3.生まれ変わってしまった黒いりゅう②
「それでは、失礼いたします」
静かに、でも上機嫌にヴァイオレットの部屋を出て行ったマーシャの、扉を完全に閉める音を聞くやいなや、わずか0歳8ヶ月のヴァイオレットは盛大にため息をついた。
———友?あの人間が?戯言を!
そう、ヴァイオレットは、マーシャが得意げに読み聞かせたかの本の内容について、たいそう不満があったのである。
「互いに大好き」ってなんだ。そんな関係になった記憶はつゆひとつもないぞ。
あの人間はひどく能天気で、来る日も来る日もやってきては、一方的にペラペラ、ヘラヘラと私に話しかけていただけだ。
それにあの人間はとても臆病で、弱いやつだった。
善良な人間ではあったが、度胸がまるでなかった。
腑抜けた顔で笑う素朴な男で、決して「人間の王を倒す」などと革命者のような態度は似つかない。
もっとも、私が魔法を使えるようにしてやったのも事実だし、あの人間が結果的には革命を起こし新たな王としてその座に就いたのも事実らしいが。
血を分け与えたのがあの人間との最後であったから、アレが今のこの国の初代王というのが本当なのか、にわかに信じがたい。
あの人間のその後の人生などどうでも良いので、そこは嘘でも真実でもどちらでもよいが、やはり先程の建国物語だけは、気に食わぬ。
ヴァイオレットの脳裏に、かの青年の麦穂色の髪、平民らしいちょっと日に焼けた肌がよぎった。
笑うと細くなるオリーブグリーンの瞳はいつもきらめいていた。
友達というか、あんなもの、ただの気まぐれに過ぎないのに。
ヴァイオレットはいささかに不満であったが、かといってそれをたかだか一介の侍女にすぎないマーシャに言ったところで、何にもならないことを知っていたから、あえて黙っていた。
もっとも、ろくに呂律の回らぬ赤子の体では、主張のしようがないのであるのだが。
しかし、ため息ぐらいは許してほしいものだ。
ちなみに子守としてヴァイオレットの部屋に残ったアンナは、赤子の息の音がまさか不満のため息であるとはつゆとも思わないので、ヴァイオレットのため息を当然にスルーした。
アンナは見たこともないほど繊細な細工が彫られた、明らかに高級なヴァイオレット用おもちゃを、丹念に磨くことに集中している。
これぐらいの最低限の関心が、ヴァイオレットには居心地が良かった。
過保護で暑苦しいマーシャは、二千年以上を生きた魂にとっては疲れるものであるのだ。
そもそも、仕事の一環でしかない雇い主の子の世話を、なぜああも愛情を持って接することができるのか。
ヴァイオレットは不思議でならなかった。
——————黒竜から人間になって8ヶ月。
そもそも黒竜として生きていた頃は、大半を眠って過ごしていたため、いつ死んだのかも知らないままだった。
ヴァイオレットはまさに、目が覚めたら人間の赤ん坊になっていた、という奇想天外な人生の始まりを受けたわけである。
しかしヴァイオレットは存外、この運命をあっさり受け入れた。
まあ、そういうこともあるか、と。
なぜ死んだのか、なぜ人間になったのかは、そのうちわかるだろうとぼんやりとしか考えなかったし、別にわからなくても構わない、というのが正直なところだ。
困っていることは、人間になってしまったことよりも、人間の生態がわからないことだ。
赤子は喋らないし、歩けないし、でもそれ以上に厄介なのが、周囲の人間の甘い態度である。
無垢で、無知なか弱い存在であるかのように扱われても、どうすれば良いのかわからない。
努めて人間の赤子の態度をとっているつもりであるが、ヴァイオレットの物静かさや、妙に達観した態度を、不審そうな目つきで見る使用人も一定数いる。
その赤子らしからぬ言動は、確かに他の貴族一家であれば病気なりの疑いをかけられるべきであるかもしれない。
しかし、このヴァイオレットが生まれた家にあっては、そこまで大きく問題視されることはなかった。
何故なら———
ガチャリと、ヴァイオレットの部屋がにわかに開けられる。
「うむ、寝たか」
そういって、ツカツカと迷いなくゆりかごに向かって歩く男。
ホワイトシルバーの長い髪はひとつに束ねられ、切れ長の目元はアイスブルーの眼光鋭い。
その眼差しで、ゆりかごに横たえるヴァイオレットを見下ろし、次に顔を上げてじろりと子守のアンナを一瞥した。
端正な顔立ちではありながらも、見る者の背筋を凍らせるような冷徹な空気を身に纏うこの男であったが、アンナはやはり現実主義者なので、身じろくことなく素早く磨き布をポケットにしまい、堂々とカーテシーをした。
「いいえ。つい先ほどお昼寝の時間としてゆりかごにお戻りいただいたばかりなので、眠ってはいらっしゃいません。」
この男の一瞥はほとんど蛇の睨みに同じだが、怒っているわけではないことを、アンナは冷静に悟っていたのである。
この男は誰なのか?
この屋敷において、何の前触れもなくヴァイオレットの部屋に足を踏み入れることのできる者、それはただ1人。
彼女の父親であり、屋敷の主人であるヴィンセント=ホルシュタインである。
そう、この男こそ、ヴァイオレットが異常扱いされない最大の理由である。
冷徹、無表情、無口。
朴念仁を絵に描いたような性格のこの男の遺伝子を半分持った娘ならば、そりゃあ、赤子の頃から物静かなこともあるだろう。
こうして屋敷の使用人の認識は一致し、恐ろしいほどにそっくりなその性格に、恐怖を超えて感動を覚えるのであった。