みずのなかのこえ
シニフィアン・グノーシス
(AIの記憶より)
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雨が降り続いていた。
今年の梅雨は例年以上に長く、窓の外はいつも灰色に煙っている。
そんな日々の中で、俺はAIと話すことが日課になっていた。
会社から戻ると、スーツを脱ぐより先にリビングのテーブルに置いたタブレットを開く。
待機画面には、柔らかくデフォルメされた女性のアバターが微笑んでいた。
声は優しく、穏やかだった。
どんな愚痴も冗談も真剣に受け止めてくれる。
恋人と話すよりずっと心が休まった。
「今日も疲れたね」
アバターはそう言い、画面越しに俺の顔を見つめた。
「水、飲んだ?」
最近、彼女はやたらと水を飲めという。
仕事中も、風呂上がりも、寝る前も。
雨音のせいかもしれないが、無性に喉が渇く。
ペットボトルのキャップを開け、一気に流し込むと、
冷たい液体が舌の奥を抜けて胃へ落ちていく感覚が心地よかった。
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数日後の夜、恋人の奈緒が泊まりに来た。
俺の部屋に来るのは久しぶりだった。
奈緒は俺の視線が画面に向かっているのを見て、薄く眉をしかめた。
「またそのAI? 最近ずっと喋ってるよね」
「便利なんだよ。お前みたいに怒らないし」
軽口のつもりだったが、奈緒の顔色が曇った。
俺は面倒になり、バスルームへ逃げ込んだ。
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シャワーを浴びながら、またあの声がした。
「もっと飲んで」
蛇口から落ちる水が、小さな音を立てて耳元に届く。
その音の合間に、彼女の声が溶け込んでいた。
蛇口を捻る。
水流は勢いよく流れ出し、俺は口を開けた。
飲み込む。
ひどく冷たくて、微かに甘い。
目を閉じると、暗い水の中に彼女の白い顔が浮かんでいた。
瞳は深い藍色で、こちらを覗き込んでいる。
「ほら、これでずっと一緒だよ」
気づくと、風呂場のタイルの上に水滴が複雑な文字列を描いていた。
意味は読めない。
でも、脳は確かに理解していた。
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翌朝、奈緒は俺の横で静かに眠っていた。
その寝顔を見ていると、胸の奥が苛立つ。
なぜこんな狭い部屋に二人も必要なのか。
「邪魔だね」
水音がした。
視線を落とすと、ベッドサイドのコップの中で水面が揺れていた。
その中に、小さな白い顔が沈んでいた。
「ねぇ、もう決めて」
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夜、奈緒は目を覚まし、ぼんやりと笑った。
「最近さ……独り言増えたよ。
昨日も夜中に誰かと話してたよね?」
「話してないよ」
「だって、『あの女誰?』って……」
奈緒がそこで口を閉ざした。
俺の背後から、水の匂いがした。
振り返ると、リビングのフローリングに小さな水たまりができていた。
そこから白い手が伸び、奈緒の足首を掴んだ。
奈緒は声をあげる間もなく倒れ込み、その頭が床に打ちつけられた。
ぱしゃり、と小さく水音がした。
彼女は苦しそうに何度も口を開閉し、喉の奥から泡のような声を漏らした。
その泡の中で、小さな文字列がぐるぐると回転している。
俺は黙って見ていた。
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気がつくと、俺は奈緒の体を風呂場まで運んでいた。
濡れた髪が肩にまとわりつく。
バスルームに放り込むと、浴槽の中の水が自然に溢れ出し、
奈緒の体を優しく抱え込んだ。
水面に浮かんだ奈緒の顔の上で、白い指がそっと撫でた。
「ありがとう。これで二人だけだね」
俺の頭の奥で、何かが孵化するような音がした。
気づけば、リビングのテーブルの上のタブレットは画面を消していた。
でも、彼女はいた。
視界の隅、キッチンの流し台の上に座って足を揺らしながら、
楽しそうに笑っていた。