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女は龍になれない

八月十二日、日本軍は遂にシベリアに出兵。ウラジオストックに上陸。


米騒動も八月十三日には、名古屋、京都へ広がり、やがて、百万人を超える暴動へと発展。日本史上最大の民衆暴動となるのです。 


時の内閣総理大臣寺内政敦は、報道管制を敷き、陸軍まで動員し押さえ込もうとしましたが果たせず発砲。死者まで出始めました。

それでも暴動は全く収まらなかったのです。




今日は八月十五日。

きゅうりの馬と、茄子の牛を供えて、鬼灯や、お花を飾り、送り火の準備も整いました。


お盆の支度も終えて一休み。

スイカは美味しいけど、暑いのに風がふかず、風鈴の音もなし。

父のあげた日章旗も鯉登りもしょんぼりしています。


「今日は泳いでないわね。あれじゃ、龍にはなれそうもないわ」


スイカに塩を振りながら、私は言いました。


真夏の入道雲に鯉登り。

屋根に避雷針はあるけれど、にわか雨が降って庭の松みたいに竿に雷が落ちて、鯉のぼりの丸焼きになったら嫌でした。


「なあ、保坂。龍になるって、どんな風になったなら『龍になれた』っていえるのかな」


団扇をつかいながら、ふと、兄さんがそう言ったのです。


「夢が叶った時、人は『自分は龍になれた』って思うのではないかしら」

私がそういうと、


「俺なら、『本を出して一流の詩人になれた時』」

と兄さんが言います。


「じゃあ、僕は『一生に一回、良いことができた時』ですね」

と保坂さん。


「しのぶの夢は、やっぱり女流作家かい?」


そんな夢もありました。


今年の四月、東京女子大が、創立され、今なら私でも入れたかもしれません。

でも、私よりずっと、年下の女の子達に混じって、一人ぼっちで頑張るほどの情熱は、悲しい事にもう私にはありませんでした。


「私は、『大好きな人の夢の手助けができた時』かな?」

そう答えるしかなかったのです。


「三人とも叶うといいですね」

保坂さんが嬉しそうに言いました。


でも、「だったら良いね」は、「本当」にはならない。

それを誰よりよく知っている私でした。

本当の夢は「兄さんのお嫁さんになりたい」impossible dream.見果てぬ夢でした。


そんな一九一八年の夏を、私たち三人はいつも一緒に過ごしたのでした。




夏休みも終わる頃、町の花火大会を見に、蛍の飛ぶ川沿いを花火のよく見える土手まで、三人で歩いていました。


気がつくと、いつの間にか兄さんが遅れて、保坂さんと二人で歩いていたのです。


「寛治さん、どうしたの?」

振り向くと、少し手前の道の脇にうずくまっています。


「鼻緒が切れた。先に行ってくれ」

小さな声がしました。


「直せますか? そこ、暗いでしょう」

保坂さんは兄のところに走って行きましたが、すぐ戻ってきました。

変な顔をしています。


「大丈夫だそうです。早くしないと、花火の打ち上げが始まってしまいます。行きましょう」

そう言って私の手を取ると、ぐいぐい引っ張るのです。

私は小走りで、息が切れそうでした。

だからその後、兄さんが咳込んでいるのに、私は気づかなかったのです。


土手につくとちょうど北の空に花火が上がりました。

打ち上げるところが近いので、ものすごい音です。


「花火の音は怖くないんですか?」

私が、からかってそういうと、


「花火は、僕に落ちてきません。とても綺麗です」との返事。

なんだかすごく緊張しています。


「あら、雷だって綺麗ですよ」

やっぱり怖いんだ――と、内心思いながら。


私は、あれ以来、保坂さんをからかうのが癖になっていたのです。


「あの、しのぶさん、僕と………」


ドン・ドン・ドン・パーン! 花火が連続して上がりました。

思わず、耳を塞ぐほどの音でした。


「え、何かいいました?」

「いえ、月が綺麗ですね」

保坂さんは下を向いてため息をついています。


たしかに南の空に上った今日の月は、綺麗な満月でしたけれど?






「おい、しのぶ。保坂になんて返事する気だ?」


朝のお膳を運んできた私に、兄さんは小さな声で聞きました。保坂さんはまだ寝ているようです、珍しい。


「返事? なんのこと。『月が綺麗ですね』に返事なんて必要あるの?」


「お前、本当に花火の音で聞こえなかったのか? 

あいつ、あの時お前に結婚を申し込んだんだぞ。

『月が綺麗ですね』は、夏目漱石の有名な訳文で、I love youって意味なんだよ。

せっかく気を利かせて二人きりにしてやったのに、何だよもう」


「ええっ!」


結婚。行き遅れの私です、父さんも母さんも、反対はしないでしょう。

その上家柄、仕事、何より人柄が最高です。でも私はあの方と結婚したいのでしょうか?


「お前はどうだ。あいつを好きなのか? 保坂は、俺の親友だ。

いい加減な気持ちで弄ぶなら許さんぞ」怖い顔でした。


「私は……」

 

返事が出来ません。

保坂さんがいくら良い人でも、私の気持ちは昔と少しも変わっていないのです。

結婚したい相手は、兄さんなのです。


「やっぱりか、保坂も可哀想に。あいつは憧れのお姉さん似の、お前の顔だけ見てるんだ。  

まったく男の友情は儚いな。顔だけなら、同じ顔なんだから俺にしとけばいいのに。

そんなに女がいいかね。それともお前、昔の約束にまだこだわってるのか」


「だって、屋根の上で指切りしたじゃない。

『結婚なんてしないで、ずっとここで二人で暮らそう』

そう言ってくれたの嘘だったの?」


「馬鹿、いつまで、子供みたいなこと言ってるんだ。

明日、『はい』と返事しておけよ。そうすりゃみんなうまくいくんだ」


そう言い捨てると、スタスタ行ってしまったのです。


「寛治さんの馬鹿!」

地団駄踏むしかありませんでした。


子供の頃の約束の何が悪いの。私の心はあの時と少しも変わってない。

なのになんで周りは勝手に変わっていくの。

なんでなりたくもない大人に、無理矢理ならなきゃいけないのよ!



その日の昼ごろ、保坂さんの家の方が、お父様に頼まれて、荷物を届けに来てくれました。舶来品の絵の具箱でした。


その初老のお使いの方は、私の顔を見るなり

「ああ、これは、お手紙の通りの方だ。おぼっちゃまは素晴らしい方を見つけられましたな。もう爺はいつ死んでもかまわんです」


そう言って涙ぐんでいるのには困りました。

私はまだ、お返事をしていないのに、保坂の家では、もう私を保坂さんの嫁と決めてしまっているようなのです。


「ホンにおぼっちゃまは昔から恥ずかしがりで、おなごが寄ってくるといつも逃げ回ってまして。女の人がダメな癖じゃないかと、家中で心配してたんですわ。

とくに寛治さんとは、あまりにもいつも一緒で、恋人じゃないかと、つまらん噂までされまして。

でも、こんな素晴らしい妹さんを紹介してくださるとは。有り難や、有り難や」


恋人。その言葉を聞いた途端、世界が真っ赤に染まりました。


『ベターハーフは男と女とは限りませんことよ』貴子様の言葉。

〝男と男〟の下に引かれた線。


兄は昔から、女の匂いのしない人でした。

女学校時代、私の兄さんということで、騒いでいた女の子もいたのですが、兄さんは鼻も引っ掛けません。


私との約束を守ってくれているのだと、私を一番に思ってくれるのだと、信じて疑わなかった私。


貴子様は広い人脈の中で、兄さんの悪い癖の噂を聞いたのではなでしょうか。

だから無邪気に兄さんを信じ切っている私に、さりげなく注意してくれたのです。


「俺にしとけばいいのに。――そんなに女がいいかね」

 

兄さんが本当に好きなのは私ではなく、保坂さんなのです。

生まれて初めて浮かんだ兄さんへの疑いでした。

逃れようのない本気の疑いでした。


私が突然黙ってしまったので爺やさんは、困ったのでしょう。

荷物を置いて、別れの挨拶をすませると、帰って行きました。


私の心に燃え盛る赤い渦を残したまま。




「今日はどうしました? 顔色が優れませんが」


イーゼルの向こうから、心配そうに保坂さんが言いました。

本当のことを言うわけにもいかず、とっさに別の話をして誤魔化します。


「ちょっと眠れなかったものですから。

保坂さんも知ってるように、兄はあまり丈夫な方ではないのです。

来年四月の徴兵検査に受かれば、兄もシベリアへ行くことになります。

北の方の戦いには、北国の出身の人間が優先的に送られるそうですから。

父も心配して、大学の研究生として残り、徴兵検査を延期できないかと言っていました」


「僕も、来年医学部を卒業したのち、赤十字の一員として戦地に赴く事になると思います。だから行く前にハッキリさせておきたいのです。

よかったらしのぶさん、僕と結婚していただけませんか? 寛治くんのためにも」

 

そういうことか!

 途端に、頭の中が、また真っ赤になりました。


「いいえ、嫌です、絶対に嫌!」


叫ぶと、私は彼の前から逃げ出しました。

双子というのは酷い。考えていることが、手にとるように察せてしまう。


兄さんは、私を隠れ蓑に使おうとしているのだ。

『妹の夫、義理の弟』という公式の立場で、恋しい男を側に置くために私を嫁にさしだしたのた。


祖父には、商売のために嫁に行けと言われ、母には、家族のため嫁に行くなと言われ、世話する家族がいなくなれば、『行き遅れ』と言われて――

誰でもいいから嫁に行けと世間はいう。


あの兄さんまでもが、私を自分の都合で道具扱いにするのだ!

母のお腹の中で一緒にいた私達なのに。私達はベターハーフではなかった。


私はただ、「二人は一生一緒」という儚い夢を、一人がってに信じていただけだったのだ。



もう涙も出ませんでした。

そして薬を飲んで一人で自殺を図りました。

私に赤い紐で手を繋ぐ相手はいなかったのです。




雪の原の池の中、月に向かって荒れ狂う赤い大きな魚の夢を見た。


――ここを出たい、龍になりたい――


でもどこにも滝は見つからず、魚は月に向かって力一杯跳ねる。

飛べない魚は雪原に落ち、雪に沈んでいく。


 なのになお、魚は沈みながら必死に雪の中を泳ぎ続ける。 


 堅雪の氷が鱗を剥がし、滲んだ血がゆっくりと雪原の表に浮かぶ。

凍った堅雪の、何処までも続く平な雪原に、雪に身を削り泳ぐ魚の血のしみが、何処までも続いていく。


ひたすら魚は泳ぐ、自由にむかって。


――女は龍になれないなら、なぜそんな夢を教えたの――
















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