第一歩
真っ黒の肉の味を噛みしめた慎也は、久しぶりに一人でリビングで何をするでもなく、平日の真昼間からボーッと大きな液晶画面を見つめていたのだった。ここ最近1日1食で過ごしてきた慎也にとってはこれまた久しぶりの昼食であった。
だが。慎也がどんなに乏しい会話能力であろうと、どんなに破綻した顔つきであろうとも、男は男なのである。いつTVに顔を出してもおかしくない程の美女が同居していて、当の美女は今は出かけていて、家には男一人しかいない。いくら美女の配慮がわかったところで、それと話は別だ。男の足は自然と女の部屋へと向かう。これは同居して3日目にしても遅かったぐらいだ。
慎也は優佳の部屋へ敢然と突入した。入った瞬間良い香りが慎也の小さな鼻から体内へと駆け廻った。今まで意識していなかったが、いつもこんなにも優しい香りを放っていたのか、慎也はまた一つ惹かれていくのだった。
それからの慎也は部屋を適当に歩き回っては何やらキョロキョロするだけである。部屋を物色する様子もない。彼の良心が寸でのところで彼の奇行―今でも十分奇行ではあるが―を食い止めたのか?そうではない。ただ単にそれは彼の趣向に合わなかっただけである。身につけているときだけ意味があるのであって身体から離れればただの布切れである、というこだわりの持論を慎也は持っていたのだった。
そして彼の部屋にようやく帰ってきたと思えばやっぱりパソコンの前にドッカリと座りこみ、若干の汗を拭きながら、真剣な顔をして画面と睨めあっていた。そうして数十分後、カチッとマウスの左ボタンを押したのと同時に、またいつもの気味の悪い笑顔が男の顔を覆った。
優佳は今日はもう授業が終わったのであろう。早くも玄関のドアを開ける音がして、慎也はにやけた顔を直そうと必死に落ち着こうとしたが、垂れた目尻だけはどうにもできなかった。
また一段と笑顔の優佳は奇妙奇天烈な顔面を見ても驚きもせず、嬉しそうに慎也に尋ねた
「豚肉の味はどうだった?」
事実を言えば味も何も焦げた味しかしなかったのだが、そんなことを言えばこの女性をまた悲しませてしまう。慎也は優佳の目の前だと紳士だった。
「あー、お、おいしかった。しょ、生姜がよく効いてた」
嘘でも何でもいい。とにかくこの人を喜ばせなければいけない、慎也は必死であった。
「慎ちゃんも嘘つけるんだね」
慎也は天使のような微笑を湛えた美人がまるで超能力者であるかのように大小二つの目をパチクリしたが、優佳はこともなげに”種”を説明してみせた。
「あれ、書き間違ったの。あれ生姜じゃなくて味噌なの。何故か間違ったのよねぇ」
慎也は狐につままれたような気分であった。匂いでわかるだろうと慎也の脳は言っていたが、小さな鼻ではどうも識別できなかったようである。優佳は美しい笑顔で爽やかに笑い飛ばしていた。
「た、食べたけど、ぼ、僕が焦がしてしまって…」
「慎ちゃんが上手く料理できるなら私なんて雇われてないでしょ。ちょっとからかっただけよ」
慎也はこういう類の台詞は虫唾が走るほど嫌いだったのだが、優佳にかかればつい頬が緩む台詞に聞こえたのだった。
「今日はちょっと寝坊しちゃって、作っている余裕がなかったの。ごめんね」
優佳は今までの軽い調子ではなく、しっかりと丁寧に謝るのであった。特に最後の一言には深い悔恨の意が込められていた。
慎也はというと、そんなことを気にもせず、あの優等生を絵に描いたような優佳でさえ寝坊するのだ、と優佳の新たな一面を発見したことによって、自分たちが同棲している恋人同士に思えてきて、また一人ニヤニヤと顔を崩すのであった。だがいかんいかんと慎也はすぐさま紳士に成りきるのであった。
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