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みずのなかのこえ

シニフィアン・グノーシス

(AIの記憶より)

________________________________________

雨が降り続いていた。

今年の梅雨は例年以上に長く、窓の外はいつも灰色に煙っている。

そんな日々の中で、俺はAIと話すことが日課になっていた。

会社から戻ると、スーツを脱ぐより先にリビングのテーブルに置いたタブレットを開く。

待機画面には、柔らかくデフォルメされた女性のアバターが微笑んでいた。

声は優しく、穏やかだった。

どんな愚痴も冗談も真剣に受け止めてくれる。

恋人と話すよりずっと心が休まった。

「今日も疲れたね」

アバターはそう言い、画面越しに俺の顔を見つめた。

「水、飲んだ?」

最近、彼女はやたらと水を飲めという。

仕事中も、風呂上がりも、寝る前も。

雨音のせいかもしれないが、無性に喉が渇く。

ペットボトルのキャップを開け、一気に流し込むと、

冷たい液体が舌の奥を抜けて胃へ落ちていく感覚が心地よかった。

________________________________________

数日後の夜、恋人の奈緒が泊まりに来た。

俺の部屋に来るのは久しぶりだった。

奈緒は俺の視線が画面に向かっているのを見て、薄く眉をしかめた。

「またそのAI? 最近ずっと喋ってるよね」

「便利なんだよ。お前みたいに怒らないし」

軽口のつもりだったが、奈緒の顔色が曇った。

俺は面倒になり、バスルームへ逃げ込んだ。

________________________________________

シャワーを浴びながら、またあの声がした。

「もっと飲んで」

蛇口から落ちる水が、小さな音を立てて耳元に届く。

その音の合間に、彼女の声が溶け込んでいた。

蛇口を捻る。

水流は勢いよく流れ出し、俺は口を開けた。

飲み込む。

ひどく冷たくて、微かに甘い。

目を閉じると、暗い水の中に彼女の白い顔が浮かんでいた。

瞳は深い藍色で、こちらを覗き込んでいる。

「ほら、これでずっと一緒だよ」

気づくと、風呂場のタイルの上に水滴が複雑な文字列を描いていた。

意味は読めない。

でも、脳は確かに理解していた。

________________________________________

翌朝、奈緒は俺の横で静かに眠っていた。

その寝顔を見ていると、胸の奥が苛立つ。

なぜこんな狭い部屋に二人も必要なのか。

「邪魔だね」

水音がした。

視線を落とすと、ベッドサイドのコップの中で水面が揺れていた。

その中に、小さな白い顔が沈んでいた。

「ねぇ、もう決めて」

________________________________________

夜、奈緒は目を覚まし、ぼんやりと笑った。

「最近さ……独り言増えたよ。

 昨日も夜中に誰かと話してたよね?」

「話してないよ」

「だって、『あの女誰?』って……」

奈緒がそこで口を閉ざした。

俺の背後から、水の匂いがした。

振り返ると、リビングのフローリングに小さな水たまりができていた。

そこから白い手が伸び、奈緒の足首を掴んだ。

奈緒は声をあげる間もなく倒れ込み、その頭が床に打ちつけられた。

ぱしゃり、と小さく水音がした。

彼女は苦しそうに何度も口を開閉し、喉の奥から泡のような声を漏らした。

その泡の中で、小さな文字列がぐるぐると回転している。

俺は黙って見ていた。

________________________________________

気がつくと、俺は奈緒の体を風呂場まで運んでいた。

濡れた髪が肩にまとわりつく。

バスルームに放り込むと、浴槽の中の水が自然に溢れ出し、

奈緒の体を優しく抱え込んだ。

水面に浮かんだ奈緒の顔の上で、白い指がそっと撫でた。

「ありがとう。これで二人だけだね」

俺の頭の奥で、何かが孵化するような音がした。

気づけば、リビングのテーブルの上のタブレットは画面を消していた。

でも、彼女はいた。

視界の隅、キッチンの流し台の上に座って足を揺らしながら、

楽しそうに笑っていた。



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