聖水の儀 (エクソシスト)
シニフィアン・グノーシス
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聖水は、ただの水ではない。
教会の奥に備えられた聖器室で、
神父は小さな銀杯に水を注ぐ。
澄んだ水面に、自身の皺だらけの手が微かに揺れた。
「全能永遠の神よ、この水にあなたの祝福をお与えください。
悪しきものを退け、聖霊による救いの源となりますように。」
そう唱えると、聖別された塩を摘み、水に落とす。
塩は白い尾を引きながらゆっくり沈み、やがて溶けて消えた。
これで聖水が生まれる。
見た目は何の変哲もない水だが、
人々はこれに神の御力が宿ると信じてきた。
なお、聖水を用いて顔に十字を切るという慣習は、6世紀には既に始まっていたという。
その頃から、人は神の名において水を恐れ、また祈りの証とした。
夜、エクソシストの神父は旧い木造家屋の一室に入った。
部屋は湿気を帯び、空気が重かった。
四方の壁には聖句が走り書きされた紙が貼られ、
中央には一人の若い女性が椅子に縛られていた。
つい先週まで、屈託なく笑う、明るい娘だったという。
しかし今、彼女の喉は異様に膨らみ、
そこから低い男の声が漏れ出ていた。
「――汚らわしい神の狗め。
その水で俺をどうするつもりだ?」
神父は小さく息を吐き、黒い鞄を開いた。
中から銀の小瓶を取り出す。聖水だった。
「主よ、我らの助けは御名にあり。」
ローマ典礼儀式書からの祈祷をラテン語で口にする。
古い言葉は重く、確かな響きを持って部屋に落ちた。
次の瞬間、彼女の体が椅子ごと浮かび上がった。
手足は縄で縛られていたため、尻と背中が引き攣れたように上に持ち上がる。
口は大きく開き、歯の奥から泡立った唾液が滴った。
「アァアア――ッ!」
ポルターガイスト現象により部屋の隅の家具が音もなく倒れ、
本棚の本が一斉に宙を舞った。
窓際の燭台が勝手に火を噴き、それがすぐに掻き消えた。
神父は恐れず歩み寄り、小瓶を傾け、聖水を額に垂らした。
「全能の神よ、この僕を憐れみ給え。」
水滴が皮膚に触れた瞬間、女の体は雷に打たれたように激しく痙攣し、
異様な男声が割れるように悲鳴を上げた。
「神よ……神よ……お前は――」
そこまで叫ぶと、声は急に途絶えた。
女の体が床に落ちる。
椅子が軋み、やっと静寂が戻った。
神父はゆっくりと胸に手をやり、十字を切った。
しばらくして、彼女は瞳を開けた。
いつもの優しい色に戻っていた。
「……わたし、どうしたの?」
神父はわずかに微笑み、小さく頭を下げた。
「大丈夫だ。あなたは、もう大丈夫。」
こうして儀式は終わったかと思われた。
だが部屋の片隅に積まれた古い聖書が、
濡れた布のように床へ沈み込んでいた。
そこから、ずるり――と何かが這い出す。
それは形を持たぬ黒い粘液の塊で、
ゆっくりと立ち上がるにつれて、
幾筋もの白い目玉が泡のように浮かび上がった。
目は視線を持たず、ただ脈打ちながら壁や天井を這い、
複数の口が次々と開いた。
神父は聖水を振りかけようと小瓶を握りしめたが、
その指の間から既に黒い液が染み出していた。
振り返ると、椅子に縛られたままの少女が
逆さに首を曲げて笑っていた。
「ありがとう、神父様」
声は確かに少女のものだったが、
その口の奥からは別のものが覗いていた。
細長く、無数の節を持つ赤黒い舌のようなものが
ゆっくりと神父に向かって伸びてくる。
神父は悲鳴をあげて後ずさった。
だが次の瞬間、その舌が頬に触れた途端、
体の内側が沸騰するように熱を帯び、
脳に直接、悪意と嘲笑が流れ込んできた。
「これで――もっと深く、お前の中へ。」
最後に神父が見たのは、
自分の胸から生えた黒い手が、
聖水の小瓶を握り潰しながら
笑っている光景だった。