4.父娘の時間
「少し、ヴァイオレットと散歩してもいいだろうか」
あいも変わらず冷ややかな目元であることには変わりないが、ヴィンセントの抑揚のない声には幾分、棘が抜けたような気配が感じられた。
「かしこまりました。すぐに準備を」
「付き添いは結構」
返事を聞くなりそう言い、ヴィンセントは躊躇うことなく我が娘をひょいと抱き上げる。
右腕にしっかり安定するように乗せ、そのまま足早に、ヴァイオレットの部屋を出ていった。
透き通るアイスブルーの瞳にはもう、愛おしい娘の姿しか映っていない。
柔らかな前髪は茶でも青でもない混じりのない黒で、父親に抱かれようと臆さない黄金の瞳は、しっかりとその父の美しくも冷たい顔を見据えていた。
ばら色の赤子らしいこぼれ落ちそうな頬も、陶器のように白い肌も、健康そうな赤い唇も。
ヴァイオレットを形作るものすべてが、彼女の母親ー即ちヴィンセントの亡き妻の面影を残していて、愛おしいとヴィンセントは思う。
もちろん、妻に似ていなかったとしても…自分に似てしまうことは不本意ではあるが、それでも同じく愛していたであろう。
彼は静かにヴァイオレットを抱きしめなおした。
あまり娘ばかり見ていてはいけないな。
歩くのを忘れそうになる。
前を向いて歩くなんて当たり前のこと、忘れてしまうことがあるんだな。
ヴァイオレットが生まれてから、ヴィンセントはいつも、何か新しいものを見つける日々だ。
ヴィンセントの人生はこれまで、非凡の才だの、生まれるべくして生まれた後継ぎに相応しい完成品だの、散々もてはやされ、だからヴィンセントはこの世のほとんど全てを知っていると思っていた。
否、知らなければならないものを知っていればそれでよく、知る必要のないものに対しては、すべてが無駄なものに思え、知りたいなどと何の関心も抱いたことがなかった、というのが正しい。
あれらの日々は、本来ヴィンセントがあるべき姿として非常に正しく、非常に退屈な日々であった。
そう、今のヴィンセントは、「あるべき姿」をしていない。
ヴィンセントは王族公爵ホルシュタイン家の長男に生まれ、王太子とは従兄弟関係にあった。
剣術の才能に恵まれた上に聡明で、尚且つ堂々とした様はまさに、王国内の貴族で1番権力を持つ公爵家の次期当主に相応しい公子であった。
がしかしヴィンセントは現在、公爵家の継承権を弟に譲り、寒さの厳しいホルシュタイン公爵領・リエンで領主をしている。
輝かしい未来を手放したのは、すべて妻である元男爵令嬢アマリアと結婚するためであった。
ヴィンセントには公爵家次期当主という肩書きなど少しも欲しくなかったが、アマリアの夫・ヴァイオレットの父という肩書きは、何を捨てでも欲しかったのである。
「退屈」以外の感情をくれるのは、世界でアマリアとヴァイオレットだけだった。
今のヴィンセントは「あるべき姿」ではないが、確かに彼にとって「ありたい姿」であった。
赤子の温もりと重みを感じながらヴィンセントは屋敷の階段を降り、廊下を抜け、そして中庭へと出る。
間もなく春だというのに、まだ外はヒュウっと乾いた風が吹いていた。
「ご主人、ヴァイオレットお嬢様の外套ぐらい持ってこないと。彼女にはお寒いですよ」
ああ、確かに。
ヴィンセントの胸ポケットから聞こえてくる声に、彼は心の中で相槌をする。
ヴィンセントはあまり体の快・不快がわからぬ男であったから、その指摘がなければ娘の体調を気遣ってやることができなかったであろう。
「フェリックス、暖炉になれ」
言うやいなや、胸ポケットからその声の主——拳ひとつ分ほどの真紅に輝く精霊石を取り出した。
そのまま握りしめ、ヴィンセントは魔力を込める。
「温めろ」
手の中の精霊石が、じんわりとちょうどいい程度に温かくなった。
「うわっ、ヴィンス、ひどい!私、これでも結構すごい精霊なのに!知ってますよね、契約の主なんだから!ねえ、暖炉扱いですか?」
「五月蝿い」
ヴィンセントはワアワアと抗議する石の声を無視して、そっとヴァイオレットにその石を持たせた。
ヴァイオレットにとっては両手を使わないと持てないが、ちょうどお腹全体を温めるほどの大きさであった。
「ちょっと!どこに精霊石を赤ん坊に持たせるお馬鹿さんがいるんですか!落としたらどうするんですか!
…いや、しませんよ、そりゃあヴァイオレットお嬢様はしませんよそんなこと、ええ!
でもね普通の赤ん坊ってのはね、持てと言われてものを持つ生物じゃないんですよ!
ご主人もお嬢様も、その辺わかってます!?」
ヴィンセントに鋭く睨まれて、その精霊石は己の暖炉という役割を全うすることにしたが、なるほどやはりヴァイオレットはその石で遊ぶわけでも、叩き落とすわけでもなく、ただ利口に言われた通り握っているのであった。
精霊石。それは人間と契約した精霊が、その肉体と魂の棲家とする石である。
宝石のような見た目をしているが、その輝きの強さと色は、棲まう精霊によって違う。
ヴィンセントの契約精霊・フェリックスは、炎竜——火属性の精霊のうち、最上位クラスの精霊であった。
だからこそ、精霊石も滅多になく大きく、そしてその虹彩は燃えるような赤だ。
さらに、喋る。普通、精霊は言葉を発することはできない。
炎竜は最上位精霊であるからこそ、フェリックスは人の言葉を聞き取り、理解し、発言することができるのである。
もっともヴィンセントは、お調子者のフェリックスをやかましいな、と思っていることの方が多いのだけれど。
ちなみに竜と契約した人間は、ヴィンセントの他には、直近で言うと昨年崩御した先代国王しかいない。
契約できる精霊のレベルは、人間が持っている魔力の量にそのまま比例する。
つまり、炎竜と契約したヴィンセントは、かなりの魔力量の保有者だ。
ここまで言えばヴィンセントとフェリックスの異彩さを理解してもらえるだろうか。
それでも寒空の下では、両者はひとえに赤子の父親と赤子の暖炉でしかなかった。