

「まったく、手間をかけさせた。よほど優秀な護衛がいたと見える。予定が少しでも狂わなければ、こんな手荒な真似はせずに済んだものを」

「いったい、なにを……おっしゃって……」

「――しかし、これはどういうことだ? なぜ二人がいる?」


叔父と呼ばれた男は、ボクとアヤメ様の顔を代わる代わる値踏みするように見比べ、怪訝そうに眉をひそめた。

部下の一人が、困惑したように進言する。


「どちらがターゲットの一条院アヤメなのか、我々では見分けがつきかねまして。不用な方はこちらで処分いたしますが」

「……ふん、まあ良い」


叔父は、まるで床に落ちたゴミを払うかのように、気怠げに手を振った。


「用が済んだら、まとめてやってくれ」


その、命を何とも思わぬ冷酷な一言に、ボクの背筋を氷が滑り落ちるような感覚が襲った。

こいつは、ボクはもちろんだが、用が済んだらアヤメ様も躊躇なく殺す気だ。


(どうする? このままでは、アヤメ様が……!)


恐怖で凍りつきそうになる思考を、胸の奥から燃え上がった一つの強い感情が焼き尽くす。


――ボクは、覚悟を決めた。


「叔父様……! なぜこんなことを!」


ボクは、必死にアヤメ様の声色を真似て、叫んだ。

隣のアヤメ様が息を呑む気配がしたが、今は構っていられない。ボクがアヤメ様になるんだ。

カケルの特殊メイク術のおかげで、ボクとアヤメ様はそっくりに仕上がっていて、叔父にも見分けがついていないようだ。


叔父は、声のしたボクの方をじろりと見ると、満足そうに頷いた。


「なぜだと? 一条院家の莫大な遺産は、本来この私が継ぐべきだったのだ。お前のような小娘さえいなければな!」


うわ、テンプレ通りの三文芝居だ……。思わずため息が出そうになるのを、必死でこらえる。


(聞こえてるか、カケル? こいつに全部喋らせる……!)


ボクは毅然とした態度を崩さず、軽蔑の色を瞳に浮かべて叔父を見返した。


「遺産……。そのために、一条院の名に泥を塗るような真似をなさったと? 天国のおじい様や、病床にいるお父様がどれほどお嘆きになるか……」

「ふん、兄上がどうなろうと知ったことか! いつまでも当主の座に居座りおって……」


叔父は苦々しく葉巻の煙を吐き出した。よし、もっと喋らせる。


「こんな場所にいつまでも監禁できるとお思いですの? 一条院家の人間が一人、姿を消しているのですよ。すぐに警察が突き止めて、叔父様の悪事も白日の下に晒されますわ」


ボクの挑発に、叔父は下品な笑い声を上げた。


「はっはっは! 警察だと? 無駄だ。この場所がどこだか分かっているのか? 誰も近づかんし、助けも来んよ」

(どういうこと? 考えられるのは一条院家の管理してる土地とかかな? まさか警察にも手を出せないような場所だとでも言うの?)


情報が足らない。もっと饒舌に叔父にしゃべってもらうしかないだろう。


「……まさか、学園での食事に毒を盛ったのも、叔父様の仕業ですの?!」

「いかにも! あれで静かに消えてくれれば、こんな面倒なことにはならなかったものを。まったく、余計なことをしてくれたわ」

「あのような危険な毒物を、一体どこで……」

「金さえ積めば、どんな物でも手に入れてくる、というものよ」

「あの暗殺者も……? 最新式の光学迷彩まで装備した、本物の暗殺者!……叔父様に、どうしてあのような者たちを雇う繋がりが? とても叔父様に一人で手配できるとは思えませんけれど……?」


その言葉は、叔父の虚栄心を的確に刺激したらしかった。得意満面に胸を反らす。


「お前のような、箱入りのお嬢様には分かるまい。わしには、お前の知らない『ビジネスパートナー』がいるのだよ」

「ビジネスパートナー……?」

「わしが直接手を汚すわけがなかろう。大陸の組織との窓口となる優秀な"仲介者"がいてな。金さえ払えば、毒の専門家から、お前が言うような最新装備を持つ元軍人まで、何でも揃えてくれるのだ」

(中国系マフィア……その仲介者!厄介な連中と繋がってる!)

「金とコネさえあれば、この世に不可能はないのだよ、アヤメ! お前も、その金のためにここで消えるのだ!」

「そうですの。……叔父様が、そこまで愚かで、小物だったとは思いませんでしたわ」

「……その口、もう聞けなくしてやる。おい、こっちの拘束を解け。さっさと書類にサインさせるぞ」


叔父の指示で男が近づいて来てボクの拘束を解きながら、アヤメ様を指さしながら指示を仰ぐ。


「そっちはどうする?」

「もう一人は……まあ、影武者か護衛だろう。さっさと始末しておけ」

「好きにして良いのか?」

「ああ。好きにしろ」


致命的な隙が生まれた。


叔父の視線はすでに書類ケースからなにやら書類を取り出すことに注視されており、中国マフィアの構成員らしい数人の男たちは、ボクではなく、好きにしろと放り投げられた餌に群がる獣のように、アヤメ様という美少女の身体を嘗め回すように見ていた。


やつらの世界から、ボクが消えた。今しかない。


手首を縛っていたロープが、はらり、と床に落ちる。音は、なかった。


まず一人。


ボクの拘束を解いた男が、満足げな笑みを浮かべて立ち上がろうとする、その背後。

気配を完全に殺し、ボクは音もなく立ち上がった。


狙うは脇腹の急所――いなずま

ボクの鉄槌てっついが、的確にその一点を撃ち抜いた。


「ごふっ!?」


内臓を揺るがす凄まじい衝撃に、男は声も出せずにくの字に折れる。抵抗する意思も、その術も、一撃で奪い去った。


「なっ!?」


アヤメ様を取り囲んでいた四人が、ようやく異変に気づいた。だが、遅い。


ボクは床を蹴り、最も近くにいた男の懐に仙術の縮地のように一瞬で滑り込んだ。

相手が銃を抜こうとする、その腕を手解てほどきの要領で制し、がら空きになった顔面に握った指を突き立てる。


狙うは眉間の少し上、烏兎うと


「ぎゃっ!」


視神経を直接打たれ、男は激しい目眩に視界を奪われる。

その体が崩れ落ちるのと同時に、ボクはその隣にいた三人目の男へと体を浴びせかける。狙うは、体重を支える軸足。


人体の構造上、最も脆い関節の一つ。膝。


ボクは全体重を乗せた蹴りを、真正面から男の膝関節に叩き込んだ。


ゴキャッ!


肉と骨が砕ける、鈍く湿った音が響き渡る。

ありえない方向に折れ曲がった足を見て、三人目の男は痛みを感じるより先に意識を失った。


「こ、このアマァァッ!!」


残るは二人。


ようやく状況を理解したらしい彼らが、同時にボクに殴りかかってくる。

訓練された動きだが、しょせんは喧騒の中での暴力を振るうために身に着けたもの。急所を守る意識のない動き。

人を傷つけ打ち倒すためだけに洗練された古武術の前にあっては、あまりにも無謀であった。


ボクは向かってくる一人の大振りなパンチを紙一重でかわすと、がら空きになった胴体。

そのみぞおち――水月すいげつに、深く、えぐるような掌底しょうていを叩き込んだ。


「ぐ……ぉえっ……!」


横隔膜が痙攣し、呼吸を奪われた男がカエルめいた声を上げて崩れ落ちる。

最後の一人は、その惨状に恐怖したのか、あるいは増援を呼ぼうとしたのか、背中を向けて、出口を目指す。致命的な判断ミスだ。


ボクは即座にその背後へ吸い付くように近づき、ボクの身体を押し当て男の腰の動きを封じつつ、流れるように腕を首に回し、後絞うしろじめに捕らえる。

咄嗟に、男はボクの手を掴んで解こうとするが、腰の動きを封じられたままでは力は空振りする。男を弱い力でも容易に引き倒せる。

バランスを崩した男は仰向けになりながら後ろへと倒れてくるので、秘中ひちゅうめがけて肘による鋭い当身あてみを叩き込む。


――この技の名を、天狗勝てんぐしょうという。


「ぐっ…!」という短い悲鳴と共に相手の力が抜け、男の意識は完全に断たれた。


わずか数秒。


「う、動くな!」


その声に振り向くと、最初に銃を抜こうとした男が、いつの間にかアヤメ様を腕に抱え、もう片方の手で銃口をこちらに向けている。

攻撃が浅かったか。溜息を一つこぼしながら、ゆっくりとボクは自分の立ち位置を整え、刺激しないようにすり足で一歩近づく。


「動くなと言った! なんだお前は?! あっという間にこの人数を!」

「わたくしは、一条院 菖蒲。あなた方はご存じのはずではありませんの?」


アヤメ様の声真似をしつつ、さらにすり足で一歩。あと二歩近づけば、男が銃を撃つより先に相手の急所を打てる。

表情はにこやかに、そしてアヤメ様のように優雅に見せ、こちらの攻撃を悟らせない。


男の腕は、恐怖で小刻みに震えていた。

銃口は定まらず、アヤメ様のこめかみに向けられたかと思えば、次の瞬間にはボクの心臓を捉えようと揺れ動いている。

その動きには、訓練された兵士の冷静さはなく、追い詰められた獣の稚拙な怯えだけが見て取れた。


こいつは、危険だ。

恐怖に支配された人間ほど、予測不能な行動に出るものはない。

下手に刺激すれば、その震える指が誤って引き金を引いてしまうかもしれない。


(……やるしかない)


ボクは、ずっと蓋をしてきた自らの能力を、解放することを決意した。

ゆっくりと、深く、息を吸う。そして、ボクの双眸が蒼い輝きを放つ。

世界の音が、遠くなる。


――未来視。


次の瞬間、ボクの網膜に、無数の"可能性"が光の線となって映し出された。

男の震える銃口から伸びる、淡く、しかし無数に枝分かれした弾道。

そのほとんどは、恐怖によって狙いを外れ、壁や天井に突き刺さる未来を示している。


だが、その中に、ひときわ強く、赤黒い光を放つ一本の線があった。

それは、男の恐怖が頂点に達した瞬間、衝動的に放たれ、寸分の狂いもなくボクの心臓を貫く、最悪の未来。

ボクは、静かに一歩を踏み出した。


「ひっ……! な、なんだその青い目は! く、来るな! 来るなと言っているだろうが!」


男の顔が、恐怖に引きつる。

銃口が、ボクとアヤメ様の間を狂ったように行き来する。だが、ボクにはもう、その動きの全てが見えていた。


ボクは、ただ、歩く。

アヤメ様を救う、唯一の未来へと続く道を。

二歩、三歩。


男の呼吸が荒くなり、銃を握る腕が汗で滑るのが見えた。

そして、ボクが決定的な間合いに入る、その一歩手前。

赤黒い光の線が、閃光のように輝きを増した。


――来る。


乾いた発砲音が、倉庫に轟く。

しかし、ボクは銃口が火を噴くよりコンマ数秒早く、その弾道を予測して、ただ静かに半身を逸らしていた。

耳元を灼熱の空気が通り過ぎ、背後の壁に銃弾が突き刺さる。

男は、信じられないものを見るような目で、硬直した。


その一発が、男の理性のタガを完全に外したらしい。


「う、うわあああああああ!」


男は狂ったように叫びながら、引き金を何度も、何度も引いた。

銃口から火花が散り、凄まじい轟音がコンクリートの壁に反響する。鉛の弾丸が、嵐のようにボクめがけて殺到した。


だが、ボクには見えていた。

未来視によって解放された知覚は、迫り来る弾丸の一発一発の弾道を、赤い光の線として完璧に捉えている。


ボクは、その死の嵐の中を、ただゆっくりと歩を進めた。


右に一歩、優雅に円舞ワルツを踊るように。左に半身、柳の枝が風に揺れるように。

頭をわずかに傾ければ、髪を数本だけ掠めて弾丸が通り過ぎていく。肩を少しすくめれば、服のすぐ脇を熱い空気が裂いていく。

それは、回避というより、死の運命がもたらす無数の凶弾の、その隙間を縫って進む、ただの散歩だった。


やがて、男の狂乱は、カチリ、という虚しい撃鉄の音と共に終わりを告げた。弾切れだ。

男は、弾丸の嵐の中を無傷で歩ききったボクの姿を、悪夢でも見るかのような目で、ただ呆然と見つめている。

ボクは、その男の目の前で、静かに足を止めた。


静から動。男にはボクの身体が一瞬かすんだようにも見えただろう。

がら空きになった急所――金的きんてきめがけて、容赦なく、つま先を蹴り上げた。


「ごぶっ!?」


男の体から、潰れたカエルのような声が漏れる。

銃が手から滑り落ち、男は白目を剥き、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。


静寂が、埃っぽい倉庫を支配した。


ついさっきまでの怒号と、乾いた発砲音、肉を打つ鈍い音が嘘のように消え去り、今は床に転がる男たちの苦悶の呻き声と、ボク自身の荒い呼吸だけが聞こえる。

ボクは、足元で完全に意識を失っている男を一瞥すると、すぐに踵を返した。


もはや、この男たちにも、腰を抜かして震えている哀れな叔父にも、用はない。

ボクは一直線に、壁際で固く縛られたままの彼女の元へと駆け寄った。


「アヤメ様! 大丈夫ですか!? 怪我は!?」


声をかけながら、その華奢な体を縛り付けている縄に指をかける。アドレナリンで震える指で、固く結ばれた縄を必死に解いていく。


アヤメ様は、何も答えなかった。

ただ、先ほどまでの戦闘を信じられないものを見るような、大きく見開かれた瞳で、ボクの顔をじっと見つめている。

その瞳に映るのは、恐怖か、驚愕か、それとも――。


最後の縄が解け、自由になった彼女の手をそっと取る。その指先は、氷のように冷たかった。

ボクは彼女を支えるようにして立ち上がらせると、改めてその姿を見つめた。幸い、目立った怪我はないようだ。


「……ありがとう、ございます」


ようやく、アヤメ様が絞り出すように言った。

ボクは小さく頷くと、彼女と共に、全ての元凶である男の方へとゆっくりと向き直った。

恐怖に顔を引きつらせ、後ずさろうとする叔父の前に、二人で静かに立つ。


「さて……お話の続きをしましょうか、叔父様?」


ボクは、アヤメ様の声を真似て、優しく気品のある声で話しかけた。



:: [ 41:03:42 ] :: タイマーストップはキスのあとで



耳元のインカムが、ザザッ、とノイズの後にクリアな音声を取り戻した。

『パパ、お見事です!恋愛 RTAチャート、大幅更新ですよ!』


カケルの、どこまでも能天気な声だった。


『通報しました。あと数分で警察が突入します。そいつらゲームオーバーです』


安堵のため息が漏れそうになる。だが、カケルの言葉は続いた。


『パパ、ここが最後の分岐点です! 警察が来る前に、ママの心を完全に掌握するんです! 今こそ『無を取得からのいきなりエンディング』のグリッチ技を使う時です! 婚約を通り越して、結婚しちゃいましょう! それが、最速のハッピーエンドです!』


結婚……?

カケルの言葉が、頭の中で空回りする。

ボクは、この三日間、ただカケルの言うがままに、無茶苦茶な"恋愛RTA"を走ってきた。

女装して、嘘をついて、裏技とやらで何度も危機を乗り越えて……。

すべては、世界を救うため。そして、アヤメ様を守るため。


でも、それでいいのか?

このまま、最後の最後まで、嘘と"裏技"で塗り固めた物語を終わらせてしまって、本当にいいのか?


ボクは、静かにアヤメ様を見た。

彼女は、ボクがただのしがない男子高校生だとは知らない。暗殺者を一人で制圧する、謎多き美少女だと思っている。

ボクが向けてきた感情も、すべてが"好きすぎて編入してきた"という、一方的で、少し突飛な少女の恋心だと思っている。


違う。

全部、違うんだ。

ボクは、もうカケルのチャート通りに走るのはやめよう、と心に決めた。

この恋愛RTAのエンディングは、ボク自身が決めなければならない。


「カケル、もういい。あとは、ボクがやる」


ボクはインカムに向かって、静かに、しかしはっきりと告げた。


『え、パパ!? チャートを外れるなんて、予定が狂うっていうか――』


ボクは、その声を断ち切るように、耳元のインカムを外して床に投げ捨てた。

叔父の薄くなっている髪を遠慮なくつかみ、そのまま床に向かって、頭を叩きつける。


「ぐえ!」


カエルのような声で叔父が気を失う。


「……」


アヤメ様はボクを行動をじっと見つめてる。


アヤメ様に向き直り、震える手で、自分の頭に触れた。

この三日間、ボクを少女にしてきたウィッグを、ゆっくりと、ためらいがちに外した。

サラリ、と偽りの黒髪が滑り落ち、汗で濡れたボク自身の短い髪が露わになる。

格闘で落ちかけたメイクの下には、紛れもない、ただの疲れた男子高校生の顔があった。


アヤメ様が、信じられないものを見るように、息を呑んだ。

ボクは、彼女の驚きに歪む美しい瞳から、目を逸らさなかった。


「アヤメ様。……いや、一条院さん」


声が、震える。


「ボクは……女じゃありません」


告白は、ナイフのようにボク自身の胸を抉った。


「毎朝、通学路の途中で、あなたの姿を遠くから見ることだけが、ボクの無気力な日々の、唯一の光でした」


堰を切ったように、言葉が溢れ出す。


「でも! あなたとボクとでは、住む世界が違いすぎた。話しかける勇気なんて、あるはずもなかった。だから、こんな馬鹿な方法でしか、あなたのそばに来ることができなかった。女のふりをして、学園に潜入したんです。なにを馬鹿なことをしたんだと笑ってください。ありえなくないかと侮蔑してください。それでも、知って欲しい。ボクの気持ちだけは本当なんです。――あなたが好きなんです」


すべてを、話した。

もう、隠すことは何もない。


「騙していて、ごめんなさい」


ボクは深く謝罪し、頭を下げた。


「軽蔑されても、当然です。安心してください、もうすぐ警察が来ます。そうしたら、ボクも一緒に連れていってもらいます」


長い、心臓が凍りつきそうなほどの沈黙が流れた。

やがて、静かな、しかし凛とした声が、ボクの頭上から降ってきた。


「……アサギさん、違うのです」


ボクが恐る恐る顔を上げると、そこに立っていたアヤメ様は……泣いていた。その表情は怒りでも、軽蔑でもなかった。

大粒の涙を流しながら、彼女は、見たこともないほど美しく、優しく、微笑んでいたのだ。


「わたくしも……ずっと、あなたに会いたかったのです」

「え……?」

「通学路で、いつもわたくしを見ていてくださる貴方のことに、気づいておりました。その他の方たちとは違う……その真剣な眼差しに、いつしか、わたくしの心は惹かれて……」


彼女は、一歩、また一歩と、ボクに近づいてくる。


「編入の手続きを手配したのは、わたくしですわ。わたくしと同じクラスになれるように要望もしました」


そうか! 編入試験のときに、学園長が言ってた「すでにご要望として伺っておりましたから」っていうのは、アヤメ様だったのか。

日本有数の財閥である一条院家の令嬢のご要望。学園長を配慮するよね、そういうことなら、納得だ。


ん?


ちょっと待って。


アヤメ様は言った。「気づいておりました」と。そして「手配したのは、わたくし」ということは。


「もしかして、カケルは……」

「ええ。わたくしが雇った特殊芸能プロダクションの俳優ですわ」

「えええええ!」


未来から来た息子じゃないの?!


「二人の住む世界が違う、そのことを悩んでいたのはアサギさんだけではなく、わたくしもなんです。だから、無理矢理にでも二つの世界をくっつけてみたんです」

「それが、恋愛RTAチャート……」

「恋愛アールティ……くわしくは、わたくしは指示していません。プロにお任せしましたわ」


さすがプロ、としか言いようがない! 方法や手段はともかく、接点が全く無かった二人を、こうして実際に手が届く距離まで近づけたんだから。


「アサギさん。わたくしの無気力な日々に、光をくれた人。わたくしの命を、そして、ずっと孤独だった心を、救ってくれた人」


彼女は、ボクの手を両手で優しく包み込んだ。


「どうか、わたくしと、婚約してくださいませんか?」


その言葉は、どんな裏技バグ技よりも、強く、確かなものとして、ボクの心に届いた。

ボクは頷く代わりに、一度だけ強く彼女の手を握り返し、そしてゆっくりと口を開いた。


「信じられないかもしれないけど……。この世界は、もうすぐ終わる」


アヤメ様の瞳が、わずかに見開かれる。

でも、彼女は何も言わずに、ただ静かにボクの言葉の続きを待ってくれていた。


「ボクは、その絶対的な終焉の前では、どんなことも無意味だと思ってた。だから、ただ虚しく過ぎていくだけだった。でも、違った。この二日間、あなたの隣にいて、必死にあなたを守りたいと願う中で、ようやく本当のことに気づけたんだ」


ボクは、彼女の濡れた瞳をまっすぐに見つめて、心の底からの想いを告げる。


「無限に続く絶望の未来なんかよりも、今、こうしてあなたの隣で心臓が音を立てている、この一瞬の方が、ずっと……ずっと尊いってこと」

「アサギさん……」

「残された時間がどれだけ短くても構わない。ボクは、あなたと一緒にいる、この一瞬こそ、大事にしたいって思った。あなたと、一緒にいたい、叶うなら永遠に」


ボクの目から、熱いものが溢れて止まらなかった。

告白を聞き終えたアヤメ様は、泣きながら、それでも世界で一番美しく微笑んで、そっと頷いた。


「ええ……わたくしも、ですわ。あなたと一緒に」


その言葉が合図だった。


ボクは溢れる想いを抑えきれず、アヤメ様の華奢な体を強く抱きしめた。

彼女の温もりと、ふわりと香るフローラルの匂いが、ボクが今、現実に生きていることを教えてくれる。


どちらからともなく、顔が近づき、唇が重なった。


それは、世界の終わりさえも忘れさせるほどに、優しくて、温かいキスだった。


遠くから、サイレンの音が近づいてくる。

それは世界の終わりを告げる音じゃない。ボクたちの、たった今始まった新しい日常を祝福するファンファーレのように聞こえた。



:: [ 175:33:12 ] :: リザルト画面



二人は答え合わせをしました。


「そもそも、アサギさんは一体、何者ですの?」

「ごく普通の高校生だよ。特別なことなんて何もできない」

「でも、とてもお強かったわ。あの屈強な男たちを、まるで子供扱いするように。……何か、格闘術を習っていたのかしら?」

「ちょっと複雑な家庭環境なんだ。詳しくは言えないけど……。昔、町で暴力をふるったりして、荒れてた時期があって。その時に、師匠に出会って更生させてもらう過程で、ちょっとだけ武術を教えてもらったんだよ」

「そうでしたの……。今のあなたからは、少し想像もつきませんわ。その格闘術は、なんていう流派か聞いても?」

「天神真楊流の流れをくむ、とは言ってたけど、ボクは少し教わったくらいだからね。師匠は詳しくは教えてくれなかった。我流も混じってるみたいだし」


「こっちの質問もいいかな。結局、カケルはなんだったんだ?」

「以前に言った通りですわ。わたくしが雇った特殊芸能プロダクションの俳優ですの」

「特殊芸能プロダプロダクション……」

「本来は、依頼者の望むシチュエーションを脚本にし、あたかも現実であるかのような体験を提供してくれる会社なのです。例えば、町で出会った女性が、実は遠い国の王女様で、一日だけ身分を隠してデートする……みたいな夢を叶えてくれる、とか」

「へぇ!そんな会社があるんだね」

「今回は、体験するのは依頼者ではなく、他者のアサギさんを騙すような依頼なので、法的に問題があると、断られました」

「仲のいい人同士でやりそうなサプライズ!ってやつかな。あとでトラブルの元になりそう」

「ええ。でも、わたくしがどうしてもお願いしたいという気持ちをカケルさんに訴えたら、最後には、会社としては引き受けられないけど、自分が個人的に引き受けるってカタチなら、と受けてくださったんです」

「それで、どうしてまた"恋愛RTA"なんて突飛な脚本になったのかな?」

「彼女の報告書によりますと、まず掴みのインパクトが重要だった、と」

「まあ、確かにインパクトはあったよ。いきなり「パパ!」って呼ばれたから。壷を割れはまだしも、醤油をぶっかけろとか、後ろに吹き飛べとか、意味が分からなかったよ」

「事前にあなたの身辺調査をしたところ、YouTube、特にゲーム実況やRTAをよくご覧になっていること、そして……世界の終末論に傾倒している、という情報があったそうですわ」

「個人情報が筒抜け過ぎて、そっちが怖くなったよ」

「その点につきましては、彼女もプロですから」

「まあ、事実、彼の言うがままに行動したから、正しい分析だったん……、彼女?」

「ええ。カケルさんは女性ですわ」

「やっぱり!あまりに美少女すぎて、容姿だけみたら男とは思えなかったんだよ!でも、振る舞いは男にしか思えないし、でも、時々女性らしさも感じるんだ。やっぱり俳優ってすごいなぁ」


「行動の意図については「特に深い意味はない。インパクト重視。とにかく目立つ行動をすれば、一条院様の方から話しかけざるを得ない状況が生まれると判断した」とのことでしたわ」

「はは……そうか。そこに、アヤメ様の叔父さんの暗躍が混ざって、あんな大事件になった、と」

「ええ。叔父様については、本当に想定外でした。以前から相続破棄を迫られてはいましたが、まさかあのような強硬策に出るとは……」

「たぶん、そこにカケルが絡んでる」

「え? どうしてですの?」

「確証はないけど、叔父さんが言ってた”仲介者”っていうのが、どうも引っかかってて。もしそれがカケルだったら、色々と筋が通る気がするんだ。叔父さんの依頼を受けて暗殺計画を立て、同時に君からの依頼で僕を動かす……マッチポンプみたいに」

「まさか……」

「カケルの報告書に何も書いてないなら、ボクの気のせいかもしれない。考えすぎたかな」

「そうであってほしいですわ。もし本当なら、犯罪教唆に該当しかねませんもの」


「これをお聞きするのは、とても勇気がいるのですけれど、聞かずにはいられません」

「なにかな?」

「あなたが言う「世界の終わり」とは? ……もうすぐ終わる、というのは、いったい、どのくらいの猶予が残されているのですか?」

「……信じてもらえなくても、しょうがないけど。ボクは、未来を視ることができるんだ」

「信じますわ」

「ありがとう。でも、そう都合のいい力じゃなくてね。遠い未来ほど、視たいものは視えない。強制的に、絶望的な未来だけを視せられる」

「見せられる、というのは、見たくなくてもということ?」

「んー、例えば、アヤメ様がすぐそこで話してくれていれば、周りが騒がしくても声は聞き取れる。そういう風に人の耳は出来てる。でも、遠くから必死に話しかけられても、もっと大きな音に遮られて聞こえない。ボクにとって、そのひときわ大きな"音"が、世界の終焉の音なんだ」

「なるほど……。では、世界が終わるのが"いつ"なのか、正確に分かるわけではない、と」

「そう。でも、確実に"それ"は来る。そして、その音は年々大きくなってる。……いつしか、もう視たくなくなって、ずっと瞳を閉じていたんだ。でも、この間、君を助けるために開いたとき、視てしまった」

「何を、視たんですの?」

「まあ、言わないでおくよ。ただ、こう思うことにしたんだ。少なくとも、ボクたちが寿命を迎えるくらいの、わずかな時間は大丈夫だろう、って。それは救いじゃないかもしれない。でも、その日が明日来たとしても、きっと苦しむ時間さえない。なら、同じこと」

「では、やはり、二人の時間を大切にしなくてはいけませんわね。」

「ああ。こうして、君と美味しい紅茶を飲む時間が、どれほど貴重なことか」

「それは、世界の終わりを視ていても、視ていなくても、きっと誰にとっても大切なことですわ」


「ボクも聞くのに勇気の必要な質問があるんだけど」

「なんでしょう?」

「どうして、ボクのこと、気にしてくれたんだろう。ただ遠くから見つめていただけのボクを、アヤメ様が見つけ出してくれた……そのきっかけは?」

「一目惚れ、としか言いようがありませんわ」

「そう、なんだ……」

「わたくし、ずっと怖くて……誰かに守ってほしくて、たまらなかった。そんな毎日の中で、あなたと歩道橋越しに、ふと、目と目が合った瞬間に……確信したんです。「ああ、この人が、わたくしを守ってくれる」と。それは感覚的なもので、理由など説明できませんけれど」

「……そうだよね、そういうの、説明しろと言われても、無理かな」

「気になりますか?」

「これは誰もが思うんだろうけど……。それがもし、ボクじゃなかったとしたら、って。少し、怖いなと思ってしまって」

「そんなのは、考えるだけ時間の無駄ですわ。だって、わたくしたちは出会って、こうして恋に落ちたのですから。……それこそ、世界の終わりよりも不確かで、世界の始まりよりも稀なこと」

「……うん」

「貴方がおっしゃったのですよ? 残された時間がどれだけ短くても構わない、と。さあ、急ぎましょう、まさに人生はRTA、タイマーはまだ止まっていませんわ。まずは攻略チャートを二人でかんがえましょう」

「そうか、そうだね。まずはデートの予定かな?」


二人の時間はまだ、始まったばかりでした。

[EOF]



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